第二十七話 笑気に溺るる肥溜めの塵
頭が痛い。
師走の空気が呼吸のたびに口内の僅かな水気を攫っていく。俺は凍える手の内に例の鍵を握りしめたまま、掃き溜めの東を走る河、その橋の下に身を潜めていた。かすみが死んで、彼女の幻影に書架の間で会ったのは三日前のこと。つまり、枇杷が中庭でその足に縋り付く俺を嫌悪に満ちた目で見下ろし、俺がなすすべもないまま地べたに膝をついて奴の後ろ姿を見送ってから、もう三日ってことになる。
頭痛がマシになりゃいいと思って、俺は懐から煙草とライターを取り出した。潰れた紙の箱と、チタン製の銀色の体躯。だが、取り出したライターに彫り込まれた蓮の文様をまじまじと見ているうちに、どうも吸う気が失せてしまった。これを俺に渡した茜の顔が、銀色の反射の向こうにちらついて仕方ないのだ。俺は悪態をつくと、煙草とライターをいっそ河ん中に投げちまおうとして、でも思いとどまってその一式をまた懐にしまい、今度は頭を抱え込んだ。
あの場所でかすみに会ってから、俺の世界は、ずれて狂って傾いた。本来、こうして夜の闇の中に心臓が覚束なく揺れて、どこにも寄る辺がないように思われる不安定な夜こそ、茜の毒を受けて知らぬ間に寝台の布の沼へと身を沈めてしまうのが一番いいやり方だってことは、俺にもよくわかっている。だが、そうして劇毒でいらいらとした神経を殴りつけ尖った感覚の端を丸めて鎮めてしまうには、どうも真に迫ったことに遭いすぎたようだ。書架の合間に微笑む、薄い金色の彼女の姿。彼女の、好奇心に満ちたあの眼差し。目の奥の色。彼女の目は、何色だったっけ──。
俺はそこではっとして、慌てて手の中に形見の鍵を握り込み、己にその痛みを刻み付ける。鍵の端が手のひらに食い込むたびに、そこからあの時の記憶が流れ込んでくるみたいだ。そうだ、彼女の目は橙色だった。何を忘れてるんだ、俺は。
昨日までの二日間もそうだった。この鍵を手のうちで強く握っている間は彼女のことを思い出していられる。けれど、一度手放してしまえば、すぐさま彼女のことが俺の脳裏からするりと抜け出し、気づけば彼女の容姿や目の覚めるようなあの斬撃や、あの時俺に向けられた笑顔のことさえ俺の中から脱落していく。俺は俺自身逆らうことのできないその忘却に呑み込まれるたび、この鍵を握りしめて喪失の濁流を耐え忍んでいた。何の抵抗もなく俺自身が彼女を「忘れようとしている」ということが、俺には恐ろしくて堪らなかった。
だから、俺は寝る時間が来るたび狸寝入りで茜をやり過ごし、俺はこの三日なんとか彼女に毒を注がれないまま眠りについた。翌日目を覚まし、茜がもう部屋を後にしているのを確かめると随分と安心した。三度目の夜は、横になって目を閉じる俺の頰に茜の指が触れ、その柔らかな指の腹が俺の前髪をそっと掻き分けると、彼女の影が値踏みするように俺の頭にしばらくかかっていた。けれど俺が相変わらず目を開けないままでいれば、その影も指も俺の上からふっと離れていった。俺は藪の中で猛獣が去るのを待つ兎みたいな頼りない風情で、じっと毛布にくるまり息を殺していたわけである。そして俺は三日、あの恐ろしい部屋で生き延びたのだ。けれど、茜が何もしないままこんなに俺のことを放っておいたことは今まで一度たりともありゃしない。せいぜい三日が限度だろう。つまり、もうリミットは来ているわけだ。それに、俺自身ももう限界なのかもしれない。彼女に溺れない夜は、こうして正気の恐怖が俺の身体中を満たすから、息をするのさえ不安になる。そうだ、まさしく今みたいな風に。そして限界を迎えた今日、俺は部屋から上着を掴むと、ぎしぎしと痛み始めた頭を首の上に乗っけて、とうとう真人間の渦巻く夜の街へと飛び出したのだ。あの朱色の目から逃げ延びるように。
かすみの死を一人で抱えたままでいることはとてもできなかったから、俺は昨日まで華屋の連中を片っ端からひっ捕まえては、かすみについて尋問した。彼女が死んでどう思うんだ、生前の彼女はどうだった、俺の知らない彼女のことを教えてくれないか──だが、そういった俺の奔走は全て無駄に終わった。情緒不安定な俺のまくしたてはあまりに精神異常者の喚きそのものだった、というのはもっともであるとしよう。だがそれにしても、奴らは俺の問いかけに一切まともに答えやしなかった。「何を言っている」、「お前の言うことはめちゃくちゃだ」、「頭を冷やせ」、奴らが返すのは、そういった応答ばかり。奴らは俺の言葉が描き出す彼女の死に纏わる物語について全くもって聞く耳をもたないばかりか、「かすみ」という名前すら脳で知覚できないかのようだった。必死になって彼女の人物像に言葉を尽くす俺に奴らが向ける冷え切った目線に、俺は俺がこの数日間見てきたものの全てが幻であったかのような錯覚を覚えた。俺はもしかしたら、この数日間眠っていたのかもしれない。もしくは、彼女に関する俺の記憶と思しき映像の全ては、長い一晩が俺に見せた悪夢に過ぎないのではないだろうか。けれど、そうだとしたら、こうして手の内側に鍵の鋭利な痛みを刻むほどに蘇る、鮮やかな少女の笑顔とは、何だ? 何なんだ? 俺は何を思い出してるって言うんだ? 漠然として、曖昧とした、自分が地に足つけてることすら確かでない閉塞感の中、しかし俺はやはり彼女が存在したということを確かめた。そのきっかけになったのは、暖炉の前の肘掛椅子に座った枇杷が放った言葉。
「ここでは、死者は生者の記憶から消えることになっている」
奴の言葉で全てが腑に落ち、俺はとうとう一つの真実に行き当たった。ここの連中は、死んだ奴のことを忘れてしまうのだ。まるで最初からなかったかのように、死者が幻想となって遺された者の記憶にとどまることさえ許さないかのように。奴らは、つまりは俺たちは、死者の名前や容姿や仕草の全てを忘れるだけではなく、彼らが「いなくなったのではないか」と考えることさえ忘れてしまう。そんなことには思い至らない。死者は、生者の「意識にものぼらない」のだ。
じゃあ、もし俺がこうして彼女のことを思い出さなかったら、誰が彼女のことを思い出してやるんだ……? そういう風に考えて、俺はいっそう恐ろしくなった。確かにここで苦しみながら生きていたであろう彼女のことを、誰もが忘れてしまうわけだ。忘れられれば、ないのと同じだ。いなかったのと同じだ。今ここで彼女が生きていたことを証明できるのは俺しかいない。なぜなら、他の奴らは彼女が生きていたことの証明を何ら持たないばかりか、「証明しようとさえ思わない」んだから。そうして考えているうち、血の海の中で微笑んだまま俺の脳裏の中央に磔になった彼女への哀れみは、彼女への哀れみであるだけには止まっていなかった。俺は、指の先までこわばって震える。
俺もまた、彼女のようになるのか? 最初からいなかったかのように消えちまうのか? 真っ暗なごみごみした路地裏で殺されて、悲鳴もうめきも出せずに、石畳のシミのひとつに──もしくは、それにさえなれずに、みじめに消えてなくなるしかないってのか? 俺には彼女みたいに死を受け入れて微笑むことなんざ、まだできやしないだろう。いや、できるんだろうか? いざとなりゃ、俺だって、「もう満足な人生だった、疲れちまったからもう眠ろう」って、そう思えるんだろうか? ……いや、無理だ、やはりそれは無理なことなんだ。だって、俺はまだ死にたくない。だから、俺は今ここにいる。
橋の裏側にびっしりと蔓延る腐った苔の匂いを嗅ぎながら、濁った河の水が流れる音を聞いている。こんなとこで死ぬのは御免だ。こんなゴミ溜めの中で、まさしくゴミみたいに死ぬなんて、そんなの。ここに来て地下水路で初めて人を殺した時、人を殺すことが俺の脳に刻む鮮やかな刺激を享受した時、俺はもう、何もかもがどうでもよくなった。だから、俺がこれから生きるとか死ぬとかはもはや問題ではなくなったし、ここに来て俺はやっと生き始めたとさえ思ったのだ。俺をここに連れてきたあの朱色の目は悪魔の持ち物に違いないだろう。けれど、それと同時に俺にとっては救いの色をまとった一つの象徴でもあった。だが、こうしていざ他人の死を見送ってみれば、死ぬのが恐ろしくて仕方ないときた。俺が今、体現しているところの小動物然とした人間らしさは嘲笑ものだ。情けなくて笑っちまう。だが、笑い飛ばしたところでこの心臓の奥からの震えが消えるわけじゃない。
かすみのことで華屋の連中から何の収穫も得られなかった俺は、次には俺自身のことを華屋の奴らに問うて回った。またやって来た俺をうんざりと見下ろした椿は俺の鼻先で戸を締め、枇杷はにっこりと愛想笑いを返して有無を言わせぬまま洋間の席を立ったが、俺は部屋から顔を出した真木の胸ぐらをなんとか掴み上げた。
「なあ、お前、いつか言ってたよな」
「今度はなんだよ、お前」
なにやらデスクワークに追われていたらしい真木はやつれた顔を見せながらも、俺の腕を振りほどき、こちらを睨んだ。
「確か言ってたろ? いつだったか、『俺の寿命は四ヶ月だ』って」
真木はそこで俺の目をじっと見てから、
「言ったかも知れん。だが、覚えていない」
などと飄々としらばっくれる。俺が要領を得ない問答に歯をむき出したのを見て、真木は不自然なほどに無表情を保ちながら、
「俺の言葉の大半に意味はない。お前だってそうだろ」
そう言って閉められる扉の隙間に俺は身体をねじ込み、
「てめえ、俺は真剣なんだぞ」
と声を荒げるが、真木が表情を崩すことはない。奴は俺を迎え入れるようにもう一度大きく戸を開け、俺が安堵して奴に向き直った瞬間、扉を勢いよく閉めて俺の足先をその隙間に容赦なく巻き込み、俺が身を引き痛みにうずくまっている間に戸を閉め、哀れな俺を廊下に残して部屋の奥へと引っ込んじまった。
枇杷がいつか、洋間で俺が座る椅子のことを「早死にするやつの席」と言ったのだって引っかかる。だが、それを問おうとしたところで、あいつとも話にはならなかった。奴らは、俺がさっさと死ぬもんだとハナから決め付けてる節があるようだ。だが、一体何を根拠にそう言ってやがるんだ。俺がこの掃き溜めに来て得た力は「死なない力」だ。お前らの思い通りになんか、死んでもなってたまるか。そう思いながらも、俺は茜のことだけは訪ねなかった。俺はこの三日間、彼女から徹底的に逃げて逃げて逃げ続けた。彼女の美しい毒から。そして、俺を捉えて殺してしまう、あの朱色の瞳から。俺は今、人生のどの局面よりも、俺に迫る死というものに対して誠実で真剣になっていた。今の俺が、茜のもたらす狂った快感の渦に身を落とせば、かすみのことを忘れてしまうばかりか、俺自身の生というものさえきっと失くすことになる──そんな確信が俺の腹にはあったのだ。掃き溜めに来る前のことも全部ひっくるめて、俺は自分の鼻先に具体性を持って迫る死、それも、俺と言う存在がそのまま虚無に落ちてこの世に何も残せないことが確定した上で起きるだろう真っ暗闇の中の死っていうが、いつにも増してこんなにも親しげに、隣人のように俺の横に寄り添っているのを、今、誰より深く知っているのだ。
俺はこの掃き溜めで、どんな風に死んじまうんだろう。項垂れるたびに乱れた髪が耳にかかって鬱陶しく触れる。俺が確かにまだ生きていることを明示するかのように、息の温度が白く浮かんで視界を横断する。
ごめんね。
胸に刺さったままの茜の言葉がまた耳の奥で鳴った。あの言葉は一体なんだ。記憶の中にぽつぽつと散りばめられた、今まではどうでも良かったはずの言葉たちが、今更こぞって俺の背中を追いかけ責め立て苦しめる。そうして苦しめるくせして、その言葉を発した本人たちは、その言葉の内側にある「核」ってものを、誰一人俺に教えてくれやしない。俺は茜にあの言葉の意味を聞かなきゃならない。だが、茜の毒を受けずに野放しになった今の俺と、彼女がろくな話をするとも思えない。次に会ったら、彼女は間違いなく俺を「教育」しにかかるだろう。そんなことはわかってるんだ。でも、それじゃ俺はどうすりゃいい。寒さと不定形の恐れで足の震えが止まらない。口の端が乾いた空気の中でぴりりと切れるのがわかる。俺は、俺は。
その時俺は、胸の中に刺さったままでいた、もうひとつの「言葉」を思い出した。
***
深夜二時を回っても、カフェからお客はいなくならない。それはそうだ。だってこの街が動き始めるのは外の世界の日が暮れた六時くらいからで、また日が昇る朝の六時くらいまでは私のパートタイムは終わらないんだもの。もう一息がんばらなくちゃ。
私はお客さんが見ていない厨房の中でぐうっと伸びをする。ついさっき休憩時間が終わっちゃったのだけど、私はもう少し休憩室の机でまどろんでいたかった。まだ、疲れている。いろんなことがあったばかりだし。
北崎と広場で出くわしてからもう四日になる。あれからはもう制服に襲われてもいないし、北崎たちは不気味なくらいだんまりで、あれからは一回も広場での見世物はやっていないみたいだ。それでも華屋のひとたちは心配して私から目を離さないようにしてくれているし、カフェでのアルバイトが終わったら吉見や市井が私のことを迎えに来てくれる。一人じゃ危ないからってことらしい。確かに、この前は失敗だった。でも、通りであの子の声がして、身体が勝手に動いてしまったんだもの。今度からはああいうこと、ないようにしなきゃいけないけど……。
あの日、私たちは無事に広場から逃げ出した。うまく走れない私のことをまもるとみなみちゃんが支えてくれて、私はあの恐ろしい舞台を後にしたのだった。一度振り返ったとき、目に痛いほど眩しいライトの中、広場の真ん中に立ち尽くした北崎が、血の仮面の中から去っていく私たちのことを睨み続けているのが見えた。後ろに物言わぬ群衆を従えた北崎が視界の中で遠ざかっていくのが、今も私の瞼の裏に焼き付いている。
私はとうとう観念してホールに出て、食器の下げられていないテーブルへ向かい、お盆の上にお皿やコップを乗せて、テーブルを拭く。だけどね、悪いことばっかりじゃないんだ。あの日から、私は寂しい一人暮らしじゃなくなったんだもの。
そう、あの日私の叫びを聞いた市井は、広場の中にぽつんと立ち尽くしているあの子を腕に抱え、連れて出してきてくれた。それから身寄りのないあの子は、私と一緒に暮らすことになったのだった。市井だって「預かってやってもいい」と言っていたのに、あの子は不安そうに私のほうに寄り添ってきたから、それ以上何も言うことなんてなかった。昨日オムライスを作ってあげた時も喜んでくれて可愛かったな。私に妹がいたらこんな風だったのかもなんて気持ちになった。今日も帰ったらカフェの残り物を一緒に食べよう。そう思ったら、私だってもうちょっと頑張れる。
それに、私は部屋に帰っても一人じゃなくなった、ってだけじゃなく、新しくわかったこともある。最初に彼女とあったあの夜から、彼女はずっと掃き溜めの中にいたらしいのだ。というのも、私のことを振り切って「おとうさん!」と表通りに飛び出した彼女は、結局制服に捕まってしまったようなのだ。それから彼女は制服の根城の中に閉じ込められ、四日前のあの夜、また街の中に出された。話を聞けば、あの子は、
「『ここに立ってろ』って……言われたの……」
と、うつむいて涙ぐみながら話してみせた。
「あのひとたちに、『ここに立って待っていれば、何もこわいことしない』って……」
それから彼女は小さな口元をきゅっと結んでほろほろと泣き出したから、私は困ってしまいながら彼女のことを抱きしめた。さらによくよく話を聞いてみれば、彼女は私をおびき出すために通りに放り出されていたらしい。たぶん、私があの子と会ったことがあるってことを、制服たちは知っていたんだ。だから、彼女のことを餌にして私のことを捕まえた。私の心を弄んで、あまつさえこんな小さな女の子にまであんな怖い思いをさせて、こんなこと許せない。
「そういえば」
オムライスを食べている時、ほっぺにケチャップをつけたままの彼女に声をかけると、彼女は氷色の目を私に向けた。
「あの、今、話すことじゃないかもしれないんだけど……その……」
そうして言い淀む私の顔を、首を傾げてまじまじと見た彼女に、私は小さく息を吸い込んで、
「ええっと、変なもの、食べさせられなかった……? なんかこう…きもちわるいもの……とか……」
私がはっきりした言葉を口に出さないまま遠回しに話すので、彼女は何にもぴんとこないみたいだった。だから私はもう観念して、
「その……えっと、ひとの、心臓、みたいなものとか、食べさせられなかった……?」
「しんぞう……?」
彼女は、私の言葉にきょとんとしたままだった。はじめてとりものを見たときに聞いた話だったけれど、確か北崎はひとでなしに飲み込ませるための「子供」の心臓をもうひとつ持っているはずなのだ。そして、あの子もまた、ひとでなしになってしまったことは間違いない。だって、真人間が入ってこられないはずの昼の間もずっと、あの子は何日もこの掃き溜めの中にいたってことになるんだから。朝、ゾンビみたいになってからも椅子か何かに縛り付けられていたのかな……なんてことも考えたのだけれど、彼女の話を聞く感じ、そうでもないみたい。だからきっと、あの子もひとでなしで間違いないと思うのだけど、彼女はまだ心臓を飲み込んでいないようなのだ。
茜にも今の華屋で彼女に反応している心臓はあるのか聞いてみたけれど、答えは「いいえ」だった。心臓を飲み込む前にひとでなしになってしまった者、つまり私みたいな奴が掃き溜めの中にいれば、心臓は反応するらしいのだけど……。
つまり、あの子もまた、掃き溜めにやって来た頃の私と同じで、自分の心臓がまだないらしいのだ。私はぞっとして、「こんな小さい子でも子供を産まされたりするの?」と茜に聞いてみたのだけど、茜は「しらない」としか答えなかった。次のとりものが来てみるまでわからないってことらしい。でも、次のとりものは年が明けてからやっと来るみたいで。だから、しばらくの間は、あの子まであの時の私みたいになるかはわからない、ってことなんだ。
私はそうやって考え事をしながら汚れた食器を下げて来て、手にべたっとついてしまったシロップを水道で洗い流した。彼女と私は、どうやら、似ているところがたくさんある。私は、彼女にひとでなしになんてなって欲しくなかった。私は彼女を表通りまで連れて行ったあの夜、彼女のことを助けられたと思ったんだ。でも、だめだった。ほんとは助けられていなかった。それがわかった時、私はほんとうは物凄くショックだった。けれど、終わってしまったことばっかりを考えてたってしょうがないことは、私にもわかっている。だから、私は今の私にできることをするんだ。同じ痛みを知っている私が彼女のそばにいてあげて、そのことが彼女にとって救いになればいい。私は、それができればいいんだ。
蛇口をひねって水を止める。それに、仲良くなるための努力もしている。実は彼女、まだ自分の心臓が見つからないだけじゃなく、名前をまるごとなくしてしまったみたいなのだ。私には「亜」っていう文字と音が残った。吉見なんかも、元の名前が残ったままみたいだ。制服たちのことは知らないけれど、華屋のひとたちなんかは高峯に名前をつけ直してもらうのだという。けれど、彼女にはひとでなしとしての名前がない。けれど、名前がないってどうしても不便だし、「ねえ」とか「きみ」って呼ぶ付き合いってなんだか寂しいでしょ。だから、どうしようかってあの子と話をしたんだ。そうしたらあの子、教えたばっかりの私の名前を呼んで、
「亜ちゃんに付けてほしい」
なんて言うんだもん。私は、彼女がやって来たのがこの十二月なのを考えて、でも「師走ちゃん」なんて可愛くないし……と思っていろいろ調べてみた。そうしたら、十二月の呼び方には「春待月」っていうのがあるらしいのだ。人の名前にするにはヘンだけど、私の名前だってヘンなんだし、だから私は彼女に「はるまちちゃん」って名前をつけてあげた。そうしたら彼女も「ヘンな名前」って笑ったけど、それから「でもかわいい」って私の目を見て言ったのだった。だから私は、自分で名前をつけた彼女と一緒に暮らすことになった。彼女と一緒に、この寒い冬を、春を待ちながら乗り越えるのだ。きっと、そういうこと。
今度はホールの方を覗きに行って、人手が足りているのを確認した私はまた厨房に戻って来た。そうすると、生ゴミの袋がいっぱいなのに気づく。重いから男の人に頼んだ方がいいかなあ、なんて辺りを見回すけれど、皆んな自分の仕事をしている。それに、こんなことでへこたれていたら、この先やっていけないかも、春待ちゃんのことも助けてあげなきゃいけないのに、と私は気合を入れ直してゴミ袋の口をぎゅっと結んだ。
ずっしりと重い袋を引きずって厨房の隅を抜け、ダンボールの隙間を通って、なんとか裏口のドアノブを捕まえる。先に軋むドアを外に向かって開け放して、それからよいしょっと小さく声をかけながらゴミ袋を持ち上げ、ドアを閉めて、ゴミ箱のところまで引きずるようにして持っていく。なんだ、余裕じゃない、と思いながらアルミのゴミ箱の蓋を開けて、ゴミ袋を持ち上げようとした、ときだった。
「っ……!」
横から伸びて来た手が私の口元を覆い、体ごと乱暴に私を引き寄せた。息を飲んだ私が叫び声を上げようとした時、今度は視界の右のほうから銀色に輝く刀の刃先が私の首に向かって伸びて来て、私は自分の身体が勝手にすくむのを覚える。
「静かにしろ」
そうして自分の真後ろから掠れて低く響く声には、聞き覚えがあった。この声は。
「叫ぶな。叫んだりしねえって約束しろ。そうすりゃ何もしない」
私が必死にこくこくと頷くと、声の主は私を締め付ける力を緩め、それから私を離した。と思った矢先に、すぐさま私の身体を突き飛ばし、私を壁に押し付けて持ったままの日本刀を私の顔のすぐ横に突き立てた。震える私のことを血走った目で見つめるその影は、八手だ。
「いいか、嘘をつけば分かるぞ。俺はな、嘘つきの目ってのを知ってんだよ。ここにくるまで、そういう連中をさんざ相手してきたんだ」
八手が間髪入れずそう喋るのを聞いて、私の中の恐怖はむしろ困惑に押しつぶされた。
「なにを」
私が喋ろうとするのを押し込めるみたいに、八手は私がもたれかかる壁の横に足をついた。
「それにな、華屋の連中がどう言おうが知ったことじゃない。俺は、今ここでお前を斬り殺すことなんてな、思い切りゃあ一瞬でできるくらいに簡単なんだ。おい、なあ、わかってるか」
息を荒げる八手の顔は疲れ切っていて、病気の人みたいでなんだか痛々しい。私は自分が脅しを受けているのをわかっていたけれど、目の前の八手があんまりに必死だから、今度はなんだか可哀想になって来た。これじゃあ、私はむしろ落ち着いてしまう。がばっと開いた口から白い息を吐き出しながら、食い入るように私の目を見つめる八手に向かって、私は慎重に口を開いた。
「私の話、ちょっと聞いてくれる? あのね、あんたがなにをしたいのか、私にはよくわかんないのよ……えっと、何をしに来たの?」
「聞きに来たんだ」
食い気味にそう答える八手のことを落ち着かせるように、私はゆっくりと話してあげることにした。
「何を聞きに来たの? あんたが何を知りたいのか、私にはわかんないんだけど……」
「ごちゃごちゃ抜かすな。お前は俺に聞かれたことに答えればいい。お前がやんなきゃいけないのは、それ以上でもそれ以下でもない。いいか?」
とそれでも息を荒げたままの八手に、私は今度腹が立って来て、
「べつに、言わないなんて言ってないでしょ」
と声をあげた。すると、八手はとうとうはっとしたような顔になって、辺りを見回し、私に声を低めるようにジェスチャーをした。私が決まり悪そうに肩をすくめると、八手は私から少し離れて刀を腰の鞘に収めた。それから額の汗を拭うように一度顔を覆って、それからやっと私に向き直った。
「教えてくれ」
今度は、脅すような声ではなくて、私に向かって願うような、祈るような、そういう切実な声の出し方だった。
「お前が俺と『彼女』の間に見たものを」
微かに開いた口から白い息をたなびかせるままの八手の顔を見つめ、私は困ってしまう。
「『彼女』……?」
私は困ったままその言葉を口に出し、口に出したそばからはっとした。このひとが「彼女」なんて言葉を使う時には、それが指す相手なんて誰なのか決まっている。私は辺りを見回し、周りに誰もいないのを確かめてから、やっぱり困って両手を胸の前でもじもじと合わせた。そうすると、八手はまた苛立ったように鞘に収めた刀に右手をかける。だから私はあわてて、
「まって、まって」
と声を上げ、八手が刀の柄から手を放すのを待った。
「いい、話すわ。でも、私が話したって言わないで……お願い」
八手は、私の「お願い」には頷かなかった。けれど、私には八手にこのことを話してしまう以外に選択肢がない。私は息を吸い、吐いて、私が初めてこのカフェに来た時のことを思い出した。まもるを連れてカフェのテーブルについたあの日のこと。八手を後ろに従えて、テーブルに座り、こちらをきりりと見つめていた「彼女」の姿。
「見えたの、あんたたちの間の『絆』……」
八手の目がふっと見開かれる。
「彼女の手から伸びた蔦がね、あんたの胸や首元、心臓の中まで入り込んで……」
私は、できるだけ優しく言葉を選ぼうとした。けれど、どうやったって、おぞましい言い方になってしまう。私は、寒さと不安に自分の唇が震えるのを覚えていた。
「あんたの魂を、吸い上げているような」
そういう、と私は言葉の終わりを濁した。八手は固唾を飲んで私の言葉を聞いている。私はうつむき、指と指とを絡めていた自分の手から顔を上げ、はっきりと八手の顔に向き直った。
「あのひと、いつかきっと、あんたのことを殺してしまう」




