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笑止千万  作者: 曲瀬樹
第二期 森羅穿つ界線の努
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第二十話 いざ、深層へ



 幻想的な書物の街の風景にしばらく見とれていた俺は、自分の足がしっかりと地を踏みしめているのを確かめるように、恐る恐る街の中を歩き出した。革靴が硬い音を立てて滑らかな木の床を叩き、その足音が反響して俺の耳へとまた返ってくる。実際に硬い地面が俺を下から支え、度々天窓から吹き込んだ風がランタンを揺らし、俺の首元にも吹き付ける。整然と等間隔に並んだ本棚の途切れごとに隣の通りを覗き込むが、どの通りもさして変わりばえなく、ただ同様の本棚が延々と林立しているだけである。どこだ、ここは。どうにも夢にしては確かすぎるが、現実にしては夢見がちすぎる。いや、ここ数ヶ月で夢のような光景に出会いすぎた。きっとこれも、この街のからくりのひとつだ、違いない……。


 俺は延々前へ前へと足を踏み出し続けながら、口に出さずぶつぶつぶつぶつとそういった暇つぶしの足しにもならないようなことを考えていた。風に吹かれたランタンが、遥か頭上できいきいと無機質に、しかしどこか鳥の鳴き声のようにも響くだけ──そのとき、そう離れていないところから、ひとりぶんの足音がはっきりと俺の耳に届いた。この図書館の中を駆け回る乾いた足音、走っている人間の音だ。どこだ、この音はどこから聞こえてくる? 俺はすぐさま音の方向を探り、それと思しき方へ向かって歩きだす。


「なあ、おい、誰かいるのか?」


 足音がどこかへと響いて俺の頭の中であいまいになったとき、今度はどこからか別種の音が俺の耳に届いた。


 人の声だ。俺の心はにわかに踊り立って、今度こそ俺の足は思うままに早足で進み出した。


「なあ、いるんだろ、そこに」


 聞こえてきた声は本棚の二枚裏くらいから聞こえてきたような気がして、俺は過ぎる本の通りを覗き込んで進むが、どうにも人の姿は得られない。微笑みのこぼれ落ちるようなその幸福そうな幾人かの談話が俺の聴覚をかすめ、けれどいつまで経ってもその声の主の姿を得ることはできなかった。


「どこなんだ。応えてくれよ!」 


 そのとき、女の弾むような笑い声が隣の本棚の隙間から俺の耳にこぼれ入って、俺ははっとしたまま急いで隣の通りへと向かった。愉快でたまらないといったようなその幸福そうな少女の声に、俺の頭はぼうっと宙に浮かぶかのようで、ふらりと隣の通りを見渡した時、やはり誰もいないのを見つけて、俺はなんだかひどく悲しくなった。俺は、その声の主の姿を一目でいいから拝みたかったのだ。そういった性質の声だった。そういった性質の音だったのだ。そうだ、なにか、そういう美しくて愛おしい何かを、探し出すために俺はここへきたのではなかったか? いや、それもまた違う。きっと違う。思考がぼんやりと溶けていくような心地よさに身を任せながら、俺は先ほど女の声がしたあたりまで歩を進めていた。


「何を知りたくてやって来た……?」


 自分でそう口に出しながら、俺が本棚にふと目をやると、ひらひらと揺れる何かが目の端に入った。それに目を向けると、少し背伸びすれば届きそうな高さの棚で、本と本の間に挟まった小さな紙切れがはためいている。俺はそれをしばらく見ていたが、ついにはっとした。どうやらそれは、風を受けてはためいているのではないのだ。まるで、自律的に、その紙切れが筋肉でも持っているかのように、二冊の厚い皮表紙に挟まれて命からがらもがいているのである。びりびりと自らその身を裂きそうなほどにあがき続けるその紙切れに俺は気味の悪さを覚えて後ずさったが、その気味の悪さをはるかに上回るほどに、その紙切れは、紙切れ風情にしてひどく哀れな気持ちを俺に起こさせるのだった。俺は別に同情屋なんかじゃない。むしろ、それとは真反対の人間なんだ。けれどなぜか今は、どうにもその哀れな紙片を救ってやりたくて堪らないような気持ちだった。俺は恐る恐るもがき続ける紙片へ近づき、ぐっと背伸びをすると、その紙片を痛めないようにとできるだけ真っ直ぐに片側の本を引き抜いてやった。すると、紙片はあっけなくはらりと俺の肩の方へと自由落下して……と思った時、ひらりと自律的に舞い上がった。俺がぱっと身を引いて目に捉えたのは、文字の書きつけられた羽根を背負った蝶だった。蝶はふらりふらりと左右に飛び揺れると、哀れっぽく死にそうな様子で俺へ向かってまた降りて来て、こんなところにちょうどいい休憩場所が、これ幸いとばかりに俺の肩に止まった。俺はその蝶を自分の手に移してまじまじと見つめてみる。紙でできた触覚が今にも生き絶えそうにしなって揺れている。俺はその羽根に書かれた文字を読もうとし──と、俺の視界の端に、別のはためきがちらついた。俺が顔を上げると、俺の頭上で手に止まっているのと同じような紙片の蝶がゆらゆらと何頭も飛び回り、時折風に吹かれて本の街の中を流されている。それらのどれもがゆるりゆるりと俺の方へと近づいて、それから俺の肩や、腕や、頭にふらりと止まる。一体どこから湧いて出たのかと見回すと、俺が右手に持ったままの先ほどの本のページの隙間から、するりするりと蝶が逃げ出している。俺が驚いて腕をあげると、俺の右腕の裏にはすでにもうびっしりと蝶が止まっていた。俺は思わず反射的に本を放り出し、右腕を揺するが、蝶は頼りない見た目をしながらもぎっちりと俺の腕にしがみついて離れない。そうしているうちにも、転がった先ほどの本が床の上で開き、かさかさと音を立てながらページというページが全て、俺の眼前で何百という蝶に組み上がっていくのである。俺はぞっとしてその本から一歩二歩と後ずさった。そのとき、俺の耳が別の場所からかさと紙の擦れる音を拾う。俺が目をあげると、先ほど俺が引き抜いた本のあった場所の周りには、気づかぬうちに無数の蝶が止まり、また、さらには薄暗い本棚の洞穴の奥から限りなく這い出てくるところであった。その蝶の全てが、物言わずしかし確かに俺のことを見ていた。


 俺はぞっとしたまま足を動かし、気味の悪いその紙片の群れから逃げ出そうとしたが、もう遅かった。字を背負った美しい紙片の虫たちはぶわりと集まって一つの塊になり、俺の顔中身体中頭のてっぺんからつま先までを全て覆い尽くす。唇の間に、蝶の手足が滑り込んでくる感覚に、俺は恐怖と共に吐き気を覚えた。俺は誰に聞かれることもないであろう叫び声を上げ続ける。


 そうして、がさがさと不快な音に埋め尽くされながら、俺の視界はやがて真っ黒に染まった。






 アスファルトの地面を蹴って走る。後ろから兄の声が追ってくる。俺の心は弾けそうに踊って、勢いそのまま堤防の先に見えた青緑色の海へと身を投げた。ぐっと目をつぶって水の中の音を聞いていた時、もう一つの音がすぐさま俺のそばに飛び込んで来て、兄も俺の後を追って飛び込んだのだとすぐにわかった。ぬるい夏の海が、俺のシャツの間を満たしていく。俺は明日も明後日もこうして海に飛び込むんだろう。そうして水面に思い切り顔を上げた時、くぐもっていた音の全てが俺の耳に鮮明に流れ込んで、堤防の上で弟が笑っているのが見えた。左ひざの絆創膏がまだ痛々しい。来週になったら、もう治っているかもしれない。そしたら、浅瀬に連れていってやろう。俺のすぐ後に浮かんで来た兄の顔が夕日に眩しく歪められて、その苦しそうな顔が馬鹿みたいにおかしくて、俺はけらけら笑った。それから俺も夕日を振り返る。


 その夕日は、俺のいる部屋の灰色のクロスを照らしていた。俺は木椅子に座ってしばらくそこにいた。尻が痛い。窓枠にもたれた女は煙草を吸っている。一本いる? と箱ごとこちらに差し出す女の手に夕の色が落ちて、彼女の滑らかな骨の形をくっきりとその肌に刻んでいる。俺は煙草を吸って欲しくなかった。あんたに、そんな風に落ちぶれて欲しくなかった。あんなに美しかったあんただけが、俺の道しるべだった。あんたは、吸いたくて煙草を吸ってるんじゃない。そんなふうに言ってしまったらすぐにでも壊れてしまうような笑顔が、あいまいな色に滲んだ夕方の空を背負ってこちらに傾いていた。彼女は、彼女自身のことを何もかも知っている。知っていて、重々承知で、破滅の道を行くのだ。俺には、彼女の共犯になるか、もしくは彼女から一切手を引くかのどちらかしか選択肢はないだろう。もう、そんなところまで来てしまった。


「ほら」


 促すような彼女の疲れ切った優しい声音に、俺は、手を伸ばしかける。


 そのとき乱暴なノックの音がして、俺は思わず手を下ろし、そちらを振り返った。空いたドアの前には、刃物を持った男が立っている。俺が上げた金切り声は娼館の中全てに響き渡ったが、そのとき男のぐあっと切り開かれたまなこがこの目に焼き付く。男はベッドの上に佇んでいた俺を乱暴に捕まえると、俺の腕の根元を押さえつけて、小さな折りたたみ式のナイフを持った腕を振り上げた。俺は夢中で片腕をあげて体を庇おうとする。力仕事を知らない細腕にその荷は重かった。男は泣いているような声だった。


「……愛していたのに!」


 痛みを覚悟して、俺はぐっと目を瞑った。俺の目からは、人知れず涙がひと筋こぼれ落ちていった。


 彼女の手が、俺のほおをさすってその涙を拭う。彼女の肩に寄りかかっていた俺は、俺が泣いているのを彼女に知られたくなかった。けれど、彼女はそんなのお見通しだった。いつだってそうだ。俺が面をあげると、彼女は例の慈愛に満ちた紅色の微笑みを俺に向けた。しろい髪がきらきらと照明の下で輝いて、彼女が俺の目には光そのものに見えるのだ。彼女は指の先で軽く俺を押しのけた。それからくら、とめまいに襲われたように寝台の上に仰向けに倒れる。まるで体重がないかのように重みのない転倒の映像。


「きて」


 俺は彼女の声が好きだった。会った時からそうだった。彼女が胸をはだけさせた。俺もシャツを脱いで、彼女のそばへとすり寄った。彼女の手は柔くて小さい。俺の手は彼女の手よりも少し大きくて骨張っていて、だから彼女がすきだった。俺はその手をとって彼女の胸の中へとゆっくりと身を沈める。拒むことのない彼女の胸部が俺の胸部と重なり合う。水が溶け合うように、まるで最初からひとつだったものが元に戻るかのように、俺たちは肉の隔たりを超えて混ざり合った。彼女のあばらと俺のあばらが鎖のように絡み合い、彼女の笑い声が俺の耳に届いて、それと同時に彼女の腹が震えるのを俺はそのまま自分の身の震えとして受け取った。彼女の心臓のすぐ横で、彼女と同じ肉の塊になった俺の心臓も鼓動を打っている。


「ずっと、こうしたかった」


 俺はひどく安心して、そのまま眠った。もう離れないでいたかった。


 それなのに、彼女は俺のことを置いていった。居心地の悪い狭いごみだめのような部屋で、俺はその男とずっと一緒に暮らしていた。男は俺のことを嫌っていながら、それでも手放そうとしなかった。男が俺に抱いている感情が、愛情なのか、つまらない父親のプライドなのか、見栄なのか、はたまた目的をとうに失った、ただの固執であったのか、俺にはわからない。俺はできるだけこの部屋の外に居たかった。だから帰らなかった。そうしたら、お前をそんな娘にしたかったんじゃないとあれは怒った。父親らしいことなんて、ひとつもしないくせに。それなのに、湿気た布団の中で、男がまた俺の腹をまさぐっている。もうどうだってよかった。


「ほら、またそうやって、さ」


 俺が諦めたようにそう呟いた時、俺の背をさすっていたその手が、握り締められて俺の頭をきつく殴りつけた。男が俺にかかっていた布団を力のままにはぎとった。いつも、すぐに怒る。俺を殺したい? 殺したいのはこっちだよ。そうだ、これがずっと、死ぬまで繰り返しだ。そうやって目を閉じる、暗がりの中じゃ、俺には手出しもできないんだから、諦めもつくってもんだ。だから。


 俺が目を開けると、船が橋の下をちょうど通り抜けるところだった。これでもかというほど青々とした空に浮かぶ入道雲から後ろへと目を写して、俺はありったけの笑顔を浮かべた。


「ほら、見てよ。かもめ! もうほんとうに、海が近いんだわ!」


 俺がそう叫んだ時、後ろに座っていた男は俺の指差した空のかもめを見上げずに、俺のことを見ていた。俺は、男が俺のことを心の底から愛しているのを知っていた。俺は逃れようのないほど彼の心を縛っていた。彼は縛られるままだった。だから、この男のことを好きになったのだ。壊れ物のように俺のことを抱き上げる男の名前を、俺はもう、覚えていない。もちろん、俺自身の名前も……。


 しかしそのとき、自分が後ろから名前を呼ばれ続けているのに気がついた。俺は夢中で走った。ネオンの輝く暗い街の中を、必死に。けれど、あのひとから逃げられるわけがなかった。あのひとの愛は、無限。


「お前が、十三番目」


 俺が振り返ると、おい、と父親が俺を呼び止めるところだった。話をしたい、と父は言う。俺は気が進まなかった。気付いた時には俺の顔に父親の容赦のない哀れみが流れかかっていた。


「役にも立たない」


 俺は居間の畳の上で、頭から背中から血の気がすっかりと消えていくのを覚えていた。俺は何もできないのだった。俺は、そういうやつだった。もう手足の先の感覚がない。ぼうっとかすむ視界の中で、俺は平常の思考を取り戻そうとして、今は何時だったかと時計に目をやった。四時二十二分。夕霞。息ができない。


 俺は再生された見覚えのあるその情景に、とうとうはっと息を飲んだ。「これ」は、今俺が見た「これ」は、これこそは、「俺」の記憶だ。






 世界が徐々に形を取り始め、俺の顔を覗き込むのが茜だということにやっと気づく。薄暗いいつもの寝室だが、それが俺にはなにやら新鮮な景色のようにも思えた。俺は自分がベッドの上に横たわっているのに思い至って、それから眠る前の記憶をたぐり始める。いつ──。


「『昏倒してた』、って」


 俺が何かを思い出す前に、茜の声が俺の耳へと滑り込んで来た。真木がそう言ってた、と付け加えた茜は、ガウンを羽織ってソファの上で膝を立て、細い煙草を吸っていた。赤い唇の隙間に乗せられた巻紙の影に、俺はぐっと胸が惹きつけられるのを感じたが、けれど俺は、その光景をなぜかひどく悲しいことのように捉えてしまった。


「……会うのは久しぶりだ」


 茜は、俺がそう言ったのに目を丸くした。


「……二日くらいのことでしょ」


 俺はおぼつかない記憶を再びたぐり始める。


「いや……そうだ……」


 何かが俺の胸の奥に立ち込めて、しかしはっきりした形を取らずに霧散しようとしている。その霧の中に俺はぐっと手を伸ばす。その手の先に見えたのは、眩しい橙の光だった。


「そうだ。海だ、海の夢を見た。夕日の」


 水面に映り込んだ夕焼けの色が俺の網膜にはっきりと焼き付いて、今も目を閉じれば見たときのままに輝いた。青緑のくすんだ海。


「俺は、俺が住んでいたところは山ん中だったから」


 自転車を三時間も漕いでツレと行った海の香りを、俺は思い出していた。


「……海は、眩しかったな」


 茜はしばらく黙って煙草を吸っていたが、一度大きく煙を吐き出すような息の音がして、俺はぐったりと横たわったまま彼女のほうを見上げる。


「あんたが今まで、どんな風に生きて来たかなんて私は知らないけど」


 彼女の声はいつもより一段と幼い風にかすれていた。


「あんたはきっと……ずっと、失敗しない道だけを選んで生きて来たんでしょ」


 俺はその言葉に何か言い返そうとして、けれど彼女がすぐさま


「べつに、責めてるわけじゃない」


 と付け足すので、胸の奥がにごったまま口をつぐんだ。


「失敗しない道だけを歩めるなら、それ以上に良いことってないもの」


 彼女は細い煙草を灰皿に押し付けて消して、それからすくと立ち上がった。ガウンのはしが、彼女の生足の横で揺れている。


「それで私が、あんたを失敗させちゃったんだ……全部、壊しちゃった」


 彼女の言葉の端が、子供じみて泣きそうに濁るのを、俺は確かに聞いてしまった。彼女のそんな声を、俺は聞きたくもなかったし、聞くつもりもなかったし、聞かなかったことにしたかった。俺は彼女をそういう類の女として俺の中に位置付けていたんだ。それなのに彼女は、同じ声色のまま言葉を続けた。


「あんたがずっと歩んで来た、間違いのない人生ってさ、そのくらいの、脆いものだったんだよ」


 彼女の声は笑うように震えていた。彼女は俺を傷つける気なのだろうと、その時俺は確かに思っていた。


「その、脆くて儚くていつ誰に壊されたっておかしくないものにさ、あんたはずっと、しがみついてた。その脆さも知らずに」


 彼女の言葉の音のひとつひとつが俺の耳に確かに刺さる。


「でもさ」


 彼女の声音は、そのとき不意に弱々しく揺れた。


「大切なものってきっと皆んな、脆いものだから」


 息の詰まるような沈黙が部屋の中を支配していた。あかい光を漏らすストーブががたがたと揺れる音が、俺と彼女の間に開いた絶望的な距離を頼りなく埋めていた。彼女は言葉の続きを言おうとするように口を開いて、それをやめて、口をつぐんだ。そうだ、俺は彼女にそんな言葉を求めていやしない。もしも彼女がその言葉の続きを話してしまったら、俺が今この小汚い街で享受する喜びというものの全てが瓦解し、何の価値も持たないものとしてあっけなく崩壊するだろう。いや、喜びだけでなく、きっと俺自身も。彼女も、そんなことはわかっていた。全部、わかっていたんだ。


 彼女は目を伏せて俺の上に屈み込んだ。彼女は俺にキスしようとしていた。俺は今、そんなことをしたいわけではなかった。つまらない彼女の拙い話を、不快になりながらずっと聞いていたいような、そんな気分だったのに、俺にはやはり彼女に逆らうすべなどなかったのだ。彼女の唇が、俺の口に恐る恐る触れるのがわかった。


 俺にはもう、何もない。






 彼が彼女の美しい毒に蝕まれているころ、掃き溜めの別の寝台の上では、女二人が囁き合っていた。というよりは、ひとりの女がもうひとりに向かってくすくすと微笑み、相手の手足に触れて話しかけているのである。


「何も起きないなんて不健全だわ!」


 むくれた子供のような彼女の声に、もうひとりはなだめるように彼女の肩をさすった。つややぐ髪を流れるままにして、子供じみたその声が気まぐれに大きくなった。


「ね、そう思うでしょう」


「はい」


 相手の声に温度はない。彼女はそれを、好ましいと思っていた。彼女は神経質そうに自分の指を口元にやって、相手に向かって話しかけるように、しかしどこかひとりごとのように言葉を続ける。


「そろそろ山場を用意しなくっちゃ」


「はい」


 彼女は相手の足に自分の足を絡め、恋しがるように自分の方へと引き寄せる。


「役者には役者の仕事をこなしてもらわなくちゃ、ねえ」


「はい」


 相手は彼女に同意しかしない。そういう作りだから、そういうものである。それから彼女は、はっとしたように相手の両肩を掴んで自分のほうに引き寄せ、そこに相手がいるのを確かめた。それから安心したように両手を相手の背中に回し、鎖骨の形を確かめるように相手の服を捲り上げ、その中へと手を滑り込ませる。相手の体温が自分の中へと流れ込んでくるのに満足した彼女は、相手をそのまま強く抱きしめた。


「『わたし』が守ってあげるからね」


 彼女にそう声をかけながら、相手は何も返答しない。その代わりに、自分の腕も彼女の背中へと回し返した。彼女は、相手の胸もとに顔をうずめる。


「ぜんぶあなたのため」






 地下牢で何かが音もなく叫び続けている。鳴らなくされた声帯を引きちぎらんばかりに口を開いて、喘ぐように出ない声を搾り出そうとするその怪物は、全身をよじり、今すぐ暴れ出さんと足の先までのたうちまわる。


 さあ、次の幕を始めなくては。

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