第三十話 伽藍の徒花悔い互い
息荒く開け放したドアから一歩踏み出すと、俺の身体がほの赤く照らされた木の床の上に黒い影を落とす。静まり返った図書館を荒々しく踏みしめ、俺は「目当ての本」を探していた。真木のことが書かれた本があったなら、茜のことを書いた本だってある筈だ。見つかる、見つけられる、俺が探し出そうとする限り、俺は、必ずそれにたどり着く。そういうことになっている。そうと決まっている。知識が向こうから俺を待っているんだ。
頭が重くふらふらと背骨が軋み、奥歯がぎりぎりと音を立て、頭蓋骨の後ろらへんまでびりびりと不快な震えが伝染する。ぐらつく視界の中を怒りの足音が踏み荒らしていく。俺はこの地獄から生き返るんだ。絶対に。そう思った時、俺の身体が弾丸に撃ち抜かれたように翻って横を向いた。反射。何かの気配。誰かが俺のことを見つめている──そういった類の直観に神経を殴られて俺の目線がびたりと止まった先にあるのは、やはり、ただ一冊の本でしかなかった。気づかぬうちに止まっていた己の足を踏み出し、固形化して動かない空気の中を前へと進んでいく。足の上に乗った胴体がふらふらと膝の運動についていくみたいに上下する。
そびえ立つ書架の胴体、俺の腰くらいの高さに収まっている薄茶色い革張りの装丁を受けた本は、周囲の本と比べて地味な風貌であって、こじんまりとして密やかに棚の中に潜んでいた。今も息を殺し、俺のことをその低みからじっと睨んでいる。そうだ、どう見たって地味な本だ。けれど、俺はこの本に惹きつけられた。屈みこんでその背表紙に目をこらすと、何も書かれていないと見えた革の表面に文字のような凹みがある。アルファベット……いや、違う。これは数字だ。アラビア数字。自分自身の影が落ちてよく見えない背表紙に手を伸ばす。伸ばした俺の指の隙間で、焼印を押されて刻まれた文字列が一瞬閃いたように見えた。
「四百二十二……」
その背表紙に触れた瞬間、指の先から心臓へと、か細い悪寒が走った。指の腹の表皮から骨を通ってこの身の中心に届いた電流が、「開けてはならない」と俺の理性に警告を発している。感覚だ。身体中の肌がぴりつくような、自然と口が戦慄くような、足が一歩退がるような。その本の中に俺の求めるものがあるのは明らかだ。けれど、もしこれを開けば必ず後悔する。それを疑う余地はないように思われた。俺にとって都合の悪い何かが、その背表紙に束ねられた紙片の塊の中に確定的に存在している。けれど。
本当に知りたいか? という、あの男の声が俺の鼓膜の内側に塗りつけられたままだ。知らなかったほうがよかったことを聞かされた。けれど、それは知らなければならないことだった。だから、今もそれと同じだ。知りたくないことを知ることに、つまりは俺の内臓のどこかにある傷を引きずり出して白日のもとに曝し、そのために引き起こされた苦痛に身体の全てでのたうつことになろうとも、俺はきっと、いつかはこれと向き合わなければならない。
「あの女は」
口の中だけで声を鳴らす。俺は皮肉なことに、容易くあの魔性の瞳の色をありありと目の前に描き出すことができる。あの女が隠していることの全て、俺にとって都合の悪いことの全て、それら全てを知らなければ、俺はあの女と戦うことさえできない。そうでなきゃ、俺はあの女と同じリングに立つことさえできないのだ。今のままの俺にできるのは、せいぜい立てもしないまま地面に転がって、あの冷たい顔を見上げ、睨みつけながら死ぬことくらいだ。けれど、俺は知識でもって俺自身を底上げできる。まずは、リングに立ち上がってポーズをとるところまで這い上がるんだ。戦うんだ。大丈夫だ、俺にはまだ、勝機がある。
俺の指が勢いをつけて棚の中から地味なその本をぐっと抜き出し、巨大な書架の中に埋まっていた、みるからにみすぼらしく貧相な体躯が哀れなほど露わになった。間も無く平常通りひらりと紙の間から蝶が抜け出す。俺が本を開いてやると、ページがみるみる蝶の形に組み上がり、かさつく羽音を立てながら次々その華奢な身体を舞い上がらせた。まもなく俺の周りを数えきれぬほどの大群が旋回し始めた。ページの擦れる不快な羽音の中で、俺は羽と羽の隙間から天井を見上げ、紺碧の夜空に散らばった星々が俺を見下ろしているのをぼうっと視界に入れていた。羽の音が重くなっていく。もうじき、俺は記憶の海に沈む──そのとき、再びどこからか視線を感じ、俺はびくりと振り返った。確かじゃなかった。でも、羽音の向こう、切れ切れの書架の森の中に、きんいろの髪が揺蕩っていた。俺のことを見つめる、不安げな少女の口元。俺の耳に聞こえるのはもはや、耳障りな紙の轟音だけ。でも、彼女。
彼女の瞳は、何色だったっけ。
生まれた時からそういう性分だった。
俺には他人や自分をしきりと試そうとするような気質があった。それは好奇心に由来する実験の精神で、とにかく俺は、安全地帯から一歩外に踏み出したいという、どこから湧いたか見当もつかない動機に気づけば不意と背中を押されるのであった。俺のそういう類の子供じみた欲求は、けれど常に大人ぶった理知や計算尽くでいつも自ら押さえ込まれていた。そうした俺の内部の抑圧が、俺に自然に息をすることさえ許さなかった。今思えばそうなのだ。きっと、俺はずっとそうだった。それが決定的に俺を苦しめたのは、三月のあの夜のことだった。
兄はこの家から出ていかないことになった。生真面目な親父の背中を追った兄は、親父と全く同じ職についた。親父ははっきりと言葉にこそしなかったが、険しいその顔を微かにほころばせ、母親は俺たちの目をはばからずに泣いた。兄は両親を前にして食卓で黙りこくり、しかしその俯いた横顔にはいつになく喜びの色が差しているように思えた。その、調和に満ちた食卓の光景である。それが、俺にとっては違和感そのものでしかなかった。
どうして。そういう漠然とした思いが俺の胸の中を占め、箸を持つ右手の感覚がどこか痺れて遠く思った。その感覚は、物語の中に忽然と現れた誤植のようなものではなかった。そういったはっきりと俺の目の前に現れる誤りではなくて、物語全体を通して、いわば、俺が生まれてからそのときまでを通してずっと漂い続けていた、誤りとも呼べない「気持ちの悪さ」だった。
生真面目な父親の背中と、それを尊敬のまなざしをたたえた瞳で追いかける兄、さらにそれを見つめる涙ぐんだ母親のひとみ。そういった、論理的に完成されたささやかな幸せに、入り込んで行けない俺がいた。兄は望まれた通りになることを望んだ。きっとこれを親孝行というのだと、俺はその時思った。けれど。なあ、兄貴。兄貴は、これがおかしいとは思わないのか。食卓の壁掛け時計の針の音が、硬く一刻一刻と脳の端に刺さって抜けない。薄い布を纏ったように感覚の遠のいた左手ですくい上げた茶碗から、鈍い温度が手のひらにじわりと滲む。こういう幸せを幸せと思われない俺は、性根が腐っているのだと、そのときから俺は思うようにした。もっと真面目に、誠実に生きれば、いつか俺もこの調和の光景の一員になれるのだろうか。俺がもっと義に生きれば、そうすればあるいは、俺だっていつか、この食卓の異物ではなくなるのかもしれない。この、原因不明の罪悪感にまみれた遠い感覚が、嘘のように晴れて。そして、そうしたら、俺も、俺だって、俺にだって。感覚の鈍る夕食の席で自分の薄情な心臓が震えているのを押さえつけるように息をして、噛み砕いた粘つく液体を飲み込む。ふっと目を閉じると、三人の談笑が闇の中に明かりとともにふいと消えて、俺はたった一人になった。きつく閉じた目の端が熱く痛んで、俺はたったひとり、ぬるい床の上、誰もいない家の廊下に裸足でしゃがみこんで、受話器を耳に押し当てていた。
「俺、だめなんだ」
受話器の向こう側、相手は困り果てて黙っていた。それはそうだった。こんな声音で、こんな言葉で、こんな感情を押し付けられたところで、もし俺が相手の立場だったら、どうしたらいいのかなんてわからなかったろう。涙などとうに流れていた。震える声音はどうしようもなく狂った人間のそれだった。それがまぎれもなく俺自身なのだ。
「だめなんだよ」
溜めた息を食いしばった歯の隙間から吐き出しながら、それでも俺は祈るようにして、相手の声を、言葉を、何かしらの感情の跳ね返りを待っていた。しばらくの沈黙の後で、相手が躊躇いながらとうとう口を開き、ため息のように声を吐き出すのが聞こえた。
「そう」
向こう側の諦めたような声が俺の耳に流れ込んでくる。何を言ったらいいのかわからないんだ。それはそうだ。当たり前だ。けれど、でも。
「そうか……」
俺のことを否定も肯定もしない、良心に満ちた堅実なため息が、俺の胸に染み入るような、静かで確かな痛みを残して滑り落ちていき、俺はなんて馬鹿なことをしたんだろうと自己自身を嫌悪した。何が正解だったのかもわからない。そんなため息を吐き出させたかったわけじゃない。別に、そういうつもりじゃなかったんだよ、俺は。わかってくれよ、兄貴。俺は、俺はさあ。俺が、望んでいたことってのは。
「ぐ……」
喉の奥から酸味がこみ上げ、俺が全身を揺すって吐き出したそれは、固形物を含まない濁った唾液だった。吐くものなんて腹の中になかった。吐き出したもので黒く濡れた絨毯の床に手をつき、俺は自分が洋館の廊下に額ずいていたのに気づいた。心臓が馬鹿みたいに早鐘を打ち、息を吸うほどに胸の震えが大きくなる。
「なんで」
吐瀉物の残りのように言葉が口の端から溢れて、胸の呼吸に合わせて動く胴体に逆らうように手足が硬く凍りついているのを覚える。周りの音が遠い。頭が締め付けられるように冷たく、熱く軋み、和らぎ、また軋むのを繰り返す。口が勝手にぞっとするほど深く息を吸い込んだ。
「こんな」
涙に溺れながら吐き出した言葉と共に激しく腹が引きつって、俺の身体は再び嘔吐しようとした。視界が小刻みに揺れて、床についた手足は痺れて動かない。どうして、どうして、なんでだ。身体の重さのまま、自分が吐き出した唾液の上に身を崩し、俺は残った力で奥歯を噛み締めた。感覚のない冷え切った指を胴体に引き寄せようとして、上手くいかない。
「全部」
無人の廊下で、俺は俺自身に話しかけるほかなかった。今しがた見てきたばかりの記憶の渦に、また巻き込まれるような、引き摺り込まれて、窒息するような。
今見てきたのは全部、俺自身の記憶だ。
***
びり、と足元の空気が震えるのを枇杷が覚えたときには、華の足元から粉塵が上がっていた。枇杷が後ろへと身を翻しながらその目に焼き付けたのは、らせん状にねじれた黒い物体。それが瓦屋根から次々に生え上がり、彼のいた場所を抉るようにして再び瓦の平原に墜落しているのだ。その物体が、華の異能によって作り変えられた黒い瓦屋根であることは、枇杷にはほとんど自明だった。彼は、華の異能を既に知っていた。久方ぶりに見た華の異能の牙が次々と己の足元を襲うのを耳の後ろで聞きながら、彼は追いすがる華の足音にのみ神経を集中させていた。
「きりがないとは思わないわけ」
次々と連なる屋根の山脈を越え、屋根の切れ目を飛び越えて人気のない通りの向こう側に飛び移った枇杷は、華のほうへ身体ごと向き直って足を止め、通りの向こう側から彼女を睨みつけた。
「君、僕の異能を知っているんだろ? そんな攻撃が効かないことも」
飴玉のような枇杷の瞳が尖ったアイラインの下でぎらりと歪んで艶めく、という瞬間に枇杷は後ろに飛び退った。華は一瞬前まで枇杷の身体があったまさにその場所に着地し、その右腕が貫くように真っ直ぐと瓦屋根の上に突き立てられている。彼女が触れた当の瓦屋根は、瓦も、その下からむき出した木材までも両方を巻き込むようにしてひとつの物体となり、その物体は花咲くように夜空に向かって四方八方に裂け伸びているのだった。歪に伸び上がった黒い花の先端は、不気味に鋭く尖って月の光を映している。瓦礫の大輪を目にした枇杷は、すぐさま華の「やり口」を理解した。彼女に触れられれば、自分もねじり裂き伸ばされ「花にされる」──。確かに、あらゆる物と溶け合う異能を持った枇杷に彼女の物理的な攻撃は効かない。ただし、彼女が彼に「直接触れた場合」は、どうなるかわからないのだった。試したことはない、だが、もし彼女に触れられた己の胸から赤黒い大輪が咲き誇ることになれば……ただではすまない。
「鬼ごっこってわけか」
枇杷は飛び退ったままの不恰好な姿勢から身を起こし、腰に提げた刀ががちゃがちゃと音を立てて自分の動作に障るのに顔をしかめ、すぐさま華から距離をとる。華は抉れた瓦屋根の花の中央に腕を突き立てたまま、垂れた頭の眼鏡の奥にある瞳だけを動かして枇杷の動きを追っていた。次の瞬間、彼女が触れたままの花の端から新たな黒い花弁が伸び、轟音を上げながら瓦屋根が枇杷に向かって一直線に裂け乱れて彼の背中を追う。当たらない攻撃は、しかし彼の足元を崩すには十分だった。足の下の土台がなくなる前、すんでのところで一つ高い屋根に飛び移った枇杷が華に裂かれた瓦屋根のずたずたの切り傷を忌々しげに見下ろしたとき、華はようやっと身体を起こして枇杷を見上げた。
「私の目的はひとつ。あなたが持っている筈のものを返してほしいだけです」
ざらりと粉塵を含んだ風が吹き付け、華の上着の裏地、警告のような黄色がはためいて枇杷の視界の中央に烈しく映り込んだ。
「あなたが、『不当に』持っているもの」
崩れた瓦屋根に刺さったハイヒールの踵を苛立ったように抜きながら、華は枇杷から目を逸らさない。
「そんなもの知らないよ」
枇杷がそう吐き捨てたのを聞き届け、華はずれ落ちた眼鏡を黒手袋の右手で押し上げた。
「そう、そちらがそういうつもりでしたら、こちらも、こういうつもりです」
言うが早いか、枇杷の上には何者かの影が落ちていた。彼が息を飲み首を上に振り向けたとき、枇杷の全身を包み込むように花開いた黒の大輪が彼を頭の上から押し潰した。
「無駄なことを」
自らに覆いかぶさった真っ黒な視界の中から、溶かしていた身を引き上げ、瓦屋根の切れ目の空中に足を蹴り出して飛び上がったとき、枇杷の目が捉えていたのは眼鏡の奥の氷のような瞳だった。鼻先三寸に迫った華の髪の端が月の光に透けるのを捉えた飴玉の瞳が、見開かれる。猟犬の可憐な唇がふつり、と解けて開く。
「『溶けている間』は、目も見えず、遅い」
華の右手が自分の横腹に触れているのを、枇杷は覚えていた。背中の後ろの虚空に冷え切った夜風が吹き抜けるのを彼は知っている。驚いたように見開かれていた飴玉の目元が、一転して、嘲笑に歪んだ。
「……っ」
枇杷の横腹に向かって突き出された華の手が、彼の背中へと「抜ける」。華の全身は均衡を失って前のめりに倒れこみ、枇杷の体内を通って、滑らかに暗闇の路地に呑まれた。恐らくは五階分ほどの高さのある、瓦屋根の渓谷の底へと。枇杷の視界から華の黒衣が消えるのと、彼の背中が通りの向こうの屋根に叩きつけられるのが同時だった。不恰好に屋根の上に伸びた身体を引き起こし手をついて起き上がった枇杷は、上がった息を整える。立ち上がった時、右足が引っかかるような感覚に顔を振り向ければ、右のハイヒールの踵が折れている。枇杷は折れたヒールをむしりとると、今度は左足の踵を瓦屋根の上に叩きつけ、もう一方のヒールをその手で折り取って、華が落ちていった路地の暗がりへと投げ入れた。
「伊達に十六年もここで生き抜いちゃ居なくてね」
虚空に放った独り言に連なるようにして、彼の左腹が不気味に疼いた。口の中にこみ上げたものを吐き出せば、粘ついた血が一口分こぼれ落ちる。違和感のある左の脇腹に触れると、上着の厚い生地を通してでもわかるほどに身体がごつごつと変形し、肉体の配置が乱れているのがわかった。表皮にまで骨が突き出している感じがする。花咲くまでには至らなかったが、触れられたとき、多少異能を流し込まれたらしい。早い所安全圏まで逃げなければ。なぜなら、あの猟犬は。
「知っています」
冷たい女の声が屋根の縁から這い上がってきた。想定していたよりもずっと早いご帰還に、枇杷の口から舌打ちが漏れる。華は尚も言葉を続けた。
「あなたが十六年、ここで生きていることは」
黒手袋の女の手が自らの体を押し上げ、持ち上げられた足がハイヒールの踵を瓦屋根に叩きつける。枇杷の鬱陶しそうな視線を意にも介さず、乱れた髪が垂れ下がるまま、黒衣の猟犬は月の光の下に帰ってきた。
「知りそうもないけど?」
「知っているんです」
自分に向けられたぎりりと音がしそうなほど鋭利な氷の目を見返し、枇杷は口元の血を拭う。
「あなたが嘘を吐いていることも」
華は屈んでいた体を伸ばして上半身を持ち上げ、傾いたままの身体で執拗に枇杷の顔を見つめ続けている。白い息が上下する胸の動きに合わせて吐き出される。獣じみた華の風貌に嫌悪感を露わにしながら、それでも枇杷は猟犬との対話を試みた。
「だから、お前は何を探している」
頑なに己の問いかけにまともな返答を返さず、あまつさえ自分に問いを投げかけてくる枇杷を前にして、華は何かを諦めたようにふっと肩の力を抜く。びぎり、と彼女の足元から割れるような音がしたのを、枇杷は聞き逃さなかった。
「……あなたが知る必要のないものです」
二人の立っている屋根が揺れ始め、二人の周囲にみしみしと音を立てながら瓦礫の花々が咲き誇る。枇杷は崩れる足場を蹴り出して飛び退る。
「くそ、二進も三進もいかないな」
着地した場所の足場さえもろい。このままでは建物ごと崩されかねない。割れ崩れる屋根の上を踏みつけながら獣のような形相で迫り来る華を前にして、枇杷はもう一度足を蹴り出すと、空中に倒れ込んだ。華の視界の前から、枇杷の姿が消える。残されたのは、崩れ落ちていく瓦屋根を踏みしめなんとか立ったままでいようとする華、ただひとりだけ。
枇杷は屋根の中へと溶け込んだのだ、と華はすぐに気づいた。そのとき嫌に冷静な精神が彼女の胸のうちに吹き込み、彼女は枇杷を追ううちに自分たちが人通りの多い区画へ踏み込みつつあることに気づいた。そしてまた、自分が相手を追い詰めるためにこの「舞台」を荒らしすぎたことにも気づいた。つまりは、自らがこしらえた凶悪な花々の数々が、彼女の瞳にとうとう意味を持って映り出したのだ。まずい、上手くいっていない。彼女は己の心臓が早鐘を打ち始めるのを恐れ、消えた相手が立てるはずの音を聞き当てようと、耳を澄ます。遠い繁華街の喧騒の手前、彼女が真っ黒な足場の上で聞くのは、非情なまでの無音。彼女は身体をぐるりと回し、周囲のあちらこちらに気違いじみた慌てぶりで視線を向ける、が、得られるものは何もない。屋根の上に残されたのは、お使いも果たせないみじめな猟犬女いっぴきだった。
逃げられた。彼女の揺れ始めた心臓は、それまでの頑なな使命感の支えを失って行き場を失った。彼女の視界の中を、吐き出された大量の白い息がたゆたっている。情報を与えすぎた。やりすぎた。これはもう。
「殺さ、ないと」
自分の身体を抱きしめるように立ち尽くす華は、凍える耳の端が痛むのを覚えて、膝をよろめかせた。そのとき、ぞっとするような違和感が足元から這い上がった時には、もう遅かった。寒気がざわりと下半身を埋め尽くし、恐怖感と違和感が喉の奥までこみ上げた時には既に、枇杷の上半身が彼女の腹から生えていた。少なくとも彼女にはそう見えた。正確に言えば、瓦屋根の下に溶け込み潜んでいた枇杷が、華の身体を通り抜け、彼女の前、まさに目の前に姿を現したのだ。同一に溶け合った重なる下半身から弧を描き二つに割れた彼らの人影は、双頭の鷲のようで、もしくは、胚を縛られたまま孵った実験室のトカゲのようでもあって。はっと息を吸い、再び闘争本能を取り戻そうとする華の視界に完全に映り込んだのは、輝く抜身の刀だった。その白刃は、それごと溶け込んでいた彼女の胸を、確実に貫いている。
「年長者を舐めるなよ」
枇杷はその言葉を合図に、彼女の胸に白刃だけを残して身体から抜け出すと、異能を解いた。彼女の胸部に溶け合っていた刀が、ついに異物となった。突き抜ける真っ白な痛みに声も上げられぬ華の腹に足をかけ、枇杷は華の胸から、その異物たる銀の輝きを引き抜いた。刀と共にどっと華の胸のうちから吐き出される血を浴びる枇杷の顔が、白刃の瞬きと共に路地裏に落ちて消えるのを、何もできないまま、しかししっかりと目に刻み付けられ、彼女は身体の重さに引きずられるまま膝を折った。
あれはまだ息をしている。そのことを彼女は分かっていた。己の失態を目にしたあの不定な印象の人物を、自分は消さねばならない。だが、猟犬は軋んで思うように動かない己の右腕の先から、生暖かい血が滑り落ちていくのを覚え、こみ上げた痛みに胸を押さえてうずくまる。心臓は貫かれていない。けれど。頭がぼうっとかすみ、身体は休息を求めていた。
「く……」
もうまともに動けない。
***
「もう知っているんだ」
部屋に入った瞬間にそう口にした俺に、ベッドに横になっていた茜は鬱陶しそうに眠たげな顔を上げた。
「なに」
口の中に酸味が残ったまま、一人きりの廊下から這い出してなんとかいつもの部屋に帰ってきた俺は、怪訝そうな茜の視線を一身に受けていた。茜が緊張感もなくごろりと寝返りをうつと、下着姿の白い腹が俺の目に露わになる。その淫猥さに強制的に惹かれる自分の目を強く嫌悪しながら、俺はなんとか顔を背けた。
「知ってるんだぞ」
そうして、目の前に横たわる甘い誘惑を打ち棄てるように、俺は女に向かって丸めた上着を投げつけた。そこでようやっと、茜は俺の尋常ではない様子に気づいたらしかった。睫毛に縁取られた魅惑的な朱色が、ふ、と見開かれる。
「『知っている』……?」
起き上がった彼女の髪が肩の上に転がって弾み、その朱色はびたりとこちらを凝視したまま。
「何を、どこまで?」
「君が、俺を使い捨てようとしていることだ」
俺は自暴自棄になっていた。こんなこと話す必要はない。話すべきじゃない。でも、ただ口から言葉がぎこちなく、すべり出るままに彼女に言葉を投げつける。そもそも、「お前」と呼ぶべきだった、と彼女の瞳の前で固まった己の舌を俺自身情けなく思うが、彼女の目を見ているうちに、足元がおぼつかなくなっていく。
「誰から?」
それから茜は、すと、と軽やかな所作でベッドの横に立ち上がり、猫のように音もなくこちらに近づいてくる。そうして、誰から聞いたの。と言葉を継いだ。
「誰だっていい」
俺はにじり寄る茜から逃れるように、顔を背けたまま部屋の隅へと後ずさる。
「真木? 枇杷?」
それから茜は、俺をあっという間に壁際に追い詰めた。するりと俺に身を寄せる魔性にぞっとして、俺はなんとかその肩を突き飛ばして距離を取る。
「寄るなよ。俺にはわかってるんだ。お前、が、とんでもなく醜い……醜悪な女郎蜘蛛だってこと……」
俺が吐いた「女郎蜘蛛」の言葉に、茜はぴくりと頭を揺らした。
「市井ね」
そんなことを言うのはあの男だもんね。と茜はふっと笑った、ふふ、と揺らした肩の横でくるくるとしなる黒髪は、重さのない色味でもって跳ね躍る。月の光が、その滑らかな白い肩に差して、陶器のように精巧なその肢体を俺のまなこに焼き付ける。それからもう一度顔を上げた女の目には、確実にひとではないものが宿っていた。
ドアの方に回り込み、びくりと背筋に寒気が走る俺を退路を絶ってから、女は俺に向かって一気に距離を詰めた。獲物を食い殺す動物の仕草で、女は俺をそのしなやかな腕でたいして力も込めずに突き飛ばす。ベッドに転げた俺に、女は素早く覆いかぶさった。
「何に見える?」
俺のことを見下ろす女の顔は、相も変わらず恐ろしいほどに美しかった。
「は」
俺の喉から漏れた息と判別のつかない声が、響きもしないまま女の瞳に吸い込まれていった。
「私の姿はね、見る側の目によって変わるんだって」
女のしなやかな手が、俺の首筋をするりと撫で、やがて両の手で俺の頰を包み込んだ。均衡のとれた微笑みが、俺の目の前に広がっている。
「私に取り憑かれた男は、私が理想の女に見える。というよりも、私を理想だと『勘違い』するの」
そう教えてもらった、と俺の目の前の艶やかな唇が囁くのを、俺の両目が間違いなく捉えていた。長いまつ毛の下の、この身を引きずり込むような深い朱色の瞳。その虹彩に映り込んだベッドサイドランプの光の色。少女と女性の中間のような謎めいて華やかに映る顔立ちの頰には薔薇色が刺していて、それでいて鋭利な刃物のような冷たさがある。これに侵略されたい。目の前のこの女にひれ伏したいと思うような、美しさという絶対的な力。これがこの女の力。男を酔わせて狂わせて眩ませて食い殺す、女郎蜘蛛のさが。その魅惑的な物体が、ねえ、と鼓膜を痺れさせるような声を震わせた。
「どんな風に見えているの?」
これが、俺だけに見える嘘。
「ねえ、私は、あんたには、何にみえるの」
見えているのは幻覚だと、偽物だと、嘘のものだとわかっているのに、俺はその瞳の儚い色を、形の良い眉を、小ぶりのととのった鼻先を、開かれる艶やかな唇を、食い入るように見つめることしかできない。俺がつぐんだ口に、女は無理やり自分のを重ねた。彼女のなるい舌先が俺の中にぬるりと押し入ってくる。俺がその肩を押し返そうとしたって、その細い身体は揺らがない。脳みそがくらりくらりと、揺れて、足の先まで身体がしびれて。一瞬離れた俺の口から、ばけもの、と声が漏れたのを聞いてか、女の喉がくつ、とひとつ鳴った。それから女は俺の上にのしかかったまま、背筋をすらりと伸ばす。俺の顔に面してそびえるその美しいばけものの顔立ちには、自嘲の色が滲んでいた。
「ねえ、可哀想だよね。こんなのに取り憑かれてさ、あんたこのまま死ぬしかないんだよ」
かわいそう、かわいそうだね。と女はおどけた声で繰り返す。それから女は俺の上に突っ伏して、食いちぎるために、俺の首元に口を寄せた。
「私が憎いよね。殺したい?」
いいよ、殺しても。冷たい夜の空気を揺らす、吐息を多分に含んだ女の声は笑っていた。笑うように、震えていた。刃物のような文言の羅列を、くすぐるような掠れた女の声音が、全て美しい音楽に変えてしまう。
「殺したってかまやしない。生きたって死んだって、変わらないもの」
わたし、とひとつ言葉を零してから、もう一度身を起こした茜は、俺の見覚えよりも、どうにもひとつふたつ、幼いように見えた。不釣り合いに淫美な赤い下着に着られた少女がそこには泣きそうに俺を見つめていた。その瞳がふらりと見開かれると、細い指が俺の胸ぐらを力なく掴んで、冷たい目線が俺の両目を貫く。
「殺してよ」
俺の喉の奥から声は出ない。息もできない。彼女は、俺が彼女を殺す力など持たないことをわかっている。わかっていて「殺してよ」と言う。彼女は俺に話しかけていながら、俺に掴みかかりながら、おそらく俺のことなど見ていない。目の前にいる人型の塊に、届かない言葉を吐きつけているだけなのだ。彼女は尚も俺の胸ぐらを掴んだまま、尖った犬歯をむき出して緩やかに微笑んだ。
「最初からそうだった。死なせるとわかっていてあんたを捕まえた。あんたはそれを知らなかった。けれどもう知った。でも、抗えない。知っていたとして、あんたは、抗えない」
彼女は俺の上でふるりと笑うと、それから俺の上に横になって、俺の背中とベッドの隙間に手を差し入れた。
「魂というのはね」
彼女の声が、俺の胸の上に落ちる。
「生まれた時からその性質が決まってるの」
彼女の指先が俺の肩甲骨を探り、するりと撫でてみせた。
「善か、悪か。その天性は、その性根に染み付いた抗いようのないもので」
彼女はそこでため息のようにかすかに声を漏らし、彼女の口から吐き出された湿った体温が、俺の心臓のあたりに吹き当たる。
「私もあんたも、それが生まれつき悪だったってだけ」
彼女の膝が俺の腰のあたりに当たって、硬く刺さっている。
「だからもう、苦しまなくていいの。どうにもならないもののために」
彼女が微かに身を浮かせ、俺の視界の端に朱色のぎらつきが一瞬映り込むが、彼女はそのまま俺の首筋に顔を埋めた。彼女が息を吸う音がする。天井に差し込む夜の明かりが、窓枠の影を黒く描いている。その影の形が歪むような景色の揺らぎ。彼女の滑らかな肉体が確かな肉感と重さを持って、俺にのしかかったまま。
「もう、斯くあるべし、なんて望まなくていいの」
耳元の彼女の声が俺の頭を熱くかき乱していく。手足の感覚がぼやけて、全身がぼうっと熱くなる。どうにもならない無力感に、俺の叫び出したい喉が疼いて、けれど力なく寝台に横たわったまま、俺は何もできなかった。彼女は、距離のないその場所から、俺に呪いの言葉を吐き続ける。
「もう、望まないの」
彼女の最後の言葉は、俺の胸の中に尾を引きながら沈み溶けて行く。分からず屋の子供に言い聞かせるような芯を持ったその語調は、悲しげに高く響く夜の跫音に混ざり合って、もはや、誰に向けられた言葉であるかも確かではない。そのとき視界が一気に濁ったかと思うと、すべてがぼやけて灰色になり、朱色の痛みに似た溺れるような激しい快感に飲み込まれ、俺は全身の触感を失った。それなのに、耳だけが相変わらず彼女の声を拾っている。
「私もあんたも、このぬかるみに沈んで、沈み込んで、泥の中を、日に日に深み深みへ」
灰色の景色はやがて真っ黒な深海へ。いや、この目が何かを見ているのかも定かじゃない。何も見えない。暗がりの深み。
「酸素もない泥の深み、呼吸もできず、もう、考えることもない」
静かな彼女の声だけが、俺に沈下を促す。
「それで最後にたどり着く先は、地獄」
静かで絶対的な女の声だけが聞こえている。
「ここは、世界で一番、地獄に近い場所」
そのとき、死んだように凪いでいた脳裏に、何か白い色が開いたように思えた。それを確かに見たのか、この目が捉えたのか、その形が視界に映り込んだのか。なにもわからない。けれどあれは、きっとあれは、蓮の花。
「あんたがここに来るのは、最初から決まっていたんだよ」
聞こえてくる女の言葉に温度はなく、突き放すような語調に誤りはない。けれどその言葉のひとつひとつは、冷たい泥のように俺の存在を包み込んで、否定も肯定もせず。
俺、最初から。
口が動いたわけじゃない。けれど、脳は、もしくは、俺の言語機関は、確かに言葉を紡いでいた。ぽつり、ぽつりと、俺の一生を俺自身の外側から見ているような別個の俺の言葉が、空中にぽかりと浮かんで泥に飲まれて消える。
どこに行っても不幸にしかなれないようにできていたんだな。
***
鉄の扉を叩く拳の音。しんと静まり返ったホールを違うことなくまっすぐに進み、その観音開きのドアを押し開けると、そこには荒い息遣いがひとつうずくまっていた。
盲人である十夜であったが、自分の寸前で息も絶え絶えに跪く生物が自分の手足である華であることはすぐにわかった。そもそも、そうでなければ扉を開けもしなかったろう。
「検校様」
乱れた髪の頭をうつむかせたまま、片手で胸を抑えて石畳の上の華は、苦悶の内側から苦々しく声を漏らした。
「……申し訳ありません」
華を見下ろす十夜の背中は揺らぐことがない。
「取り戻せ、ませんでした」
そこまではっきりと述べたててから、なんの声も発さない己が主人を見上げ、華は懇願するような瞳を泣きそうに歪めた。
「検校様」
「どうしたの、華」
焦点の合わない十夜の両目が、自分の肩のあたりに向けられているのを見、その一見して心配するような声音に何の感情も込められていないのを華が知った時には、彼女の腹の底から恐ろしい絶望感が湧き上がっていた。
「まだあれを取り戻していないのでしょう?」
平生と同じような口調でそう問うてくる十夜は、華の哀れなやられようを知っている。知りながら、なんとも思っていない。十夜は慄く華の目の前で少女のような無垢さを気取って首を傾げ、もう一度確認するように
「そうよね」
と詰問した。華が呆気にとられたまま何も言い返せないのを聞き、十夜はそこでふっと肩の力を抜くと、控えめに両の頰を持ち上げて微笑んだ。
「ならば、帰ってこなくていいのよ」
自分の顔を困惑のまま見つめる華の切実なまなざしを、彼女は一生目にすることはない。十夜はそれからもう一度自分の言葉を繰り返した。
「帰ってこなくていい」
その一言一句、言葉に含まれた音の全てが目の前に跪く可愛い猟犬の頭に染み込んで、突き刺さって、抜けなくなるように、彼女は言葉に揺らぎのなさという力を与えた。
「時間はある。そうでしょう」
「……はい」
冷たく正しい十夜の言葉に、華は間抜けに開いていた口をぎっと引き結び、目を下げて十夜の靴の先を見つめた。そのまま痛む胸から手を下ろし、その激痛をなかったことにするかのようにまっすぐに立ち上がった。白い月が容赦無く照らし出した彼女の決意に満ちた目には、怯えた女の人間性は消え失せている。華はそのまま踵を返すと、黒衣のコートを揺らしながら歩き出す。まもなくその歩調は徐々に早く弾むようになり、彼女の背中はあっという間に十夜の前から遠のいた。
「お行き。私の望みを果たすために」
ほう、と吐かれた生体の証が十夜の冷徹な微笑みに交差する。くるりと振り返り扉の奥に消えようとする彼女の背中に、長い髪がさらりと冬の空気を滑り、付いていった。
「夜の果てまで」




