第二十八話 正邪の巡礼
言葉を吐いた後の胸の中は人知れず熱くて、路地裏の冷気の中で心細さに自分の両手を触れ合わせたまま、私は八手に向き合ったままでいた。八手は何かを言おうとするみたいに微かに開いた口をわなわな言わせていたけれど、その血走った目線はやがて私の顔の上から外れてくるりと空を見上げ、八手はそれからぐらっと姿勢を崩すと、踵を返してよろよろと歩み去ってしまった。私にお礼も何にも言わないまま、何かをぶつぶつと呟く声を私の耳に残して。
あまりにもあっさりとした幕切れに、私は壁に寄りかかったまましばらく呆然としていたけれど、厨房の中から忙しそうな怒鳴り声が聞こえたのですぐさま身体をしゃんとさせ、ごみを片付けてから、何事もなかったかのようにカフェの中に戻った。お客の注文を受けて、オーダーを通して、飲み物を運んで、お会計をして、テーブルを片付けて、また新しいお客を迎えて──そうしてまたぐるぐると仕事を繰り返しながら、私は心配で仕方なかった。
秘密を喋ってしまった。喋るなと言われていたのに。八手があんな調子だったら、私の「言わないで」なんて聞こえてやしないだろうし、私が喋ったってことが、あの人に知れてしまったらどうしよう。テーブルの上を片付ける手を休めないままそういうことを考えて、お腹の奥がぎゅっと痛くなる。そんな心地になっているときに、後ろから
「ちょっと」
と、尖ったあの声が聞こえて、私の肩は勝手にびくんと跳ねてしまう。
「……そんなに驚かなくてもいいでしょ」
私が振り返ると、私が今頭の中に思い浮かべていたまさにその人、茜がすまなそうに肩をすくめているところだった。
「だって、後ろから急に声をかけるんだもん……」
と私が誤魔化すと、茜は目を伏せて謝る代わりにうんざりとした顔で手を上げる。私がそのまま茜の顔色を伺っていると、茜は眉をあげるので、私はいつのまにか固まってしまっていた背中を、ぴんと伸ばした。そうすると茜は
「変わりない?」
と聞きながら、私と一緒にテーブルの上の食器を片付けはじめた。私がその言葉に
「えっ」
とちいさく声を漏らしたのを聞いて、茜は私の目を覗き込み、
「何かあったの?」
と聞いてくるので、私はすぐさま
「何も」
と答えた。けれど、答えるのがあんまりにも早すぎた。もうちょっと間を置いたほうが自然だった、間違えた……と思っていると、茜は私の顔をますますじろじろと品定めするみたいに見つめてくるので、私は困ってしまい挙げ句の果てににこっと営業スマイルを作った。これも間違いなきがする! 茜はそんな私を胡散臭そうに見た後、
「何かあったら言ってよね。あんたはうちの大事な従業員なの」
と言い残し、台拭きだけを置いてお皿を持って行ってしまった。私は茜の後ろ姿にありがとうー! なんて気の抜けた声をかけて、彼女の揺れる黒髪が厨房の奥に消えていくのを見送る。私はそこでやっと気が抜けたのだった。
とりもののすぐ後、茜の下でウェイトレスとして働くようになって少ししてから、私は茜に呼び出され、私が茜と八手の間に見たもののことを話すことになった。二人の間にある蔦の話を聞いた茜は、しばらく俯いたまま表情を変えないで黙っていたけれど、それからぽつりと声を出して、
「このことは私たちだけの秘密」
と言って、私の目を真っ直ぐに見た。朱色の目はその一番奥から私のことを突き刺すように見ていて、薄暗い人気のないカフェの厨房で彼女がにこりとも笑わなかったあの夜のことを、私は今でもはっきり覚えている。
茜はそれからずっと、私と八手がふたりきりにならないように手を回していた。まあそれも、後からわかったことだけど。茜は掃き溜めの一日が終わるときには、必ず人が少なくなったこのカフェに来て、私の仕事終わりを見届けるのだ。それも、ひとりきりになった私を八手と引き合わせないようにするためだったんだと思う。きっと。それでも私が八手と顔を合わせるときは、いつも他のひとでなしが一緒にいたし。
私はカフェの床を掃除しながら、誰にもバレないように小さくため息を吐く。そりゃあ、私だって、口止めされたことを誰かに言ったりしたくなかったけど、あんなに急に来られて脅されたら仕方ないし、それにあのひとたちが私の言ったことでこじれるだとかどうだとか、私の知ったことじゃないじゃない。勝手にしてよね、もう。そんな風に口の中では強気になれるけれど、いざ喋っちゃったことが茜にばれたとき、どんなことになるか恐ろしくて私は泣きそうになる。もう、やだなあ。
朝の六時までそんな調子で仕事を済ませ、伝票を整理する茜の横で心臓がどぎまぎするのを必死で隠しながら、「喋った」ってことをもう茜に言っちゃおうかな……なんて迷っている間に、カフェの入り口のベルが乱暴に鳴らされる。私が首を伸ばしてそっちを見ると、吉見の兄妹がふたりして戸口からこっちを見ているのだった。お迎えだ。茜はそれをうんざりした様子で見やると、私にちらっと目をやってから帳簿に目を落として、
「おつかれさま」
とぶっきらぼうに言うので、私もおつかれさま! とぎこちなく笑いながら上着を羽織ってカバンを持ち、カフェを後にしたのだった。
「なんか残りもんある?」
なんて開口一番カフェの残り物のことを言う吉見の兄のことを、野良犬みたいだな、と思ったのは口に出さないまま、
「あげるー」
とカバンの中から湿気ったチーズのパンが入った袋を出すと、兄は
「サイッコーだな」
なんて大げさに言いながら私の頭をわしゃわしゃ撫でるので、私は兄の腕を容赦無くべしべし叩く。そうすると兄はなぜかまた嬉しそうに笑うのだった。妹も兄からパンを受け取って、歩きながらもうもしゃもしゃ食べ始めている。そんなふたりのことを眺めながら石畳の上にこつこつ靴の音を鳴らし、私はぽつり
「あんたたち、ほんと仲良しよね」
と口に出す。パンを頬張った妹がこちらを振り返るので、
「だって、いつもなんだかんだ一緒にいるじゃない」
と言うと、兄はつり目を見開いて、ああ、といつもの道化みたいな笑い顔をした。
「こいつが寂しがるからな」
と兄が言ったそばから、
「しね」
と、兄の言葉にほとんど被さるようにして妹の尖った悪態が飛んでくる。
「亜はこんな言葉遣いするようになんなよ〜」
なんて、慣れっこな様子で妹の言葉を受け流した後、兄はちょっと立ち止まって、
「お前、これからちょっとだけ時間あるか?」
と私に声をかける。私は部屋で待っている春待ちゃんのことを考えながら、
「ちょっとだけなら」
とおずおず答えると、兄はにやっと笑う。
「探しもんがあるんだよ」
***
路地裏を抜けて、うるさい大通りに出たのまでは覚えてる。でも、どんな道を通ってこの寝室まで戻ってきたかは不確かだ。茜不在のいつもの部屋のベッドに倒れこみ、止まらない指先の震えと肺を凍らせるような閉塞感に吐き気さえ催しながら、俺は口のはしを噛み締めていた。
あのひと、いつかきっと、あんたのことを殺してしまう。
亜の口調に嘘を言っているようなところはなかった。それに、あの娘の言ったことがほんとうであると仮定すれば、腹立たしいことに、合点のいくことがいくつもあるのだ。
俺が亜に接触しようとするたびに邪魔をしていた茜のこと、枇杷や真木の言っていたことも全部、「茜が俺を殺すと知っていて、奴らがみんなわざとそれを黙っていた」ということになれば、ばらばらだった全部が調和をもってうまくそこひとつに収まるのだ。全くもって美しいほどに。
奴らが思っていることには、茜が俺の魂を食らってんだかなんだか知らないが、彼女がいつか俺のことを喰らい尽くす。それは「四ヶ月後」かもしれないし、もしくはもっと早いかもしれない。だが、遅かれ早かれ、俺は茜に「殺される」。
頭の中でそう文を組み上げて、俺は腹の底から本物の冷えが喉の奥まで上がってくるのを覚えていた。俺はどうやってあの女に殺される? どう言う風に、どんな方法で? 俺はそれから、茜が俺に銃口を突きつけるのを思い描き、彼女が俺に馬乗りになってナイフを振り上げるのを想像し、彼女が俺の首を絞めながら、冷徹なあの朱色の目でこちらを睨みつけるのを脳裏に浮かべた。冗談じゃない。冗談じゃない……。
だが、それ以上考えたところで「茜が俺をいつどこでどんな風に殺すのか?」なんて疑問に、答えが出るわけもない。俺に今わかっているのは、奴らが俺に隠し立てをするほど切実に「俺が近いうちに茜に殺される」と確信してるってことだ。奴らの中にそういう腹づもりがあることだけは確かなわけだ。だが、ほんとうに、それ以上はわからない。何もわからない。けれど、俺はこのまま死にたくない。こっちも確かなことだ。俺の心臓が俺の身体に訴えかけて来るこの震えは、間違えようがなく本物だ。もし俺がこのまま死ぬなら、俺に鍵を残して死んでいった彼女ごと、俺はこの狂った舞台の上から跡形もなく降板するってことになる。そのときになれば、あの朱色の目さえ、う俺のことを振り向きやしないんだ。それは、そんなのは、俺にとって。
胸の奥がぐうっと詰まって苦しくなり、俺は右手に握りこんでいた鍵を顔の前まで持ってきて、それから両手で捧げるように持ち直し、額に押し当てた。全部、忘れちまったらいいんだろうか。君がいなくなったことまで、全部。そしたら俺も、また何にも考えずに楽しく愉快にこの掃き溜めん中で生きられるんだろうか。
あのとき流した涙がまだ底を尽きていなかったのか、ベッドの上に跪くようにしていた俺は、自分の伏した顔の上を涙が一筋滑り落ちてく生暖かさを覚えていた。額に冷たいまま押し当たった鍵の硬さを頼りにした俺は、書架の間で見た彼女のことをまた思い出していた。世の苦しみから解放されたような、穏やかなあの少女然とした表情。薔薇色の頰が、今もまた、俺の目の前でほころんで解ける。俺の記憶の中の姿のままの彼女が、俺に向かって首を傾げ、それからぽつりと呟いた。
「みつけて」
***
それからしばらく、こっちか? あっちか? なんて言いながら人気のない掃き溜めをふらふらする吉見たちに付き合わされ、足が痛くなってしまった私はもううんざりしていた。「かえろうかなー」なんて、ため息ばっかりつき始めた私に気が付いて、妹の方が
「ちょっとあっちのほう見てくるから、待ってて」
と言い残していなくなったので、私と兄は石壁に寄っ掛かり、彼女の帰りを待つことになった。
「ふたりとも楽しそうね」
と私が不機嫌を隠さないまま言うと、兄は
「楽しさってのは自分で見つけるもんだぜ?」
と笑う。私が、そうかもしれないけど……と口の中でもごもご言うと、兄はにやっと笑って
「まあ、こんな街に住んでなきゃ、お前だって毎日もっと楽しいのかもしれないけどな」
と言いながら私のすぐ横にしゃがみ込んだ。そんなこと言ったってね、と私が自分の中だけでつぶやきながら鞄を自分のお腹の前まで持ってくると、兄の声がなあ、と下の方から聞こえてくる。
「お前は、この街から出たいか?」
私が目をぱちくりとさせながら兄の方を見下ろすと、兄はこっちを案外まっすぐな目で見上げていた。おふざけの質問じゃないみたいだ。私はすぐに返事を返そうとして、それから、ちょっと困ってしまう。そりゃあ、こんな危ない街にいたくなんかない。でも、私はこの街の外に頼れる人がいないんだ。私は、父さんと母さん以外に血の繋がった人をずうっと知らなかった。普通は、両親以外の親戚とも仲良くするひとが多いんだってことも、知らなかったし。だから私は、掃き溜めを飛び出して帝都のどこかでひとりで暮らしていく自分っていうのを、うまく想像できなかった。いや、「ここで働かせてください!」って、茜のところに飛び込んだのと同じように思い切っちゃえばいいのかもしれない。でも。そうして答えを返せないうちに、吉見は自分から口を開く。
「俺は……俺たちはな、ここからなんとか抜け出したいと思ってる」
それから吉見は下を向いて、しゃがんだ自分の足の間の石畳の隙間をじいっと見つめているみたいになった。
「母さんがな、田舎で一人で暮らしてんだ。俺とあいつがここに来る少し前に足を悪くして、結構ヤバいんだ。帰ってやらなきゃなんねえ」
それから吉見は頭を抱え込むみたいにして触る。
「あいつだって、心配してる。毎日、毎日……毎日だ。あんなぶっきらぼうな顔して、ずっと……」
それから吉見は大きくため息をついて顔を覆い、それから弾みをつけて立ち上がって、私に向かっていつものひょうきんな顔を見せた。
「悪い、湿っぽくなったな。お前だって大変なのに、変なこと聞かせてごめんな」
「ううん」
と、私の喉が思わず心配そうに声を漏らしたのを聞いて、吉見はちょっとだけ悲しそうに顔を崩してから、今度は頼りなく笑った。それから何を言ったらいいのかよくわかんないまま私が俯いていると、
「おい」
と、曲がり角の先から妹が顔を出した。
「いた」
妹の言葉に兄が嬉しそうな声を上げるのを聞き、私は首をかしげる。
妹にくっついて夜の街の中を歩きながら、
「『いた』って何? 探し物ってひとなの?」
と、私が声を出した時、妹のほうがさっと私の口を覆った。なによ、と思って彼女の顔を見てから、きっとしたその視線の先を追うと、曲がり角から背中がふらりと姿を現したところだった。私はまた声を出しそうになるのをなんとかこらえて、二人と一緒に物陰に身体を引っ込める。それからまた、通りを覗き込む。間違いない、あの後ろ姿は、まもるだ。
「俺たちが探してたのはあれだ」
と、兄も私達の方に屈みこんで囁く。
「今日はあいつのねぐらを暴くぞ」
「それってなんだか、趣味の悪い遊びじゃない……?」
と私が心配そうに兄の顔を覗き込むと、
「別に、来たくなきゃ来なくたっていいんだぜ?」
と、兄は意地悪そうに返す。
「けどな、あいつのねぐらってのは、まだ誰も行ったことがないんだ。これは絶対に楽しい遊びだぜ。俺が保証する」
ひそひそと低められた兄の声を頭の後ろで聞きながら、私は一歩一歩遠ざかっていくまもるの背中を見つめていた。
「ねえ、あいつもういなくなるよ。来るの? 来ないの」
と、妹の方に迫られて、私は、うっと喉を詰まらせる。それから、兄からさっき言われたばっかりの言葉が頭の中でまた繰り返される。楽しさは、自分で見つけるもの──。
「……行くわよ」
私が何かに負けたような気持ちでそうこぼすと、ふたりは満足そうにいたずらっこみたいな顔を見合わせた。
***
俺は青緑色の扉の前にいた。金のドアノブが、月の光を受けて鈍く光っている。またここに来てしまった。三日前にここで彼女の姿を見てから、俺の心と身体の全てを揺るがすようなあの衝撃をまた受けるのが恐ろしくて、俺はここに足を向けられないでいた。けれど、また戻ってきた。左手にはしっかりと鍵を握り、今日は上着も羽織ったままだ。準備は万端。けれど、俺はやはり不安だった。ここからあの場所に入り込んでしまえば、何が起こるかわからない。そういった類の未知に対する恐怖が、俺の足をなお、扉の前の廊下に引き止めていた。
俺は青緑の扉の面に触れ、それから深く息を吸い込む。ざらりとしたその表面は、やはりそれが生体であるかのようにほのかに温もりを持っているように思われて、俺の身体はそれに逆らうようにしてざわりと総毛立つ。ここから先は、奇怪の体内。だが。
「みつけて」
自分の頭の中に、彼女の声音を再び呼び起こす。そうだ、俺は、みつけなければいけない。きっと、俺が求める全ての答えがここにある。この確信は、間違えようがないものだ。俺はあきらめたように鍵を鍵穴に差し込み、軽やかに錠が外れる音が耳に流れ込んでくるのを確かめ、今度は思い切って扉を奥へと押し開けた。
***
まもるの背中を見失わないようにしながら、私と吉見たちは足音を殺してまもるの後を付いていった。まもるは人気のない石積みの古い町並みの中を下っていくのだった。足元に苔が生えっている湿った石畳の上を、こっそりこっそりと、愉快そうににやにやしている吉見たちにくっついて前に進んでいるうち、私はやっぱり悪いことをしている気持ちになった。だって、自分から言わないで秘密にしていることをひとにばらされちゃうのって、ものすごく悲しいことでしょ。私は小さい頃あんまり友達もいなかったし、こういうの、あんまりわからないほうなんだと思うけど、これはきっと、間違い無いと思うんだよね。だから、こんなことほんとはしたくないんだ。でも、私は。
私は、初めて会った日にまもるが私の手を握ってくれたことや、制服の女から私を守ってくれたこと、一緒に柊を見た日に彼が私に向けた笑顔や、北崎から私を助けてくれたときの、彼の背中……。そういうことのひとつひとつを思い出していた。私、私は。
まもるのことを、もっと知りたい。
そう思っているうちに、まもるの背中が不意に、ほんとうに不意に、ふらっと石のアーチの向こうを曲がって消えたから、私は並んで歩いていたところから一歩前に踏み出して、
「見失っちゃう」
と小さく声を出して、後ろにいる吉見の方を振り返る、けれど。
「あれ?」
きょとんと声を出してしまった私のことを咎める二人はそこにはいなかった。ほんと一瞬前まで一緒に歩いていたはずなのに。薄暗い石積みの坂道はしいんと静まり返っていて、そこに伸びる影は私のものひとつだけだ。辺りを見回すけれど、誰もいないその狭い通りにかすかに差し込んだ月の光が、無人の家の窓ガラスに写り込んで光っている。私は戸惑ったまま、春待ちゃんへのお土産のラザニアが入ったままの鞄を自分の前に引き寄せて、それから吉見の二人を呼び、
「ねえ……」
と遠慮がちに声を上げてみる、けれど、返事はないし、私以外、周りに人がいるような気配もない。来た道を振り返ってみるけれど、ただまもるの背中を追っかけて何にも考えないまま初めて来たところだから、どうやって帰ればいいのかもわからない。吉見のふたりがする意地悪にしては、意地悪過ぎて、なんでふたりが急にこんなことをして私を困らせるのかもわからなくて、私は寂しくって泣きそうになった。戻ろうかな。戻ったら二人が笑って待ってるかも。でも、こんな意地悪するなんてわけわかんないし、困った私を見てふたりが揃って笑ったりしたら絶対許してあげない。そうして下ってきた坂の上に向かって足を一歩二歩と踏み出して、それからまた、まもるが消えていった石のアーチのほうを振り返る。
楽しさは、自分で見つけるもんだぜ?
私は心細さに鞄をぎゅうっと抱きしめながら、自分の目が石のアーチを見るのをやめられないことに気づく。その奥の暗がりの中で、橙色のランプの火がとろとろと燃えている。帰っちゃえば簡単だ。でも、帰っちゃえばそれで終わりなんだ。
もしかして私、あのふたりにテストされてるのかな……。私は立ち止まったまま唇をきゅっと結んでいた。きんきん冷える冬の空気の中で、鞄を抱え込んだ手の先がじりじりと冷えて痛くなっていく。ずうっとここであのアーチを睨んでいるわけにはいかない。私は。
私は重い心に縫いとめられていた片足を石畳の上から引き剥がし、くるりと踵を返して、私は靴音を殺しながら進み、石のアーチをくぐった。
***
前来た時と変わらない、無機質で均等な角ばった景色。
書架の間から紺碧の夜空を見上げて自分のいる場所の天地を確かめ、俺は鍵を懐のポケット奥深くに押し込む。そうしてじっと押し黙っている書物の間に立って目を閉じ耳をすますと、しんと冷えた冬の空気の向こうから、ここで見た記憶たちやかすみの表情まで、何もかもが、見たときのまま鮮明に浮かび上がってくる。やはりそうだ。ここにいる間は、どうやらかすみのことを忘れないでいられるらしい。
俺はそこで安心して目を開き、張り巡らされた窓の格子の下、遠く揺れるランタンがからん、からん、と音を立てるのを聞いている。さあ、俺が探しているものは、どこにある?
そうだ、ここに答えがあるというただの直感に違いないもののみに従って、俺はここにやってきた。だが、探す当てなどない。そしておそらく、俺の目が捉える限り、この書架の空間には果てもないように思われた。だが、きっと、俺は見つけられる。何かに行き当たることができると、俺は知っている。探さなければならない。見つけなければならない。
俺は一つ息をすると、そのまま歩き出した。迫ってくる左右の書架に並ぶ背表紙のひとつひとつを睨みながら、これも違う、あれも違う、という妙な確信に背中を突き動かされ、俺は歩調を緩めることなく進んでいく。足の裏が床板の硬さを確かに捉えている。通り過ぎていく背表紙の全てが俺のことを睨みながら、それでいて、俺が通り過ぎていくのを黙殺している。どこだ、どこにある? 俺の探しているものは──。
そのとき、があん、と甲高い音が響いて、俺から十歩も離れていない視線の先に何かが落下した。そのまま低い音を立てながらランタンのぼやけた灯りの下に転がったのは、鈍い色をした「鉄柱」だった。その柱は落ちたときの衝撃のままぐるぐると床の上を転がり、歩み寄った俺の靴の先で止まった。俺はこれを、見たことがある。そうして俺がその鉄柱から目を上げた書架の中に、一冊の本が押し黙って居直っていた。深い茶色の革拍子にまとめられた、厳しい風貌の背表紙には、金文字のアルファベットが踊っている。英語じゃないらしい。
「……カラ……ム」
文字をなんとか読もうとするが、どうやらこれは俺の教養じゃ手が届かないところにある知識が必要らしい。けれど、俺は今何の辞書も持っちゃいない。俺は眉をひそめてその背表紙をしばらく睨んでいたが、そのまま諦めるように息を吐くと、その本だけを書架の中からまっすぐ引き抜いた。ずっしりと百科事典のような重みを持ったその本を開いてみると、中の紙は黄身がかっているが、若い本のように思われる。古くはない。偶々開いたページに書き込まれた文字に目を通していくと、なんと、知っているシーンに行き当たった。俺はぞっとしながらも目を見張り、文面を目でなぞっていく。
夕暮れの窓際で煙草を吸っている女の話だ。「俺」は、彼女が差し出した煙草に手を伸ばして、それで──。そうして次の行へと目を移そうとしたとき、聞き覚えのある、あの「紙が擦れる音」が俺の耳に入った。それが何の音か思い出した直後、俺の持つ本のページの隙間から、紙の蝶が一頭逃げ出して、舞い、ひらりと俺の肩に止まる。俺は嫌悪感に顔がこわばるのを覚えていたが、けれど身をよじるのを耐えて、それからぐっと奥歯を噛む。それからむきになって今自分が読んでいたページの上に手を乗せ、その手を本の中央へぐっと押し当てる。
「連れて行け」
俺が誰に言うとでもなく口にした言葉が合図になったかのように、本がびりびりと震えだす。いや、震えると言うよりは、俺が触れる紙の下で、幾千幾万もの何かが小刻みに蠢きだしたという感触だ。俺がそれでもページの上に手を押し付け続けると、本の奥から手のひらへと微かに伝わってきていたその「蠢き」が、俺の手まで紙十枚分のところまでせまり、それからすぐさま紙一枚を隔てたその向こう側までやって来て、ついに俺はその「蠢き」そのものに触れた。びくびくびくびくと、思い思いにはねる、筋肉を持った昆虫の胴体が、今飛び立たんとして俺の手のひらの下で小さく無数に暴れているのだ。それでも俺は歯を食いしばり、両足を踏みしめて、本を取り落とさないまま耐えていた。本は、手に持っていられないほどの運動量を爆発させて震えだす。もう持っていられない、そう思った時、俺が手を押し付けていた紙束がばらりと解け、ついに俺の手のうちから無数の蝶が散乱した。俺の頭からつま先までを包み込む、羽音の嵐と、五里霧中の紙の色。だがもう、ここまでくりゃあこんなのは、どうだっていい。俺は恐ろしく落ち着き払ったまま、目を伏せた。
記憶の海に、ダイブする。
チェス盤の向こうに座っているあの人の手が、盤の上にかざされて、白黒の市松模様の上に黒い影が伸びる。
「お前は負けるなよ」
父親のようなその声が俺に向かって慈愛に満ちてそう唸った。そうして俯いた俺は、いつのまにかそのままぐらりと石畳の上に倒れ込んでいた。夜に灯る青い電灯の色。その遠い明かりが、俺の顔のすぐ横に映り込んでいる。てらてらと光る真っ黒な地面の上に広がって周りの景色を映しこんでいるのが自分の血だということを、俺は思い出していた。そうだ、腹に開いた穴から、とめどなく血が流れ出している。熱い痛みの海の中に俺は倒れ込んでいるのだ。地面に横たえられた俺の頭の下で、髪が俺自身の血を吸い上げ、ねとりと固まっていくのがわかる。傾いた視界の中、俺は虫の息で、俺のことを刺した相手がまだ俺の視界の中でこちらを見下ろしているのに気づいていた。
俺、あなたのことがわからない。でも、
「俺」
掠れた声が喉の奥で鳴る。鳴る、ってほどじゃなかった。かすれる息のまま、ほんのわずかに言葉のような響きをともなって、それでも舌が口の中で動いていた。こんな風になってでも、この口を、喉を、声帯をなんとか動かしているのは、俺の中にわずかに残された生気からふり絞られた気力であって、疑問であって、使命感であって、どうしようもない不理解からくる、寂しさを伴った悲しみの切実な情動だった。
まだあなたのことを信じています。
声にはならなかった。だが、俺の口はそう言おうとした。口の周りの筋肉が動いた。唇がかすかに戦慄いたように思われた。けれど、霞んでいく視界の中で、何もかもが定かじゃなく、遠い。身体がずっしりと重いまま、流れ出し続ける己の血に浸かって、石畳の奥へと沈み込んでいくみたいだ。耳は、まだ周囲の音を拾っている。何か、返してください。俺は、それじゃなきゃ。
「どうしようもない馬鹿だなぁ、お前」
耳慣れたその声が間近に聞こえて、けれど俺はその言葉からあなたの真意を汲み上げることができなかった。落ちてくる瞼をぎりぎりのところ、微かな息の隙間で押し上げる。立ち上がって去っていくその背中が俺の視界の奥に遠のいていく、もう目を開けていられない。俺、わかりません、あなたのこと。俺には、俺は。耐えきれず、瞼が落ちる。
どうして、裏切ったんですか。
はっと目を開けると、俺は青緑色の扉の前に座り込んでいた。手の上にずっとあったように思われた本の感触は我が手から綺麗さっぱり消え去り、俺の左手は空を掴む。しんとした洋館の中に、俺の荒んだ息遣いが微かに響いている。俺は、懐から鍵を取り出して握り込み、それからなんとか今見てきたばかりのものを頭の中で秩序立てて思い出そうとした。
「『裏切った』……?」
自分の口で、今見てきたばかりの記憶の中から拾い上げた言葉を繰り返す。裏切った、裏切った。「俺」は確かにそう語っていた。そして、今見た記憶の登場人物二人を、俺はどちらも知っている。倒れた「俺」に踵を返して去っていく、「背の高い」、あの「男」。落ち着いた声音が、倒れた「俺」に降りかかる。血の海に倒れ込んだ「俺」の元から立ち去ったあの男は。
「……市井だ」
***
歩みを進めるほどに辺りは暗くなって、私は泣きそうになった。一本道だったから、きっと迷ってはいないと思うのだけど、あの坂でぐずぐずしていたから、まもるはもう随分先に行ってしまったみたいだった。吉見たちだっていないし、周りは全然人気がないし、進めば進むほどに地下へと潜っていくようだったから、自分の靴音がこおんと高く響いてしまって、もうまもるに気づかれないように気を配ることもできない。やっぱり来なきゃよかった……と思いながら戻ることもできなくて歩いていると、ぴしーんと高い音が聞こえる。私がぎょっとして振り返ると、天井から滴った水が床に落ちて高い音を立てているのだった。見上げると、天井の石の割れ目から水がにじみ出ていて、あたりの壁はじっとりと湿った空気の中でところどころに苔を生やしている。奥に進むほどに天井も低くなっていくし、明かりの数もどんどん少なくなる。もういや──。
そのとき、遠くで、からから、と石が転がるような音がして、私は思わずわあっと声を上げてしまう。もうこっそりひっそりしていることなんて私にはできなかった。私はもうやけになって
「ごめんなさい!」
と音の主に向かって半べそで声を上げる。すると、どこからか、かつかつと靴の音が聞こえてくるけれど、音が反響してしまって、自分がどっちから来たかもわからないから、相手がどこからやって来るのかもわからない。私がぐるぐると辺りを見回していると、足音が止まった。
「君は」
知らない人の声に私が振り返ると、ひたひたと冷気の漂う石のアーチの向こうから、紫色の瞳がこちらを見つめていた。




