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笑止千万  作者: 曲瀬樹
第三期 あけぬなづきの海
34/42

第三十一話 智の花、糸の口

 安酒場の灯りが点々と灯るダウンタウンを、女はひとり黒衣を揺らして歩いている。まるで、脳の内容物が頭蓋から剥離して体液に浮かんで揺れているような、そういった酷く不快な頭痛を抱えながら、華は未だ血の止まらない胸を押さえ、歩いていた。致命傷ではなかった。けれど、抜き身の刀が胸を貫いたのだ。なんとかしなければならなかった。つまりは、いつものように。


 華は、板が打ち付けられて店主不在のバーの横から階段を下り、地下通路に入ってから、懐に手を入れて黒い革のケースを取り出した。彼女の手の内、その革の隙間からするりと身体を滑り出させたのは、旧時代的な形状をした鍵、十一本。これを持ち歩いていてよかった。


 彼女はその十一本の中から最も古いと思われる錆た一本を選び出し、奥へと進んだ。カビ臭い通路の先にある、アルミのドア。反響する足音がそこで止まる。取り出した鍵を差し込むと、鍵は軋むような音を立てながらも開き、ほどなくして彼女の手中で折れた。折れた肢の先が鍵穴に刺さったままなのを見下ろし、華は己の手の内側に残った鍵の持ち手部分を革のケースから外すと、振り返りもしないまま後ろへとに投げ遣った。金属がコンクリートに跳ねて転がる鈍い音が鳴った。音が鳴り止まぬうちに華はドアノブを引いていた。


 目の前に現れた板張りの床から顔を上げ、自分の視界にかかった横髪をかきわけた時には、華はしんと音のない書架の合間に立っていた。星々の下でからん、からんと頭上のランタンが風に吹かれて音を立てる。彼女は息を一つ吐いてから胸を押さえ、目当ての場所に向かった。


 シャツに包まれた肌の上を己の血が滑り落ちていくのを覚える。彼女はそれでも足を前に進め、進むのをやめないままにぼんやりと考えた。なぜ私はこんなことをしているのだろう。そういった類の問いに対する答えは彼女の中で自明のものだった。検校様のためだ。考える余地もないほど明らかに、私のなすべき全てのことは、あのひとの導きにある。


 そういった思考を自分自身に染み込ませるようにして頭の中で繰り返し、そうするととうとう彼女の頭の中は、そういった堂々巡りの思考と、そこに一定のリズムを与える彼女自身の靴音だけになった。私はあのひとに感謝している。あの日空っぽのまま落ちていた私に「華」という名前と役割を与えてくれた。あの人は何にもない私を自分の傍に置き、導いてくれる。私はあの人に定義づけられて生きている。いまだ空っぽのままの私をあの人は、今も。


 彼女がびたりと足を止め、そのままやつれた顔を上げると、そこは辺りと変わらない書架の合間──では、なかった。彼女の目の前にある書架の中央、本が詰まった棚に囲まれたその腹部には、両開きの扉がついていた。目の細かい木の格子の周りには花々の装飾が施され、引き手には重々しい金の南京錠がかけられている。華は重い頭を首の上で揺らしながらその扉に近づき、心まで委ねるようにして身体をもたせかけた。格子の上にびたりと張り付いた彼女の耳は、扉の中の音を聞いている。そうすると、無音の扉の中から、小さなざわめきが湧き上がり、次第にその物音は大きくなって彼女の耳に押し寄せた。そのとき彼女の身体に異変が起こった。その身体は腹の内側からびりびりと震え始め、扉にもたれかかったままの彼女の身体は、まるでその内側から揺さぶられるようにして激しくのたうった。意志に反して暴れる身体の抑えるため足元に力を込めるが、それでも黒衣の身体は仰け反り、ねじれ、硬く噛み締められた奥歯の隙間からとうとう濁ったうめき声が漏れる。そうして荒い息を漏らし髪を振り乱しながら、彼女はそれでも痛みの激流を耐え抜き、それから不意に力が抜けたように転倒した。ぐらりと書架の間に倒れこんだ彼女は、すぐさま這って例の扉から距離をとる。彼女が離れた扉はひとりでに軋み、内側からこじあけられんばかりに揺れ、かかった南京錠が吹き飛びそうなほどに激しく音を立てている。息を整えながらその様子を見つめていた彼女は、そこでシャツのボタンをはだけさせると、血のついた胸元を露わにした。血が溢れ出していたはずのその場所に、もう傷はなかった。塞がれていた。それを見た彼女は淡々と息を吐くと、シャツを元に戻して上着を着直し、眼鏡の位置を直した。


 顔にかかった鬱陶しい髪を横に払い、背後に扉の南京錠が揺さぶられる音を聞き流しながら、書架の森の中を再び歩き始める。彼女の仕事は「ここから」だ。


 ***


 まぶたの裏に焼きついたランタンの色が、瞬きするたびに視界の真ん中にちかちか浮かぶ。そんな気がしたまま、私は浮き足立ってカフェのホールを回していた。お釣りを何度か間違えてお客さんに怒鳴られても、そんなのがなんだっていうんだろう。そういうふわふわした、夢の中から出てこれてないみたいな幸せな気持ちだった。


 地下の小部屋で、私とまもるは向かい合ってしばらくの間さめざめと泣いていた。二人揃って泣いているから、自分が泣いているのか、まもるが泣いてるのか、そういうことがもう別々ではなくて、ランタンに温められた部屋の中の空気ごと、ふたりで一緒に暖かい涙の中に浸かっているみたいだった。そのうち、まもるがぽつりと、


「帰らなくちゃいけませんね」


 と言って、私が、そうだ、とか、そうね、とか言って。坂の下のアーチまで私を送ったまもるが、はにかんでから踵を返して部屋へと戻っていくとき。あの後ろ姿が、今も眼に浮かぶようで。


 あれからずっと、私は夢の中にいるみたいだ。坂を上がってしばらくしてから、吉見のふたりが血相変えて私の肩を掴んで私を叱ったときも、冷めきったラザニアを持って帰ってきた私に春待ちゃんが涙ぐんで抱きついてきたときも、私はやっぱりふわふわした気持ちのままだった。三人ともに心配かけたし、不安にさせたし、悪いことをした。でも、そういうことの全部が仕方ないことだったって思えるような、そんな素晴らしい、仄暗い夜の朝だったんだ。


 一体どこにいたんだ、と吉見の二人が尋ねてきたのは当たり前のことだった。けれど私は、「どこかもわからず、ずうっと道に迷っていたの」なんて嘘をついた。足が痛くてしんどい、春待ちゃんのこともあるし、もう帰りたい。そんな風にごねたら、ふたりは顔を見合わせた後、私を家まで送ってくれた。アパルトマンの入り口で二人を帰してこっそり舌を出したのは秘密。だって、まもるの声を知っているのは、私一人だけが良かったんだ。昨日の地下室でのお喋り、熱っぽい彼の声音、まっすぐな瞳、涙ぐんで私を見つめていたときのあの目尻の形。そういうものの全部、まさしく全部を私は自分で持っていたくて、私ひとりだけで持っていたかったんだ。誰にも渡したり、見せたりしないで。そう思う私のことを、私自身なんだか後ろめたかった。でも、それと同じくらい、胸の奥が疼くような感じがして。


 はあ、と私の喉の奥からゆったりとしたため息が漏れた。このまま今日がずうっと続けばいいのに。こういう気持ちのまま、ずうっといられたらいいのに。そうやってお客のいなくなったテーブルを片付けて、時折手を止めながらまたあのときの会話を思い返す。愛さえあれば、と彼は言った。そうかもしれない。愛さえ。そう口の中で繰り返しながら私は彼の柔らかい形に歪んだ目尻のことを思い出していた。


「私はどこだって……」


 私の口がそう呟いていたとき、私の手がぴたりと止まった。テーブルに置かれたティーポットの銀色の蓋の中に、何かが映り込んでいる。私の姿じゃない。私の後ろにある、別のもの。


「話したの?」


 後ろから聞こえたその声に、私は、私の体が彼女のそういう声色や、突き放したような調子や、こうして後ろからその声が飛んでくるということ自体をずっと恐れていて、恐れるあまりにそれをずっと待ち構えていたのを、つまりはそういう私自身のことを、思い出したのだった。私は振り返った。ゆっくりと、ぎこちなく私の両足が動いて、スピーカーから流れたままのジャズに私の靴の底が擦れる音が滑り込んだ。そのくるりとした一瞬の間に、私は路地裏で私の胸ぐらを掴んだあのひとの病気みたいな顔を思い出していた。すると彼女は──茜は、壁に寄りかかったまま腕を組み、私のことをまっすぐに見つめていた。勘の良さそうな顔をしているな、と思った。そう思ったのと同じくらい強く、あのひとはやっぱり約束を守らなかったんだ、とも思った。そして私は、茜の腕に、私が更衣室のロッカーにかけたままのはずの、私の上着とポシェットが巻きつけられているのを見つけた。


「話したのね」


 私の目線が上着から茜の顔に戻る前に彼女がそう言ったから、私はその言葉を吐き終わった後の茜の顔を見つめるしかなかった。私の口は、ひどく心細そうな、薄情そうに震えた声で、


「……怒ってる?」


 と、彼女の質問には答えないで声を出した。


「失望した」


 茜は私の目を見なかった。それから茜は組んでいた腕を解いて、上着をこちらに差し出した。


「それだけよ」


 私は茜から力なく上着を受け取って、それでも彼女の目をまっすぐ見ようとした。けれど、彼女はそれを許さなかった。彼女の伏した目は床の上を滑って通りに面した窓ガラスの方を向いたかと思うと、私を通り過ぎ、壁から身を離した彼女はそのまま厨房に消えた。


「また明日」


 という茜の声が、閉じる休憩室の扉の音に挟まって、その余韻がなくなった後、私はカフェの中にひとりぼっちだった。まだ日付も跨いでいないのに。まだ、帰る時間じゃないのに。店の中のまばらなお客たちが皆んな、こっそりと私のことを盗み見ている。上着とポシェットを両手に持ったままの私はどうしたらいいのかわからなかった。バイトの制服を脱げないままでしばらくそこに立っていた。

 言い訳も許してくれなかった。


 ***


「派手にやられたもんねえ」


 と呆れ顔の椿に腰を包帯で巻かれながら、


「恨みを買った覚えはないんだけどね」


 と枇杷は不機嫌さを隠さない。いつもの華屋の洋間で暖炉に火を灯し、そこに集まったのは華屋のひとでなしたち。とはいっても、枇杷と椿と真木の三人だけなのだが。


「うちを攻撃してきたってことなんでしょ」


 しょ、の音に合わせて包帯の端をきつく結んだ椿に、枇杷がうめき声を上げ、悪びれない椿の顔をひと睨みする。それから枇杷はため息をつき、


「違う」


 と言って床を睨む。それから枇杷はすぐさま言葉を続けた。


「狙いは僕、ただひとりだった。いや、あれは」


 枇杷の目元が歪んだのを、肘掛にもたれて立つ真木が見ている。


「『僕が持っているもの』を狙っていた」


 持っているもの? と椿が繰り返し、真木は微かに頭を傾けた。枇杷は眉根を寄せ、口元に手をやる。


「あれは何か、恐ろしく重要なことを隠している……」


 枇杷はそのまま神経質そうに足を揺らし、暖炉の火の色をじいっと睨みつける。


「何か、僕たちに、知られてはならないようなことだ」


 そこまで言ったとき、


「っ……」


 枇杷がまた脇腹を押さえるので、真木はため息をついた。残りの包帯を救急箱に詰めながら、


「医者にかかったほうが良いわね」


 とうんざりした声を出す椿から離れるようにして枇杷は肘掛け椅子から立ち上がり、


「そうだな。呼んでくれ。外に出たらまた襲われそうだ」


 と言って数歩先のカウチに倒れ込む。そのまま手近なクッションを引き寄せて顔を覆った枇杷のことを見て、真木と椿は眉を上げ、顔を見合わせた。


 ***


 書架にもたれかかり、華は手元の本のページを一枚一枚めくっていた。狂犬女が死んだあの夜のこと。あの夜の中で起こったストーリーを、華はもう三度もこの本で辿っていた。あの夜の続きを一言一句逃さぬよう、行ごとにべったりと目線を貼り付け文字を追っていく。しばらくそうしていた後、華は痺れを切らして舌打ちした。おかしい、どうにもおかしい。本を閉じないまま、華はその文字の向こうへと沈み込むようにして思考に潜る。


 枇杷のことは多少知っているし、調べもした。ひとでなしに花開いて怪物のごとく変貌した「かすみ」のいた場所、あの地下牢に、枇杷は華屋の人間という肩書きで幾度も会いにきた。鉄格子の間から奇声を上げ続けるだけの彼女に語りかけ、彼の言葉に彼女はなんら人の言葉を返さないのを華は何度も見てきた。それでも枇杷はかすみと言葉を交わそうと試み、いつも必ず「また来るよ」と声をかけて出ていくのだ。


 華は、枇杷が己のことを化け物と思い、同じく化け物じみた人間に悲哀のような親愛を覚える人物だということも知っていた。枇杷には確かに、かすみへの愛着があったわけだ。


 華は深く息を吐くと、あの夜のストーリーを辿るため、手中のシナリオに四度目の開演を許した。枇杷は愚弟たちの戦闘に割って入り、椿と共に敵二人を押さえ込んであっという間にその場の勝敗を裏返した。彼ならば敵二人の首二つを持ち帰るのも難しくはなかった、かもしれないが、彼は路上に転がった愚弟一匹の命を救ってやることを優先した。真木を抱えて椿と共に華屋へと退散した枇杷は、すぐさまもう一度街に出、かすみを探した。己の手で彼女を止めねばならないと、彼の足は夜の街を恐ろしく速く駆けた。そして、枇杷は八手とかすみの斬り合いの中に飛び込み、かすみに馬乗りになって彼女の胸を。


「刺した」


 華は淡々とした口調で繰り返し覚えこんだシナリオに終幕を与えた。黒いドレスの彼女の胸から生えた白銀の色。色の見えない彼女にも、そのはっきりと分断されたコントラストを想像することはできた。彼女を刺した彼が存在していた、じっとりと汗ばむような、けれど凍える冬の空気。胸に押し寄せる後悔の苦悶。


 そうして彼は自分が殺したかすみを抱き上げ、裁判所へと赴いた。そのときのことは、本で読んだ知識としてではなく、華自身の経験として知っていた。顔を強張らせたまま、ゆっくりとかすみの死骸を自分に向かって差し出した枇杷から、骨ばった少女の身体を受け取った時の、小径の薄暗さ。悲壮を空気に散らしながら遠ざかっていく枇杷の背中。華自身が、それら全てを己の目で見ていた。


 それなのに。華は思索にふける余り、無意識に下唇を触っていた。そうだ、「それなのに」、彼の物語の中には「鍵」が欠けているのだ。いや、枇杷がかすみをその手で抱き上げた時、彼女の体から鍵が落ち、枇杷はその鍵をポケットにしまった、ということははっきりと記載されている。第一、華はこの記述を頼りに枇杷に狙いを定め、枇杷に鍵を返すことを要求したのだ。けれど、実際に会った彼はしらばっくれもいいところ、もしくは「本当に知らないのではないか」と思われるような態度をとり、華は大いに戸惑うこととなった。


 そして、枇杷の「不可解な」態度を裏付けるかのように、華の手にした本の中には事実の羅列が姿を見せていた。鍵を拾った後、枇杷の物語の中には、二度と鍵の存在が現れないのだ。最初に読んだときは気づかなかった。枇杷が鍵を拾ったというから華はそれを頼りに取り返しに行った。けれど、おかしい。噛み合わない。


 前提の話をすれば、ここにある書物は皆、その書物の題材たる人物自身が見てきた景色を描いているというのが前提だ。そうだとすれば、確かに、その人物が重要だと思わなかったもの、つまりその人物の意識に上らなかったものは、この本に記されることはない。彼は気にかけていた「妹」の形見の鍵を持ちながら、それを一度も顧みることはなかったということだろうか。そうして論理立てて、華はすぐに答えを出した。あり得ない。噛んだ下唇が裂け、そこにじわりと赤い色が滲んだ。そうして壁に行き当たった華は本を閉じ、活字を追って疲れた目に瞼を下ろした。


 ここに書かれていることに間違いはない。それはかつての十夜の言だ。掃き溜めの司法機関である十夜たちは、物事を公正に裁くため、最も視野が広く精巧な目を持たねばならない。そうしたとき、この書架の森に入ることができること、ここの本に書き出された掃き溜めの中の物語を閲覧することができること、それこそが、彼らに与えられた特権となった。特権の行使によって彼らが知りうる情報には、絶対的な正しさという価値が与えられている。正しさ、つまりは、「語り手の見たままの世界を描き出す」という、正確さという価値を持った正しさが。


 十夜に教えられたことは多い。まだ自分がこの街に来たばかりの頃、華は十夜に多くのことを教わった。華は書架から夜空を仰ぎ見て、懐かしい一場面に思いを馳せていた。




「昔はね」


 幻想のような景色に戸惑いながら後を付いてきた華は、先んじていた十夜がそうしてぽつりと言葉を投げ出すのを聞いていた。


「ここにもひとがいたのよ」


 こつ、こつと、十夜のブーツが木の床を叩きながら進んでいく音が華の耳にも届く。華は、風の音以外には何も聞こえない、静けさに満たされた風景を見回す。整然としてそこにある、どこまでも続く本の森。けれど人の気配のない深い森。


「ここにあるのは皆んな、そのひとが書いた本だった」


 十夜の足先が書架のほうへと向かい、夢遊病者のようにふらふらとした足取りが止まる。十夜は手を伸ばして書架から一冊の本を探り当て、手近なページを開いて紙面をなぞった。紙の上に載った文字のかすかな凹凸を探るようにして彼女は文字列をなぞり、それから彼女の口元には聖女のような微笑みが宿る。


「そのひとはね、相手の口から紡がれる音の物語を、自分の筆でそこに落としていくの。ひとつひとつ、相手の言葉をすくい上げるみたいに。言葉のひとつひとつを抱きしめるみたいに惜しみながら」


 十夜はページをひとつひとつめくりながら、愛おしむようにその紙面を撫でる。


「時々泣いてた。あのひと。涙ぐみながらも書いていた」


 華に見える十夜の横顔は穏やかだった。


「あのひとにとっては、言葉を尽くすことが愛情だったのね」


 十夜はそう言って本を優しく閉じ、革張りのそれを母親じみた愛情深い風情で抱きしめた。


「優しい時間だった」


 十夜は抱きしめていた本を手探りながら棚の隙間に当てはめ、そっと元の通りに押し入れた。


「でも、いなくなってしまった」


 彼女はその背表紙からそっと手を離し、二、三歩後ずさって、また書架の間を進み始めた。華もまた、十夜の後ろに従って歩き始める。


「ひとはいなくなって、今はただ、本が増えて行くばかり」


 殺風景な空気の中を、十夜の正確な足音がまた、こつ、こつと繰り返される。彼女の口から吐き出されたため息が柔らかい音色を持って冬の中に溶けていく。十夜は足を止めると深く息を吸い込み、その声音にほころんだような温度をのせた。


「今は、この図書館自体が息をしているのね。あのひとの意志だけを継いで」


 生きているのよ、と、十夜は天井を見上げるようにその眼差しを持ち上げて囁く。開いた見えぬ目が、けれど天井の向こうを見ている。


「そうして、幾多の物語を紡ぎ続けている」


 胸の上で手を組み群青の空を仰ぐ彼女の姿は、まるで星に祈りを捧げる無垢な少女のようであって。十夜の視線に吊られるようにして、華もまた、色のない己の視界に降り注ぐ星々の輝きを見上げた。彼女には、その美しさがわからなかった。彼女の世界には、誰かの眼に映る夜空の濃淡や、星々の曖昧に溶けた色の違いが欠けていた。けれど、その自分にはわからない世界の彩というものを、目の前の人物、世界の色も形も確かめられぬはずの盲人の女が、何より深く愛しているということを、彼女は嫌でも理解したのだった。ゆらゆらと華の視界の中央で揺れていた十夜の髪がそのときはらりと広がって翻り、見えぬ目がはまったその顔が華の方に振り向けられた。


「私たちはね、そうして神話になったの」




 あのときの十夜の少女のような微笑みを思い浮かべていた華は、自分が手中の本の文字を目で追いながら、その中身を追っていなかったことに気がついた。彼女は数ページ戻ってまた中身に目を通し始める。けれどやはり、枇杷があの鍵に意識を上らせているような記述は見当たらなかった。どこにもない。やはり、「書くほどのことではなかった」ということなのだろうか。


「でも」


 華の口から思わず声が漏れた。やはり、おかしいのだ。彼女はそれから慌ててページを戻り、狂犬女が死んだ夜、あの「とどめ」のシーンまで戻って、それから注意深くそのページを見回し始めた。


「『ここに書かれていることに間違いはないのよ』」


 十夜の口から吐かれたその言葉を口に出しながら、華は慎重に紙面をなぞり、その指はゆっくりと本の綴じ目、つまりはのどの部分へと入っていき、何かに引っかかって止まった。華は眉をひそめ、ランプの仄暗い明かりが照らす図書館の中でそっと手袋を外し、今度は素手で先ほどの「引っかかり」に触れた。指の腹にかり、と当たる微かな凹凸。華が思い切って本ののどを開くと、その凹凸の正体が彼女の目に映った。「とどめ」のシーンを描いたそのページののどには、上から下まで乾いた糊付けの跡があった。はっとして別のページと見比べてみるが、糊付けの跡があるのはそのページだけだった。


「差し換えられた……?」


 そうして口に出してみると、彼女自身その言葉に驚き、今度は別のことにも気がついた。そのページには、所々微かな凹みがあるのだ。枇杷という字が刻まれた部分、その紙面が、他より「薄い」。その微かな凹みと紙繊維のほつれを指の腹で何度もなぞり、華は確証を得た。元来あったはずの文字が、そこから削り取られているのだ。つまり、つまりは。彼女の吐く息が熱く温度を上げ、喉の奥それ自体が震え出した。ハイヒールの中に押し込めた足指の先に自然と力が篭る。


 ここに来た誰かが、元あった名前を消して書き換え、別の場所からこのページを持ってきて、この部分に差し込み、改竄したのだ。何のために? 明白だ。改竄しなければ「誰か」にとって都合が悪かったからだ。なぜ都合が悪い? 元々のページには、知られてはならないことが書かれていたからだ。 誰に知られてはならなかった? そこまで胸の内で問答を繰り返した華は、最後の問い立ての答えを既に見出していた。私だ。この、私だ。ここに出入りするひとでなしは本来この私のみ。目の見えない十夜には字が読めない。このページに手を加えた何者かがこの本の読み手に想定しているのは、私に他ならない。そしてその私から本来の情報をむしりとるため、かの人物はこのページを改竄した。そうだ、この私を、欺くために。華は頭の中でそこまで言語化してから、左手の本をゆっくりと頭の上に上げ、そこから一気に振り下ろして激しく床に叩きつけた。本は反動で跳ねて転がり、どこかのページを開いて書架の合間に打ち捨てられる。華は今度、苛立つままに踵で床を踏みつけた。


 騙された。どこの誰ともわからない、存在すらも想定していなかった「誰か」に。彼女自身にはまったく見ることもできない死角から、何者かの手によって彼女は完全に出し抜かれたのである。彼女の怒りは凍りついた瞳の奥でますます激しく燃え上がる。そうして激情の最中にありながら、彼女の冷徹で正確な思考回路は、さらに進んだ問いへの解を見出していた。改竄を施した何者かが、華よりも先にこの本に触れている。つまりは、華が未だ取り戻せずにいる鍵を使って、すでに誰かがこの本の森の中に入り込んでいるのだ。あの鍵は、もう、使われている。そして、改竄した人物こそが、華をうまく騙くらかしてにやついた顔をしながら、今も鍵を持ち続けているのだ。彼女は自然とそう考えて、絶望感が自分の胃を締め上げるのを覚えていた。


 「あの場所のことは、他のひとでなしに知られてはならないのよ」十夜にはそのようにも言われてきた。何度も、何度も。だから、華はその言いつけを守って鍵を使い、司書として、書記官として、裁判所の猟犬としてこの場所に入り、ここの秘密を守りながら己の責務を果たしてきた。けれど、彼女がそうしてずっと守り続けていたものを容赦なく壊し、侵し、あまつさえ彼女を欺こうとする人物が、確かにこの掃き溜めの中に存在しているのだ。華の胸の中は、その人物に対する怒りと、己の積み上げてきたものが一撃のうちに突き崩されることに対する恐怖感で半々になり、どちらの感情にも寄り落ちられなくなった彼女の顔面は蒼白として、ついに一切の表情が消えた。


 鍵を持っている人物をなんとしても見つけ、一刻も早く鍵を取り戻し、その人物自体を処理しなければならない。知りすぎた、そして、私のテリトリーを侵しすぎたその人物を。


 そう結論づけた華は、くらり、と自分の身体の軸が傾き、世界が揺れるのを覚えた。傷は治った、だが、身体も頭も使いすぎた。そうしてよろめいた彼女は思わず書架の中に収まった本たちの背表紙に手をついた。深く息を吐く。それから、彼女の手の下でじっと息を殺している本にさえ腹が立って、彼女はそのまま手を下に滑らすと、本が並べられた書架の横板に触れ、そこに己の異能を流し込んだ。一瞬の間も置かず、積み込まれた本の奥からめりめりと裂けるような激しい音が上がった。華がするりと身を後ろに逃した時には、彼女の数歩先の書架がぐらりと揺れ、中に収まった本もろとも通路に向かって倒れ始めていた。傾いた書架からするすると滑り落ちていく本の後を追うようにして、落雷のような破壊音と共に、黒い書架の大きな図体が通路に叩きつけられ、華の黒衣は粉塵に塗れた風を受ける。激しい破壊音の後に訪れた本の散乱と壊れた黒い木材の折り重なりを見つめ、華はその口元を覆った。辺りには古い本の匂いとカビ臭さと、埃が満ちている。そうして幾分気の晴れた彼女は、冷めてきた頭の中でこれからのことを考えた。鍵を持っている不届きものを探し出して殺すこと。それが彼女に課された責務。いや、そうか、それよりも前に、怒りに任せて起こしてしまったこの大惨事を、自分はなんとかすべきではないのか? そう自答して、彼女はまもなく首を横に振る。いや、必要ないのだ。なぜならば、ここの本は、いつも次に来た時には「元に戻っている」のだから。今までもずっとそうだった。読み終えた本を戻さずここを出ても、次に入ってきた時にはその本は元の位置に戻っている。便利なものだ。だから、次に来た時には、この大惨事にしたって、素知らぬ顔で息を潜めている巨大で冷徹な書架の一つへと戻ってしまっているだろう。いっそ、憎らしいほど整然とした様子に。そういうものなのだ。


 そこまで考えて、彼女はふと思い出した。彼女が仕える検校様の言葉だ。振り返ったあの人の少女のような笑顔。もし、あの人の言うことがその言葉通りなのだとしたら。この書架の森それ自体に「意志」があるのだとしたら。この書架の森が一種の怪物の腹の中であって、自分が今立っているこの場所そのものが怪物の身体の一部なのだとしたら。


 華は、治っていた怒りが、腹の底からまた湧き出すのを覚えていた。もし、この書架の森が意志を持ち、その意志でもって改竄を見過ごしたのだとすれば。


「なぜ」


 なぜこの書架の森は私の邪魔をする? 憎っくき簒奪者の肩を持つ? 彼女はそうして手近の本を踏みつけると、その本にヒールをはめたその踵を何度も叩きつけた。


 彼女はこう考えていた。ああ、それならばこの世界は、私などよりもよほどその「誰か」を愛していることになってしまうではないか、と。


 ***


 医者に使いをやった真木が部屋に戻ってくると、行き場もないように見える椿が頬杖をついたままそこにいて、彼を迎えた。真木の足音を聞いてか聞かずか、顔の上に乗せた腕で目を覆ったままの枇杷が口を開いた。


「そういえば、あの猟犬の体の中に潜ったんだけど」


「えっぐ…」


「えげつないな」


 と椿と真木が声を重ねるのを聞き流し、枇杷は


「おかしかったんだ」


 と言って、顔の上の腕をのけた。そうすると、椿と真木は話の続きをせかすようにして彼の顔をみつめている。枇杷はそれを見ると起き上がり、カウチの上で足を組んだ。


「あれの身体の中にさ」


 枇杷はそう口にしながら己の記憶を辿る。屋根の裏側から華の位置を見定めて浮き上がり、彼女の体内を通った、あの一刹那。


「虚があったんだよ」


 ***


 目が開く。頭がぐらぐらする。その頭の後ろには、枕がある。いつものベッドにいるのだ、と俺の頭がぼんやりと捉えたとき、は、と笑い声のようなため息がひとつ、口から漏れていた。


 もういいか。


 胸の内側から転げ出て宙に浮かんだその言葉がまた俺の胸に染み込んだ。もう、望まなくていい。茜の言葉が粘つく唾液と一緒に俺の骨の芯まで染み込んだみたいだ。望みたくない。そうだ、俺はもう、何も、望みたくない。いいじゃないか、彼女に飼い殺されてここで死んだって。実体のないあの美しい顔に見下ろされ、足蹴にされて、何もできないまま、ゴミみたいに死ぬ。最高だ。俺にぴったりじゃないか。何にもない、ズレたままの、ズレ切ったままでここまで生きてきて、滅茶苦茶の俺にはさ。そういう人生なんだ。顔じゅうに漂った不気味な笑顔を押しつぶすようにして寝返りを打ち、枕に顔を埋めた俺の腹のあたりに冷たい何かが刺さり、俺はびくりと身体を震わせて起き上がった。


 俺の身体が作った影の下、波立つようにして寄ったシーツのしわの間にそれは落ちていた。鍵だ。見覚えのあるその形と、それがなんなのかわからないという恐怖心と好奇心の背反が俺の右手を動かし、俺が指先でそれに触れたとき、妙な感覚で背中が凍りつく。自分の後ろに何かがいるような。人間の気配のような。視界の端に、するり、と薄い金色の髪が降りてきたように見えて、俺は鍵を手に握り込んで後ろを振り向いた。誰もいない。閉まったクローゼットの引き戸の金色が闇の中にぼんやりと浮かんでいるだけだ。高まった鼓動の速さがゆっくりと落ちていく。息が穏やかになっていく。


 それから俺は手を開いて、握り込んでいたその鍵を見つめる。また、忘れかけていた。彼女がここにいたことの証明。だめだ、もう、俺の心は折れそうなのに。折れたっていいのに。諦めたっていいのに。それなのに俺は、胸を貫かれて微笑んだ彼女のことを思い出してしまう。心臓が胸の奥でこくこくと鳴っているのがわかる。シャツの下から汗の匂いがしている。茜のいない部屋には無音の冬が流れている。俺は右手の鍵を握り込んで、その手を心臓の上に置いた。


 みつけなくちゃならない。

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