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笑止千万  作者: 曲瀬樹
第三期 あけぬなづきの海
32/42

第二十九話 死すべき御供か裁きの人世

 どうして裏切ったんですか。声にならなかったその言葉が頭の裏に焼き付き、痛みが滲んでくる。俺は青緑の扉の前から動かないまま、手のひらの鍵を月の光に照らし、持ち手の切り抜き模様の奥に見える己の手の皺をじっと見つめていた。


 市井と華屋の仲が悪いというのは知っていた。奴が華屋を出禁になったっていうなら、奴が昔何かやらかしたってのは確かなことだった。知っていた。俺だってそこまでは知っていたのだ。だが、「裏切った」とは初耳だ。「裏切った」。つまり、奴は元々華屋のひとでなしだったということか? 市井は昔、俺と同じようにして華屋の刀持ちだったってことなのか……? 仮にそうだとして、市井は奴らを「裏切った」。


 息を吐いて鍵を握り、見てきた記憶を頭の中でまた再生しようとする。冷え切った石畳の上に流れ出す赤く黒い熱量。あの記憶の中で石畳の上に横たわり市井を見上げていた身体の持ち主、つまり俺が追体験した記憶の持ち主は、真木に違いなかった。「まだ信じています」。奴は口の中でそう言った。あいつらの間に一体何があった?


 そこまで考えて、俺は無人の廊下でひとりかぶりを振った。いや、人様のことまで心配してる余裕なんざありやしない。俺が今、脳みそ振り絞って考えなきゃならないのは、俺自身の生死、ただそれのみだ。他人の諍いなんざ知ったこっちゃない。好きにやってくれ。


 ふっと吐き出した息が廊下の暗い壁紙の前景で白くたなびくのが見えた。肩で息を吐き、それから夜気をまた吸い込んだ時、喉の奥がひりつくのを覚えた。乾いた冬の空気だ。俺はそうして、俺自身が生きているのを尚確かめようとするかのように声を出した。


「華屋の奴らは口を割らない。皆、茜の味方だ」


 まるで事実を確認するように、俺自身の声が廊下の天井にぶつかって跳ね返ってくるのを待っているように、俺は黙って洋館の中の物音に耳を澄ましていた。指の先がびりびりと痛む。そうだ、俺の身体にはまだ確かに熱い生き血が通っている。


「華屋の人間じゃなく、華屋の中のことを知ってる人間に会わなくちゃならない」


 その通りだと俺はよくわかっている。相変わらず肺を締め付けるような閉塞感と、脳に酸素が足りないような気分の悪さは立ち込めたままだが、俺の頭はまだ回っている。俺にはまだ、手持ちの駒がある。俺には、勝機がある。


 とにかく、会わなくちゃならない。



 ここに来て最初のとりものを味わった後、市井の住まいについて茜に尋ねたことがある。人気のない寂れた灰色の街並みの中にひっそりと住んでいる謎めいたあの男。俺はよく知りもしないあの男のことを、華屋の誰もが警戒しているらしいというのは不可解で、俺がそれに興味を惹かれないわけがなかった。教えられた奴の住まいの大方の位置とともに、その話をしていたときの茜の忌々しげな顔が思い出される。今となればあの表情にも納得がいくわけだ。茜だけじゃない。高峯だって市井を相当嫌っているようだし、奴のことを「信じている」らしい真木は、華屋の中でもかなり例外的な部類と思っておけばいいのだろうか。ああ、よくわからない。だが、とにかく、俺もとうとうしちめんどくさい奴らの怨恨に触れちまったってわけだ。


 そして俺は、目下「華屋の敵」であるはずの市井に、これから会いにいく。このことが俺の反逆をどれくらい意味するのだろうかという疑問にぶつかって、俺は腹の中が寒くなるのを覚えていた。だが、俺は華屋に反逆するどころか、俺を殺そうとしているこの世界自体に反逆しなくちゃならない。生きるか死ぬかの問題なんだ。こうなっちゃ、どこを敵に回すかなんてことは取るに足らない。そんなことを気にしてる場合じゃねえんだ。


 表通りを外して電波塔のところまで来た。月の光で薄明るく青の透ける夜空に鉄の柱の重なりが黒い身体の形を刻んでいる。人のいない朝八時の掃き溜めだ。市井だってもう眠っちまってるかもしれない。そう思いながら、頭の重さでぐらつく身体を支えるようにして、足を前へ前へと踏み出し続ける。刺すように冷えた夜気が上着を羽織った身を凍えさせる。心細さに、俺は服の生地の上から鍵の入っている左胸を握りしめた。大丈夫だ、俺はまだ、この舞台の上にいる。


「俺はまだ、君をこの世につないでいる」


 そう口に出した言葉が、誰かに聞かれているとは夢にも思わなかった。


「このあたりに医者はいないぞ」


 はっと顔を上げるが、すぐに姿を認めることはできなかった。左胸を握りしめたままの俺が声の主を探していると、びたりと動かない視線が闇の中から注がれていたのに気が付いた。月の光の届かない、無人のアーケードの下、まるでこの世のはじめから居たかのような風情でもってじいっと立っていた市井は、思わず背中を震わす俺に一切動じることなくこちらを見ていた。背格好や声の聞こえで奴だとわかったが、奴の顔にはどす黒い影が落ちていて、どんな面持ちでこちらを見つめているのか、どうにも計りかねた。それでもただじっと、薄闇の中から奴の二つの目が俺のことを変わらず見つめているのだけは確かだった。月の光の下に間抜けに身を晒す俺は、自分の足の動かし方を忘れていた。


「お前、自分が今どんな顔をしているのかわからんのだろう? ひどい顔だ。今にも死にそうって感じだぜ。鏡を見た方がいい」


 そう言った市井は、まだ動かない。じっと、確かにそこに立ったままだ。黒くぼやけて見える奴の体の輪郭が、しかし確かに俺の視界の中央に泰然と居座っている。奴に俺への殺意はないらしい。殺意があればこの距離に近づく前に気づいていただろう。だが、俺は知らぬうちに奴の射程に入っていた。だから、こいつは俺を殺そうとはしちゃいない。けれど。


 奴がそこにいる、という絶対的な存在性のようなものが、奴が持つ得体の知れない妙な重々しさを俺に覚えさせていた。


 下手なことをすればその先、「何が起こるかわからない」というような、何も見えない闇の中に足を踏み出してしまうような、掴みどころのない恐怖感が俺と奴の間にぐったりと横たわっている。慎重にならなくちゃならない。慎重に。俺がじわりと足を動かすと、靴の底を砂利がざらりと擦る微かな振動が靴の裏に伝わってくる。


 俺は奴に気取られないように喉の奥で深く息を吸い、それから吐いて、自分の喉に声を震わせるだけの余裕があることを確かめた。


「話を、聞きに来たんだ。あんたに教えて欲しいことがある……」


「話?」


 市井の声は抑揚を持っていながら一定で、奴のいる影の中からまっすぐに繰り出される。俺は後ずさりそうになる足をその場に貼り付けたまま、奴の顔の中にある目を探して影の中に目を凝らす。


「話だ。俺は、あんた以外にツテがない。聞かせて欲しいんだ」


 市井の影の輪郭がかすかに揺れるのが見えた。それは承諾の証か、それとも拒否を示す仕草なのか計りかねた。けれど、今の俺はこの駒にかけるしかない。


「……あんた、昔、華屋にいたのか?」


 俺のその問いが、ぴいんと張り詰めた夜の空気の底を打ち、遠く空を劈くような甲高い鳥の声が軋むように鳴った。市井の肩が微かに揺れ、その影がぐらつくと、とうとう奴の姿が月の光の下に顕になった。こちらに一歩踏み出した市井は、金色の目の奥から俺のことを見つめている。俺が思わず腰の日本刀に手をかけそうになったのを気にもとめず、市井は引き結ばれた唇をじわりと開いた。


「どこで知った?」


 思わぬ問いに俺はしばし逡巡したが、自分の知っていることを馬鹿正直に開示するのが常に得策じゃないってことはわかっていた。書架の空間のことはまだ誰にも喋っていない。そもそも、信じてもらえるかもわからない。こいつの素性も知らない。話すべきじゃない。俺は奴の金色の目をじりじりと睨み返しながら、慎重に口を開いた。


「……別に、噂に聞いたってだけだ」


「噂ねえ」


 市井は目を細め、俺の顔をじろりと見た。


「それで、仮に俺があそこに居たとして、お前は何が知りたいんだ」


 市井は丸腰に見えるのに余裕綽々といった風情で腕を組み、日本刀を携えた俺のことを見ている。奴は確かに武器を持たないように見える。だが、俺が今奴に斬りかかったところで勝算がないのは確かだ。俺の感覚からして、この予測は間違っていない。俺にはわかる。俺は乾いた歯の裏側を舌で濡らしてから、また口を開く。


「茜の、ことだ」


 市井は表情を変えない。俺は言葉を続ける。


「あれがどんな女なのか、教えて欲しい」


 そこで市井はひとつ笑い声を漏らした。


「そんなもん、俺よりお前のほうが詳しいんじゃねえのか? 俺は幸いあれと寝たことがない」


「そういうことじゃない」


 奴の冗談じみたはぐらかしに肩透かしを食らいながら、俺はそれでも奴の目を睨み続けた。


「じゃあ、なんだ」


 市井は目を細め、そこから動かないままで俺のことをじっと見ている。腹の底に微かに苛立ちを覚えながら、俺は口をつぐんで頭を少し冷やすことにした。こいつがどんな奴だろうが、俺が持つ手がかりはこいつだけだ。うまく、利用しないと。


「俺、俺は」


 息を吸うと、喉の奥が乾いているのが分かる。肩が凍えるように震えている。俺は自分の足の先に目を落とし、ぐっと生唾を飲み込んでから頭をもたげ、依然としてそこで俺の言葉を待っている市井に向き直った。


「俺が、彼女に殺されるってのは、どういうことなんだ」


 冬の空気がひりついている。遠くで金属がきしむような音がする。冷えて薄く霞んだ無人のアーケードを市井が背負っている。


「ああ、なんだ、もうそこまで知っているのか」


 俺の喉がひくりと息を吸った音を、奴の低く穏やかな声音が押しつぶす。


「それ以上知りたいか?」


 市井の口の端から微かに白い息が漏れ出て、奴の体は俺と同様に人間の生体だということを俺は思い出した。色味のない月の光の下に確かに立ち上がる背の高いその男は、遠い景色の中に立っているかのように見えるのに、確かに俺と同じ地面の上で、今、俺のことだけを見ているのだ。その同じ地平の上で、市井の目が苛立ったように歪む。


「答えろ。お前は、ほんとうに『知りたいか』?」


 市井の目は据わったまま俺のことを射抜いている。奴がこれから語るであろう揺るぎない事実というものが、俺にとってあまりにも不都合であるということをその目は予め語っている。知らない方がマシなことを俺はこれから聞かされるに違いない。けれど、知らなければならない。そうしなければ、俺は生き残れない。不動の眼差しで俺の反応を待ったままの市井の市井を正面から睨み、俺は一言、口を開いた。


「知りたい」


 俺のかすれた声が喉の奥でなって地面に跳ね返り、確かに市井の元に届くのがわかった。市井は頭を振り、かったるそうにまた俺へと視線を戻す。


「『どんな女か』と聞いたな? 俺が知る限り、あれは『悪』そのもののような女だ」


 前から聞こえる市井の声が、耳の横を通って俺の背後に消えていく。


「あの女の異能は恐ろしい」


「恐ろしいのは、知ってる」


「知ってるって? 何にも知らねえからお前はここにいるんだぞ」


 市井は呆れたような顔を傾ける。


「お前、あの女の異能を緩和剤かなんかだとでも思ってんじゃねえだろうな?」


 違うぞ、と市井は付け足し、その冷たい表情の中で口がじわりと開く。


「あれは女郎蜘蛛だ」


 市井は俺の耳にその音をべたりとなすり付けるような具合に「女郎蜘蛛」の字面をなぞって低く声を出した。


「男を惹きつけ、捕らえ、餌をやり、自分なしでは生きられないように毒してから、ひとりずつひとりずつ、じっくりじっくりその魂を食らっていく」


 薄暗いアーケードに、市井の影が幽霊のようにぼやけて伸びている。


「あの女に毒された男は、最後は何があっても抗えない。死ぬとわかっていようが、自分の安全の欲求なんかよりも先に、『あの女を満たすため』己の全て、真に全てを──命を、支払うことになる」


 市井は俺に向けていた嬲るような目線をそこでふっと落として、口から大きく息を吐いた。


「そういうことだ。お前が死ぬっていうのはな」


 それから市井は、話は終わったと言わんばかりに口を閉じ、返事をしない俺のことを目の端で見ている。俺は、今しがた聞いたばかりの市井の言葉を頭の中で繰り返し、自分の中になんとか染み込ませようとしていた。だが、まだ全てを飲み込みきれない。俺が、「命を支払うことになる」。市井はそう言った。俺の口の奥からたどたどしく言葉が漏れる。


「抗えない、っていうのは」


「文字通りだ。あの女の肉壁になって死ぬ、あの女を逃がすため、死ぬとわかっていて敵の前に置き去りにされる、枇杷が『その男を囮にしろ』と言えば茜は男にそう命じるし、どんな絶望的な戦局だとその男がわかっていようが、男の身体はそこから動かない。動けないんだ。そう言う風にあの女に殺される男の姿も、死から逃れることのできない苦悶の表情も、心臓の奥から絞り出される絶望の慟哭も、俺は何度も見たし、聞いてきた」


 市井の喉の奥から途切れることなく紡ぎ出される凄惨な事実が、俺の心臓の動きの全てに絡みついていく。市井はそこで、だが、と一度言葉を止めて、それから勿体ぶって口を開いた。


「その男の具体的な顔というのを、俺はひとつも覚えていない」


 市井の淡々とした口調が、俺の心音と重なって腹の底に落ちていった。


「……知ってる、そんなことは」


 強がった自分の声が怒りと悔しさに震えているのが自分でもわかって、俺はなんとかまっすぐ立っていようと、握り込んだ手のひらの内側に爪をめり込ませ、痛みで自分を保った。だが、市井はまだ話をやめる気は無いようだった。市井が鼻を鳴らすのが俺の耳に届き、俺はくらくらする頭を上げて奴の目を見た。全てを見通しているみたいにその顔の中に据わっている、金色の目。


「お前、どうせ『先に』心臓を食らったんだろう?」


 奴の問いかけを解しかねて、俺の喉が不恰好に鳴る。


「『先』ってのはなんだよ」


「『名前を奪われるより先に』って意味だ」


 すぐに返答した市井は、俺が促さないうちから自分の言葉に注釈を付けだした。


「ここのひとでなしどもの多くは、揃いも揃って多大な物語というものを背負い込んでいる」


 市井が差し出した己の手のひらを見つめている。


「奴らはその人生自体が語られるに値する、生きながらの役者だ」


 市井はそこで自分の手のひらからこちらへ視線を上げる。


「だが、『そうではない者』には、物語を与えてやらねばならん。何らの大した物語も持たない者に、物語を与えてやらねばならない」


 奴の言葉はまっすぐ届く。市井が話しかけている相手は、奴の目の前にいる俺に他ならない。


「お前は語るべき物語を持たない男だろう? だから物語と心臓を与えられた。お前のところの女主人は、何も持たない凡人から名前を奪い、心臓を飲ませて役者にする。かわいそうに、お前はあれに名を名乗っちまったんだな」


 奴の言葉の全てを理解できないまま、俺の口は戦慄くように開いていた。名前。高峯に名を名乗った覚えなどない。だが。俺は高峯に取られて捨てられた自分の財布のことを思い返していた。俺の保険証が入っていた、行方知れずのあの財布──。


「名乗った名前は戻らず、お前の人生も戻ってこない。それがどんな人生だろうがな」


 俺の回想の中に市井の声が割り込んで、俺は苛立ったまま口を開く。


「俺の人生に、『大した物語がない』って、あんたは言ってるわけか」


「事実だろう」


 市井の声音は淡々としている。


「だから物語を求めてこんなところに来ちまった。違うか?」


 奴の目をまともに見返すと、市井は実験動物を観察するような顔つきを変えない。


「お前の人生にケチをつけてるわけじゃない。平凡な人生ってのは、そうじゃないやつが望んだって与えられるもんじゃない。お前はお前の平凡で平穏な人生を誇ればいい。まあ、もうそこから転げ落ちちまったんだろうが」


 市井は何の感慨もないような口調で言葉を続ける。


「安心しろ、お前の席に座る奴は皆、心臓を飲まされてからひとでなしになる『凡人ども』だ」


「……なんであんたがそんなことを知ってる」


 俺の言葉に微かに眉を上げ、市井は端的に返答する。


「あの女から直接聞いた。『自分が殺すのはそういう人間ばかりだ』ってな」


「茜がそう言ったのか」


「少なくとも俺はそう聞いた」


 市井はすぐさま、あの女はな、と言葉を続ける。


「相手が死んだところでなんとも思わん。なんとも思わず殺して捨てる。あっという間にお払い箱だ。お前も、あの女の足元に積み重なる死骸のお仲間になるため、ここで一生懸命生きてるってわけだな」


 市井はそこで、諦めたように笑った。何も言えずに立ち尽くす俺のことを眺め、もう十分だろう、と市井は一言零し、それから金色の眼差しをもう一度俺に振り向けた。


「まだ知りたいか?」


「まだ隠してることがあるのか?」


 俺の口調は噛みつくような色味を帯びていた。


「隠す? 隠れてるものを掘り出さねばならんほど、自分が博識だとでも思ってるのか? 学者先生?」


 俺は発すべき言葉をひとつも見繕えないまま、頑として奴の顔を睨み続けた。そうすると、市井はひとつため息をはき、


「立ち話を続けるには口寂しいな。お前、煙草を持っているか?」


 などと言いながら自分の上着のポケットを探って、何も持たない手を出した。俺は自分の懐から潰れた煙草の箱を取り出し、舌打ちを噛み殺しながら奴に向かって放ってやる。市井はひしゃげた箱をじろじろと見てから一本取り出し、口に咥え、図々しい面持ちで


「火は?」


 と俺に問うた。俺はますます苛立ちながらも、胸ポケットの一番奥に鍵と一緒にしまい込まれていた例のライターを掴んで、半ば投げつけるように市井へと放った。市井は煙草を咥えたままそれを受け取り、ライターの銀色の体躯にまじまじと目を凝らした。それから間も無く、奴の口が笑みに解けた。


「やっぱりお前もこれを使ってるんだな」


 市井は煙草をくわえ直し、俺のライターでその穂先に火を点けた。


「何が言いたい」


 市井は目を伏せて煙草の煙を深く吸い込みその身にうち流してから目を開け、煙草を手にとって煙をどっと吐き出しながら、月光の下でてらりと煌めくライターの面を眺めている。


「これを何だと言われて渡された」


 市井が独り言のように呟いたその問いに、俺は口の中でもごもごと答える。


「ただ、『持っていろ』と……」


「ドッグタグだ」


 俺がはっと息を吸い込み切る前に、市井はわかるか? と言葉を継いだ。


「お前が焼かれようが粉微塵にされようが執念深く顔を潰されようが、お前の懐からそれが出てくりゃあ『お前だ』ってわかるってわけだ」


 市井は手の中でライターをくるりと回して弄び、それから俺に投げてよこした。前に足を踏み出して取った俺の手に収まった銀色の塊は、不気味な重さをもってぎらぎらと輝いている。


「知恵だよ。長年かけて作り上げられた、人間のな」


 奴に吐かれた煙の向こうに、その金色の目が居座っている。


「少なくともお前より前の男たちは、『そういう風に死んできた』」


 流れ去った煙の向こうに、煙草の穂先が赤く燃えている。


「お前と同じ運命を辿った奴らはみんなそれを持っていた。お前はその『伝統』を受け継いでるってわけだ。ありがたいことだろ? その白銀の表層の一枚奥には、奴らの血が塗り固められて幾重にも歴史の層を成している」


 奴が手を下ろす動きに、白い煙がたなびきながらついていった。


「お前も近いうち、その『層』の一枚になる。そんで、お前の後の男もお前の上に重なり、その次の男も同じように重なり、それが延々と繰り返されるうち、その一級品は増して重く厚く堅くなる。なあ、どうだ? ぞくぞくするだろう? 時間の重みってやつにな」


 俺が見下ろした手の中のライターには、蓮の花の文様が彫り込まれて、俺のことを睨み返している。この文様の凹凸をなぞったであろう誰かの手垢が、文様の凹みの再奥に今尚こびり付いているのだ。俺はその文様の中の黒ずみにぞっとし、手の内にあったそれを石畳の上に放り出した。ライターは硬い音を立てて石畳の上に転がり滑って、数歩先の凹みで止まった。


「だが、お前はどうやらその『多層ども』とは少々違うようだ」


 俺が奴の声に顔を上げると、奴とまっすぐに目が合った。


「俺がお前に教えてやったことを生かして、お前は『上手に』生きられるかもしれん。知識は時に人を惑わすが、もちろん身の助けにもなる」


 奴が半分は燃え尽きた煙草を手のひらに乗せている。


「その『知識』にこれだけ早くたどり着いたこと、今、それだけがお前の先代の屍たちと隔てる唯一のものだ」


 奴の手のひらの上で、赤く燃える穂先がほのかに光を放っている。


「その『諸刃の剣』を扱い損ねて己の身を切るか、それともお前の生きる道を切り開くか」


 奴の手のひらの上から空へと逃げて散り散りになっていく細い白煙の色を、俺の目は自ずと追っていた。


「全てお前次第だ」


 奴はそこでいきなり、火のついたままの煙草を握り潰した。


「上手に使え」


 市井が再び開いた手の内側から、押しつぶされて火の消えた煙草の燃えかすがばらりと落ちていった。奴の言葉の終わりと同時に、俺は自分がどこにいるのかを思い出し、俺の足の裏は硬い石畳の感触を捉えていた。俺はこちらを見つめたままの市井の顔をしばらく眺めていたが、遠く聞こえる鳥の声の響きを振り返るように踵を返す。奴の視線が俺の背中に刺さったままなのを感じながら、俺は人気のない寂れた街並みを怒ったように踏みしめて進んだ。薄青い景色が両側に流れて消えていく、その空気の中。


「おい、大事に取っとけよ」


 金属が擦れるような音に俺が振り返った時、反射的に構えた俺の手中に、銀色の重みが収まった。市井が地面のライターを拾い、俺に投げて寄越したのだった。


「お前を殺すのもあの女かも知れんが、お前を弔ってやれるのだってあの女だけなんだからな」


 その言葉を残して市井はあっさりと踵を返し、アーケードの真っ黒な影の中に消えていった。


***


「どうして、ここに」


 まもるが、鞄を抱えた私の目の前に立っている。そして、開いたその口から「声」を出している。私の喉は勝手にひゅう、と息を吸っていた。


「あなた、声が……」


「やっぱり」


 まもるはそこでわあっと私に歩み寄って、私の両肩を掴んだ。


「君にも聞こえるんですね」


 少し掠れて鼻にかかった男の人の声が、まもるの口から鳴っている。私がびっくりしているのを見てはっとした顔で手を離し、まもるはそこで一歩、二歩と後ずさった。


「すみません、びっくりさせました」


 でも、とすまなそうに俯いたまもるは、こちらに目を上げる。


「ここで俺がひとりで喚いている限りは、俺に聞こえる俺の声が幻聴でない保証などどこにもありません」


 ですから、ほんとうに嬉しくて、とはにかんだまもるは、声を出して笑う。それからまたぱっと顔をあげて、今度は困ったような顔をしてみせた。


「普段喋れないのは、ほんとうなんですよ」


 まもるは手を広げてこちらに一歩踏み出した。


「普段は、そうです……喉がうまく鳴らないような、言葉が、舌の上に乗らないような感じで……だめなんです。でも、ここに来ると」


 まもるは低い石の天井を見上げて、それからまた私の顔を見た。


「喋り方を思い出すんです。でも、喋れるときはいつだってひとりきりだ。そうしたら、俺が声を出してるか知ってる人なんて、ひとりもいないでしょう? 俺自身、確かめられないんです。確かじゃないんです」


 でも、とまもるは私の目を真っ直ぐ見る。


「これからは君が証人ですね」


 いつの間にかぽかんと口を開けていた私は、我に返って、口の奥から声が流れるのに任せてしまう。


「そんな喋り方なのね」


 私の言葉にきょとんとしたまもるの顔を見て、私はびっくりしていた心が解けていって、それから可笑しくなって笑ってしまう。


「ねえ、なんだかすごく変、へんね!」


 笑い声が胸の奥からころころ転がり出て、困った顔をしているまもるがおろおろしているのが見えた。


「ごめんなさい、へんなのは私のほう。でもなんだか可笑しくって」


 口を覆って笑い声を抑え、私は大きく息を吸ってまもるに向き直った。


「すみません、俺も、これがぎこちないっていうのはわかっているんです。でも、これだと間違いがないでしょう? その、君に失礼があっちゃいけませんから」


「どうして失礼じゃいけないの」


 私がそう聞くと、まもるは見るからに困った顔をして、まごつきながら


「ああ、その……うまく言えませんけど」


 と話し始める。


「人間、乱暴な言葉遣いでは信用を失いますよ……。その気がなくってもね。そういうものです。俺はただ、とても慎重なんです。人間ができているだとか、そういうのではなくって……」


 まもるの自信なさげな声は、だんだんしぼんで消えていって、まだ何か話したそうなのにどう話したらいいかわからないみたいな、そういう顔をまもるはしているのだった。


「ああ、ええと、その」


 まもるは身体を傾けて、奥へと続く石のアーチの向こうを指した。


「奥には椅子があるので、よかったら少し話していきませんか?」


 それから、まもるは私が両手に抱えたままだった荷物に手を伸ばし、持ちますと言って、私が遠慮する間もなく私の鞄を受け取ってしまったのだった。



 まもるに連れられてランプの灯った石積みの地下を進み、その間に吉見たちとはぐれてしまったことを話した。


「ええ、いつもそうなんです。俺がここに連れてこようとしても、皆んなどうしても途中ではぐれてしまって」


 そう話しながら私の横を歩いているまもるは、へら、と柔らかく笑った。


「なので、君の方が珍しい。例外なんですよ」


 れいがい、と口の中で繰り返した私は、自分の靴の先を見つめたまま、まもるの横を一歩、一歩と進んでいった。



 薄暗い通路の奥の木の扉を開けると、そこは読書机のあるこじんまりとした居間だった。人の家の匂いがする。まもるは小さな肘掛け椅子を私に進めて、それから自分は石壁の凹んだところ、小さな白い像の横に腰掛けて、私が座るなりすぐに口を開いた。


「すみません、無理に連れてきてしまって、でも、その、ひとと話すのがとても久々で……俺、舞い上がっているんですね」


 早口でそう話し終えたまもるは照れ臭そうにはにかむから、私はううん、と首を振った。


「私、あなたと話してみたかったの」


 思い切ってそう言って、私は自分のほっぺたがぱあっと熱くなっていくのを感じていた。そんな私のことをみて、まもるは嬉しそうに本当ですか、と笑った。


「俺も、君と話してみたかったんです。ええ、そう……話して、おきたかったことが」


 それからまもるは、いいですか、と私に問うから、私はわけがわからないまま、とにかくこくりと頷いた。そうするとまもるは、自分の指を膝の上で組み合わせ、私の目を覗き込んだ。


「君のご両親のこと、君自身はどう思っていますか」


 きょとんとした顔の私から目を伏せて、まもるは


「できることならもっと早く、この話をしておきたかった」


 と、独り言のように呟いた。


「もしかしたら、俺ではない別の人にもう言われたことかもしれません。でも、何度聞いたってきっと君のためになることです」


 ですから、と、まもるは切実なまなざしを私に向けている。


「制服を着た彼に君が一体何を言われたのか、俺はその全てを知りはしませんが」


 そこでまもるはひとつ息を吐いて、瞬きをした。


「君は、自分を、自分の生まれを、そして、自分の両親について、決して恥じてはいけませんよ」


 私は、自分の胸がぎゅうっとなるのを感じていた。まもるは言葉を続ける。


「彼らはこの帝都の世論においては決して許され得ず、許されないことによって、死して尚罪の象徴として世間に尽くすのです。彼らの死は帝都の人間たちの記憶に意味合いを持って刻まれ、彼らの倫理や道徳を形成し、補強します。彼らは一種の法律となってこの国に尽くすのです。これからも、ずっと」


 言葉の途中からランプの灯りが写り込んだ床の上に目線を落としていたまもるは、それからまた私の方を見た。


「でもね、君の方がずっとよくご存知でしょうが、彼らは公の人間であるのみでは、ないのです」


 まもるの紫色の目が、私の世界の真ん中にふたつ並んでいる。


「誰しも自分以外の誰かのことをできるだけ単純に、わかりやすく、ことによっては戯画化して見ようとします。当たり前です。世界の全てを受け取っていては、脆い人間など生きていけようもありませんから。だから、それは尊い人間の知恵なのですが、恐ろしい排斥と差別に繋がる悪徳の種なのです」


 そこまで話して、私が小さく口を開けているのを見つけたまもるは、しまった、というような顔をして頭の後ろをかき、それからまたぎこちない様子で口を開いた。


「いいえ、つまり、俺が言いたいのは」


 それから少し迷うような顔をしてから、まもるは私の心の中を探ろうとするみたいに私の目を覗き込んだ。


「君はきっと、『親としてのふたり』のことを十分にご存知でしょう……?」


 私は、肘掛に置いていた自分の手を、思わずきゅっと握りしめていた。何も言わない私の中の気持ちを読み取ったみたいに、まもるはすぐさまこちらに身を乗り出した。


「たとえ、彼らのしたことの一部が、誰かの命を奪うことの上に成り立つ合理主義の悪辣さの表出だったとしても、彼らがそれを悪と認めながら実行していたとしても、帝都の人間たちが彼らを正義の名の下に裁き、君の両親が彼らの目には極悪非道の大罪人としか映らなかったとしても!」


 まもるはそこで息をついで、目元を泣きそうに歪めた。


「君というたったひとりを守るために、彼らが一体何度世界を敵に回したことか!」


 大きく響いたまもるの声に、まもる自身が驚いて、彼はあわてて浮き上がっていた腰を壁のくぼみに戻した。まもるはそれから俯き、小さな声で


「君がもしそれをわかっていないのなら、とても不幸だと思ったんです。それじゃ、そんなのじゃ、あんまりですから」


 と続けて、居心地悪そうに口を閉じた。


「……そんなことまで知っているのね」


 私の声が石壁の部屋に澄んで響くと、まもるはぱっと顔を上げて立ち上がり、


「すみません、勝手に他人の口から、聞きまわったりして……。そうだ、君に直接聞けばよかった。それはごもっともですね」


 と謝るのだった。そうしてまた腰掛けながら、


「でも、君のことが知りたくて……」


 と言うから、私はどきっとしてしまう。


「ここに来たばかりの頃、君はどうにももっと頼りなくて、今ほどご両親の死から立ち直っていなかったでしょう……? そんなひとに、俺の知識欲を満たす、たったそれだけのために根掘り葉掘り聞くというのは、憚られました。いえ、これは聞き苦しい言い訳ですね」


 そうしてまもるは力なく笑って、それから黙ってしまう。私はまもると私の間に流れる音のない時間を聞いていた。ランプの中の火がゆらゆら揺れて、それに合わせて床に落ちるまもるの影も揺れている。部屋の中は外よりも暖かくて、冷えていた手の先に温度が戻っていた。私は喉の奥にとどまっていた言葉を口に出す。


「父さんと母さんが、過ちを犯したのは事実よ」


 まもるの顔を見ると、まもるは驚いたように少し眉を上げていたけれど、すぐに優しい顔になって、でも、と声を出した。


「でも、その過ちだって、お二人だけの意志で成されたことではないでしょうね」


 私がまもるの目をじっと見ると、まもるはその優しい顔のまま、私が自分の言葉の全てをちゃんと聞き終えることができるように、ゆっくりとした口調で話し始めた。


「あれには途方も無い数の人間が関わっていた。ご両親のような政府の関係者を含め、病院側の人間だってそうだ。官僚も、医者も、看護師も、あの政策について、それと知りながら黙認していた者は数え切れないほどいます。直接関わっていなくとも、もっと早く苦言を呈し悪事を止めるべき人間はいくらでもいました。けれど、皆それをしなかった。それだけの人間がそうしないでいて、自分たちの罪の全てを君のご両親に押し付けた。君の両親を人柱、生贄だと呼ばなければ、なんだということになりますか?」


 そこでまもるは息を吸い込み、私が尚も彼の顔を見つめているのを確かめる。


「数え切れない関係者の全てを全て処刑すれば、どれだけ巨大な死体の山ができることでしょうね。それらの全てが死刑に値するとも思えません。ですから、悪事の首謀者とされる君の両親の首でもって罪をあがなったわけです。合理的ですね。世間の怒りを鎮めるための生贄です。世間など、神ですら無いというのに」


 そこでまもるは何かを諦めたように少しだけ笑った。


「つまり、俺が言いたいことは……ご両親がなくなったのは、何も正当なことではないっていうことです。あれは不当な死なんです。君は、誰かが君に説く君のご両親の死の『正当さ』というものを、信じてはいけません。いや、信じなくていい」


 背中を丸めたまもるの影が石畳の床に落ちているのが、なんだか悲しかった。


「彼らが行なっていたのはきっと悪と呼ばれる所業でしょうが、そうであるからと言って、彼らをただ『悪人』と呼ぶのは安直に過ぎます」


 そう言い切るまもるに私の胸はぐらぐらして、私は思わず、でも、と口に出した。まもるは私が続き喋るのを待っている。私の声は小さく震えている。


「悪事を犯したことは事実だわ」


「でも、別に考えるべきです。もっと別の面からも、考えるべきなんです」


 まもるは両手をぐっと重ね直し、私に真正面から向き合った。


「彼らは死ぬべきではなかった。殺されるべきではなかった。少なくとも、彼らの人生の全てを『悪逆非道の大罪人』などというラベルで糊付けするのは、愚かですよ」


 まもるは辛抱強く私を見つめる。


「外の社会で生きる公の人間としての彼らと、親としての彼らは別物です」


 肘掛け椅子の中の私は、それでも彼の言葉を受け入れられないでいた。だって、それを受け入れてしまったら、私の中の何かが壊れてしまうような、そんな気がしたんだ。


「……許されないわ」


 私の声は怒ったように強張って、まっすぐにまもるに届いた。


「そうでしょうか?」


 まもるは微笑んでいる。


「親が子を大切に思ってはいけませんか? 親が何よりも子を守るために身を尽くすことは悪ですか?」


 私が吸った息は喉の奥に落ちて、胸の中が澄んだ空気で満たされる感じがした。まもるに諭されるたびに私の中に染み込んでいく、胸が軽くなっていくような柔らかい感覚が、それなのに私にはこわくて、私はやっぱりまもるが言っていることを否定したかった。


「父さんと母さんは、特別だったわ。裁かれなくては」


「いいえ、違います」


 そうゆったりとした口調で答えて、まもるは尚も微笑んだ。


「君の両親は君だけの両親ですが、彼らは親として決して特別ではありませんよ」


 まもるの言葉で、いつのまにかぐちゃぐちゃに絡まっていた胸の中の何かが、ひとつ、ひとつと解かれていくような気がする。この胸につかえていたものは、いつからこの胸の中にあったんだろう。


「親は、何物に代えても子を守ろうとする権利を持っている。法律上のそれではなくて、もっと根源的な、人間の生命というものに立ち返って立証される権利です」


 まもるは、ゆっくりとした声のままで言葉を続ける。


「多くの親がそうして生きています。なんとも不可思議で、社会通念上は不道徳にさえなりかねないことにね。君の両親もそういうひとたちだった。ほんとうに立派なひとたちですよ。君はふたりに大切にされたでしょう。それは、君だって疑いえないことなんじゃありませんか?」


 その言葉を否定する手立てなんて私にはなくて、私は唇を噛みながら頷いた。まもるはそれを見て、泣きそうに微笑む。


「君は本物の愛情の元で育ったんですね。君が貰った愛情っていうのは、何にも増して誇るべき財産です。誰にも奪われ得ない、一生物の……君はそれをきちんと受け取ったんですね」


 まもるの言葉はじんわりと私の胸の中に落ちて、染み込んで、私は父さんと母さんの顔を思い出して、目の奥が勝手に熱くなって涙がこぼれそうになるのを堪えていた。まもるの言っていることはほんとうだ。だから、こんなに胸が熱くなるんだ。口元に手をやった私からそっと目をそらしたまもるは、床を向いたまま話す。


「人間の悪の面だけを見てその人を裁いてはなりませんよ。人を裁くのは簡単なことです。けれど、簡単なことだけをするのは、愚か者のやることです」


 淡々とした言葉を終えて、まもるはまたこちらを向いた。


「君が与えられたような類の愛というのは、誰にでも与えられるものじゃありません。だから、どうか、大切にしてください」


「私」


 私が口を開いたので、まもるはひとつ首を傾げて、私の言葉を待っている。


「私、父さんと母さんを、愛していていいの……?」


 そうだ、私、ずっと不安だった。私は父さんと母さんと愛している。けれど、それが良いことなのか、そんなことをしていいのかわからなくなっていた。そして、私が罪を犯した父さんと母さんと愛して、父さんと母さんの子供である私のことを私が自分で愛して良いのかも、私には、もうよくわからなくなっていたんだ。まもるは私の言葉を聞いて少しの間びっくりした様子で固まっていたけれど、やがて、その顔に泣きそうな笑顔をいっぱいに浮かべた。


「ええ、是非そうしてください。そうすればご両親も浮かばれる。愛していることが相手に届き、相手がそれを真正面から受け取ってくれたなら、ひとが生きた理由っていうものの大半は果たされるものです。いつだって。君の両親が生きた理由の大半は、君がそうしておふたりを愛し返すことで、果たされるんです。君は今、おふたりのことを救っているんですよ」


 まもるは嬉しそうに笑って、それから、その目にじわりと涙が滲むのが見えた。


「君は彼らの愛を覚えておかなくちゃいけません。他の誰が覚えていなくたっていいんです。君が覚えていれば、それで、それだけで」


 まもるの泣き顔を見ながら、私はもうはらはらと泣いてしまっていた。私の涙に曇った視界の中にランタンの光が黄色く滲んで、きらきらと光の粒が散らばっている。その煌めきの中央にまもるが座って、私に向かって微笑んでいる。


「その愛さえあれば、君はどこまでだって行けます。どこまででも。そう、ほんとうに、どこまででもね」


***


 そっと忍び込んだ無人の中庭を突っ切り、俺は例の洋館を目指していた。頭はじんと痛んで重く、亜や市井の言葉がぐるぐると脳を巡って、耳から聞こえる音と、記憶の中の奴らの声の区別がつかなくなりそうだ。くそ、くそ、クソ野郎。俺は口の中で悪態をつきながら洋館の入り口にたどり着き、早足でロビーを抜けると、階段を駆け上がる。廊下を迷わず右に折れて、自分の足音の間で自分の腹づもりを口に出し、なんとか頭の中を秩序立てようと試みる。


「俺は、ひとりで戦わないといけない。あの女と」


 頭の中にぼうっと浮かび上がる朱色の瞳。俺に緩和剤を打ち続ける魔性の瞳。俺は、使い古される馬鹿な犬なんかじゃない、俺はそうはならない。お前のために死んでなんか、やらない。


「俺には、『知識』がある……」


 上手に使え、と言った市井の声音を思い出す。狂いのない、金色のまなざし。ああ、使ってやる。誰よりも上手に、俺は「知識」を使ってやるさ。


「敵を殺すには、敵のことを知らなければ」

 俺は胸ポケットから取り出した鍵で、目の前の青緑色の扉を迷いなく開ける。


***


 宵の口、街に再び夜の帳が下りた頃。かの透明な人物はひとりどこぞの屋根の上から市街を眺めていた。風の吹きすさぶ瓦屋根の上、誰にも見つからない場所に座り込んで見えるのは、遠く眼下で星々のように瞬く、電灯の色の群れ。それら全てを人の生命の証と受け取って、彼とも彼女とも言えないその人物は、街の灯りの中に何かを探しているようだった。


 何かが自分の元からなくなった。幾度覚えたかもしれぬそのぽっかりと捉えどころのない感覚に慣れてしまう、ということが不幸にして彼にはないのだった。きっと自分の元から誰かがいなくなった。けれど、この感覚もほんの数日で消えるだろう。そうすれば、この胸を騒がす喪失感も最初からなかったと同じだ。その人は飴玉のような目を遠方の景色に向けて、そのようなことを考えていた。形のない悲しみの水底にゆったりと沈み込み、漂い続ける余韻の波の中に彼の意識を泳がせていた、そんな彼のたった一人のセンチメンタルな舞台に、土足で踏み入る影が一つ。


「何の用かな? 『猟犬さん』」


 振り向いて黒いコートのはためきが目に入るやいなや、枇杷は望まぬ来訪者を牽制する。くらりと立ち上がる彼の目線を真正面から受け止めて、裁判所の執行人は瓦屋根にしっかと立ち、顔色も変えない。


「こんなところを女性一人でふらついちゃ危ない。送って差し上げましょうか? あなたの犬小屋まで」


 枇杷は眼前の猟犬じみた女、華をせせら笑い、それから目の端で己の退路を探す。彼がそれを見出し切らぬうちに、引き結ばれていた華の唇が不意に解ける。


「いいえ、結構。ご心配にはおよびません。自分の身を守る術は知っております」


 社交辞令のようなその文句で枇杷を睨みつける華を、枇杷はまっすぐ射抜き返した。


「そう……それじゃ、改めて問おうか。君は、僕に何の用がある?」


 枇杷がいつでも動き出せるようにつ、と微かに足を引いた。不気味に据わったままの華の瞳が、枇杷の攻撃性を帯び始めたその顔を視線で殺そうとする。


「何の、用か」


 瓦の乾いた音が相手の足元で鳴るのを、枇杷の耳が拾う。風を受けて、華の花弁のような髪がひらりと揺れて、夜の空の手前でたなびいた。


「貴方が誰よりご存知なのではありませんか? ……私などより、ずっと」


 機械音のように正確な華の声が、感傷の空気の余韻を一つ残らずかき消した。


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