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笑止千万  作者: 曲瀬樹
第二期 森羅穿つ界線の努
21/42

第十九話 ベルナール嬢に捧ぐ断章二九八




 午後九時半。私のバイト先「カフェ・ブレーズ」。出口近くのテーブルに椿がひとりで座ってコーヒーを啜っている。彼女はテーブルの上に新聞を何部も広げ、手早く手帳に何かを書き留めながら、しきりに舌打ちしたりため息を吐いたりしていらいらと足先を揺らしている。で、それを見ている私はといえば、厨房の中にじいっと身を潜めていた。私は店内を駆け回りながら、ちょっと手が空いた時にはこの安全地帯に収まって、彼女のことをじりじりと見張っていたのだ。


 ほんとのところ、彼女は自分の仕事に夢中で私のほうになんて全然目をやらないから、となりのテーブルに座って彼女を見ていたってなんともないのかもしれなかった。でも、私はそれでもわざわざ厨房の中に入り込んで、食器洗い機の隙間から彼女を監視していた。だって、怖いんだもの、あのひと。


 そのとき、からんからんと入り口のドアが開いて新しいお客さんが入ってきたから、私はすぐさまお冷やを持ってそのテーブルに向かう。いつもならコーヒーの注文を受けて厨房に取って返そうとするところを、ふっと、なんだろう、上手く言えないけど、なんか、心がくらっとしたんだ。いや、ずっとそうしてやろうと私は考えていたんだけどできないでいたことを、もうやってやったっていいんじゃないかっていう気持ちになったんだよ。急に。私は、新しいお客さんのテーブルに行く前に、椿の座るテーブルの真ん前に立ち止まった。椿はやっぱり気づかない。私のことなんか目にも留めない。


 だから私は、お客さんに持って行くはずのお冷の水を椿の顔に向かって浴びせたのだ。


 椿は何が起こったのかわからないって感じだった。私も、自分でやったはずなのに、自分が何をしたのかよくわからなかった。それから十秒かそこらの間、時間が止まったみたいだった。その時間が動き出したのは、前髪からばたばたと水を滴らせる椿の顔がぞっとするほどゆっくりと持ち上げられて、冷たい瞳が私のことをじっくりと眺め始めたからだった。それから私の姿を認めた椿が、その唇をわななかせて何かを言おうとしたので、私は気づくと声を震わせながらこう言っていた。


「顔を洗ったってブスはブスなのね」


 私の声に椿はその瞳の形がくっきりと出るくらいに目を見開いて、言うべき言葉を失ったようだった。でもそれも、ほんの二秒間のことだった。何が起こったのかすっかり飲み込んで瞬きをした椿は、すっかり落ち着き払ったかのような静かな声で、


「あたしに話しかけてんの?」


 と、きっとした声で言った。


「あたしに、話しかけてんの?」


 椿のその顔つきはやっぱり怖いもののはずだったのだけれど、そのときの私は不思議と怖いものもなくなってしまっていて


「あんた以外いないでしょ」


 と、ずうっと用意していた言葉が自分の口から溢れるままにしたのだ。そうすると椿はまたびっくりしたように背筋を揺らして、それから堪えきれないといったふうに唇の端をにやっと吊り上げて、自分がそんなふうに笑ったのを隠すようにしてぐっと口を引き結んでから立ち上がった。


「新入りのお嬢ちゃん、ここの流儀を教えてあげようか」


 椿はそのときにはもう、コーヒーの残りが入ったカップを左手で引っ掴んでいた。






 今回のお話の主題となる件の偏屈な彼女についてあなたに話すには、少し時間を遡ったほうが良さそうだ。彼女はなかなかに厄介で困難な人格を備えた人間であって、彼女を語るためのエピソードには幸か不幸か事欠かない。そうだな、とりあえずは、彼女と、あなたもご存知のお節介焼きのあの男のことを話すのが手っ取り早いかもしれない。だから、僕の方はあのふたりの出会いの話をしようと思う。


 今までも何度かこのお話の中で扱われた手法ですから、あなたはもう慣れっこかもしれないけれど、今回は僕とおてんばな彼女の語りを交えたシンフォニーで話を進めようじゃないか。とにかく、あなたが最後まで混乱しないでこのお話を読みきってくれたら、僕には何にも後悔はないのです。無鉄砲な彼のほうはどうしたかって? 申し訳ないけれど、その件についてはこの次の話に持ち越しだ。今度ばっかりは、彼がいると話がめちゃくちゃになるんだもの。


 それじゃあ、あの二人が出会った夏の初め頃、ツツジの花が散り出したあの季節の話をしよう。それは、雨が上がったすぐ後の、星の見えない薄青い夜のことだった。しっとりと耳に届いていた雨の音が消えて、花の香りが地面に落ちた、そういった季節のことをあなたが思い出してくれたら、ちょっとはこれがあなたにとって縁遠くない物語になるのかもしれない。




 彼とその妹が悪徳の聖地にやってきたのはその少し前だった。夏を間近にしたその絶望の季節、彼ら兄妹は悲哀と混乱に打ちひしがれながら、けれどここで生きて行く覚悟を決めようかと、そんなふうに心が移ろい出した頃だった。


 涙を流さないまでも家に残してきたたったひとりの母親を思って何も手につかない妹を置き去りにして、彼はいっそのこと自暴自棄になってやろうと考えていた。つまり、この悪徳の聖地で、悪徳の徒として開き直ってやろうというわけである。絶望の中にいるとき、なんらかの気晴らしを見出して痛みを忘れるというひとつのやり方は、いつの時代もひとの助けになるものです。もっとわかりやすく具体的に彼がどうしたかということについて言えば、彼は連日のように女を買っては遊ぶただそのことだけにその夜々を捧げていたのである。


 だから、その夜も同様だった。浴衣の女どもが娼館の店先をうろつくのを、金魚すくいのようにぱっと捕まえるのが当時の彼の唯一の仕事であった。薄暗い女の穴倉に行き着くほかないその行き当たりばったりの散策は、けれどどこか、放蕩以外の何かを探し求めているかのようでもあった。いつも通りに金魚の群れの中を揺蕩っていた彼は、そしていつも通りに酒に酔っていて、だから、ぐいと彼の肩を掴んだその手のしなやかさに目の覚めるような思いがした。


「あんたでしょ、最近このあたりの女を食いまわってんの」


 それは非難するような声だったし、実際に彼女の声色には非難が籠もっていた。彼はそのときの彼女の尖った目つきを忘れはしない。


「あたしもひとでなし」






 椿が私の目の前で、けらけら可笑しそうに笑っている。私はピアノの椅子に座っていて、お酒のグラスをもった椿はピアノに寄りかかって倒れてしまいそうなくらいに身を震わしている。


「で、あんたそれで、どうしたのよ!」


 椿は私に、話の続きを催促する。


「その後はね、茜がその男を店から追い出してお開きだったわ。そのひとね、出禁になっちゃったの」


「ばっかねえ」


 椿は笑いすぎて涙の滲んだ目を薄く開けて、こちらを色っぽい目元で見つめるから、私はなんだかどきどきしてしまう。


 ところで、どうしてこんなことになったかってことだ。




 カフェで私と椿はあのまま掴み合いの喧嘩になり、テーブルも椅子もひっくり返って、コーヒーカップはひどい音を立てて割れた。周りの客たちまで騒ぎ出し、それはもうめちゃくちゃな光景だったんだ。しばらくしてからやってきた茜が私たちを通りへ締め出して、冷え切った冬の空気の中でけれど私たちの頭は冷えなくて、喧嘩はいっそうひどくなった。


 私はといえば、威勢良く喧嘩をふっかけたはいいものの、それまで誰かを殴ったことなんてなかったから、椿と一対一になれば敵うわけもない。椿は泣き叫ぶ私の髪の毛をひっつかんで、言葉通り街中引き回した。私も椿の腕を噛んだりすねを蹴ったり散々暴れて、表通りはもう大騒ぎになった。それを見て通行人たちはげらげら笑い、もっとやれやれやんやとはやしたてたけれど、こちらは笑い事なんかじゃない。椿はほんとうに私のことを殺そうとしてるんだと思ったくらいだもの。騒ぎを聞いて駆けつけた真木が私たちの間に割って入らなかったら、顔にあざができるくらいじゃ済まなかったと思う。私と椿はぎゃあぎゃあ言い合いながら真木に引きずられて華屋へと回収され、今の部屋に押し込められた、というわけである。


 部屋はごちゃごちゃと装飾品にまみれていて、赤い絨毯の敷かれた床の上にはきらきらと小ぎれいなカウチとガラスのテーブルが置かれている。応接間にしては広くて、部屋の奥の方には荷物が押し込めてあるようだった。


 私も椿も、真木に押し込められたときのまま、しばらく床の上に呆然と座っていた。先に動いたのは椿だった。私はまた髪をひっつかまれるかと背中を強張らせた。けれど、ほんのさっきまでひっ掴みあって引っ掻きあってふたりできゃんきゃん言っていたのが嘘みたいに、椿は静かに立ち上がったのだ。だから、身構えた私は拍子抜けしてしまった。さっきまで怒っていたはずなのに、そういう怒りとか不機嫌みたいなものが、彼女の背中からは最初からなかったみたいに消えてしまっていたのだ。椿はだるそうに頭を掻いて、しっかりとセットされていたのに私と取っ組み合ってくちゃくちゃになった髪をあっさりと解いてしまった。たっぷりとしたロングが洪水のように一気に彼女の腰へと流れ落ちて揺れる。私はわけもわからぬまま、でもそうするしかほかになくて、椿が喋るのを待っていた。


「……なんか飲む?」


 椿はそうやって私に話しかけながら、私の返事なんか待たずに部屋の隅にあったクローゼットの木戸を開ける。冷蔵庫だったみたいだ。そこから英字のラベルが貼られた瓶を取り出し、すぐ横の戸棚からグラス二つを手慣れた様子で掴んで、床の上に座り込んでそれをずうっと見ていた私の前でカウチに倒れこむように座った。それからまだ足の動かない私を見遣って、


「あんたも座んな」


 と、自分の向かいのソファを顎でしゃくった。






 彼女に促されるままにソファに腰掛けた彼は、ぼんやりと酩酊したような頭で向かいのカウチに腰掛ける彼女のことを見ていた。彼女もまた、品定めするように彼の頭からつま先までをじろじろ見回した。鋭い目をした彼女に手を引かれて華屋の中へと踏み込んだ彼は、彼女が客を接待するための部屋へと連れ込まれたのである。


「あんたねえ、困るのよ。金もないのに手当たり次第女捕まえてさ」


 彼はそう話しかけられながらも、どこか上の空だった。だから彼女は苛々とした気分をそのまま彼の胸にぶつけるように話し続ける。


「聞いてンの? ねえ」


 と、彼女がいっそう高く声を張り上げたとき、


「俺は」


 と彼がやっと口を開いたので、彼女はちょっと驚いて唇を尖らせる。


「俺はほんとうに、人間じゃなくなっちまったのか」


 彼の声は静まり返った部屋の中で崩れ落ちそうに震えて、わななく唇の端からかき消えていった。うなだれた彼の顔の中にある定まらないままの弱々しい人間のまなこに彼女は少しの間見入って、そうすると彼女の胸の中には一種の憐憫のようなものが滲んで広がった。


「あんた、可哀想ね」


 彼女の声は、自分より弱いものに対する優越の喜びで色づいていた。






 可哀想と突然椿に言われたから、私はきょとんとしてしまった。


「どうして」


「だってあんた、ちょっと前までいいとこのお嬢ちゃんだったんでしょ?」


「……どうしてそんなこと知ってるの」


 椿は私にちらりと目をやった。


「誰だって知ってるわ。人間の堕落の話ってのはね、皆んな大好きなのよ。誰かが喋ろうとしなくたって、それひとりで勝手に広まるわ」


 椿はグラスに瓶の中身を注いで、グラスのひとつを私の方に押しやった。自分のグラスを手に取った椿は目だけで「あんたも飲みな」と私に言った。私はグラスを顔に近づけて、それからその香りにうっとなって飲もうとしたのをやめる。


「お酒じゃない、これ!」


 私が思わずそう叫んだのに動じる様子もない椿は


「そうよ」


 とだけ返して、私の反応を見て意地悪く笑った。


「いけないわ、私、成人してないもの」


 私はグラスをテーブルの上に返すけれど、椿はけらけらと笑い声をあげる。


「だぁいじょうぶよ。あたしだって成人してないもの」


 それから椿は私の方を例の意地悪な目で見たまま首を傾げて色っぽく口をほころばせた。私はなんだか喉の奥が詰まる心地になりながら、思ったまま声を出す。


「あんた、いくつなの……?」


「来月ではたち」


 そう返しながらまたお酒に口をつける椿の姿を、私は改めてまじまじと見た。シックなドレスを纏い、組んだ足先に華奢なピンヒールをはめた彼女は、上から下まで身に付けるものの全部が似合っているのだった。少し疲れたようなところはあるけれど、彼女の顔立ちは細やかなところまで整っていて、細い顎や小さな口元、すっと通った鼻はきつい印象もあるけれど美しくて、長い睫毛の下に潜む山吹色の瞳は彼女のために職人が手ずからこしらえたようによくできている。どんなに無理を言っても、私のたったふたつ年上には見えなかった。そして椿のその工芸品みたいな瞳が、にやっとこちらに向かって笑いかける。


「見えない? 老けてるって言うんでしょ? ここの女はみんなそう。あんたらよりもずうっと早く、大人になるの」


「老けてる……っていうか……」


 大人びている、というふうに言い直そうか私が迷っている間に、椿はもう次の話を始めていた。


「茜もあたしと同い年。そんで、あの子だって酒を飲むわ」


 椿はカウチの上にごろりと身を横たえた。だからさ、と私にお酒を飲むように催促する椿から身をかわしたくて、私は話をそらすことにした。


「茜はここには来ないの?」


 私の質問に椿は口をへの字に曲げる。そればっかりは子供みたいだと思った。そのへの字口が不機嫌なまま開いた。


「仲良くないのよ」


 そう言って椿はグラスをテーブルの上に戻す。ガラスとガラスの触れ合う硬い音がする。 


「あの子ね、あたしのこと嫌いなの」


 ぼうっとした椿は淡々とそう言い放つから、私はなんだかいたたまれなくなって、


「そんなこと、ないと思うけど」


 と口に出す。自分の声を聞いて思ったけれど、なんだか怒ってるみたいな声になっていた。そうすると椿はあははと声をあげてまた笑う。


「なんか知ってるような口ぶりねえ」


 そうして横になったまま、その山吹色の瞳で私の目をまっすぐに見つめる。


「あたしそういうの、大嫌いなのよ」


 彼女はずうっと笑ったままだから、私は彼女がどういうつもりでそう言っているんだかわからなくて、胸の中がざわりと濁るような気持ちになった。椿はなおもその定まらない目を私に向け続ける。


「だからもうそんな馬鹿なこと言わないで頂戴」


 そう言ってカウチの上で寝返りを打った彼女の髪が、こぼれ落ちて床の上へと流れた。






 寝台の上に広がる彼女の髪が薄明かりの下で揺らぎ、艶やかに煌めくのを見つめながら、彼は彼女に触れられないでいた。彼女の発する声は妙に理知的で、彼の心のわだかまりの全てを暴き出すような鋭い響きを確かに持っていたので、彼は連夜同様に馬鹿になって女を抱きしめるということを彼女に対してできずにいた。そのまま逡巡している彼のうつむいた顔に気づいた彼女は起き上がって、彼の方にゆる、と身を寄せるから、彼は思わずその身をのけぞらせた。だから彼女は眉を不機嫌に歪める。


「なによ」


「俺は……」


 彼の言葉の続きを待たずに、彼女は両の手で彼の顔を包み込んだ。当然としてやわらかく添えられた彼女の指のなめらかさに、彼は驚いて目を見張った。


「……俺の肌は、冷たいだろう」


 そう溢れた彼の声は悲しくなるほどか細くて、一口吹かれれば消えるともし火のように頼りなかった。彼女は愛嬌のある口元をちょっと曲げて彼のことをまっすぐに見つめた。


「生憎だけど、あたしね、熱いのも冷たいのもわかんないの」


 そうして彼女は首をちょっと傾げて、ごめんなさいね、と悪戯っぽく笑う。


「だから、あんたがどっちだってかまやしないのよ」


 そう言って笑った彼女の顔が、そのときどれだけ彼にとって慰めになったか、僕にはどうも説明しきれない。心臓の片側を失くしてその身の熱まで奪われた彼が、それまでどれだけ人の手に触れるのをためらってきたか、抱きしめた女が熱を持たない彼の身体にぞっと身体を強張らせるのに彼がどれだけやるせない思いをして来たかを、きっと僕はあなたに伝えきれないでしょう。


「やだぁ、なによ」


 うな垂れるように彼女の首元にその頭を差し出した彼は、彼女の指の腹から嫌という程伝わってくる確かな体温に、情けないほど涙が出たのだった。


「子供みたい」


 音のない夜だった。彼に寄りかかられたまま、彼女は彼もろともゆっくりと背中から寝台へと、倒れた。






 椿はカウチに仰向けになって、ぼうっと天井を見ていた。この人の気持ちはなんだかよくわからない。私はどうしようもないような気分から逃れたくて部屋の中を見回してみた。荷物の押し込められた、部屋の隅。布のかかった大きなその塊に私は、 


「ピアノがあるのね」


 と声を出していた。


「え? あァ、客にねだって買ってもらったの。昔よ」


 彼女の「昔」という言葉は、たった二つ上の彼女がいうにはどうにも可笑しい気がして、でも彼女の横顔は妙に年季が入っているからそんな気持ちになった自分のほうが変なのかもしれないと私は思い直した。


「ピアノや、ミシンや、蓄音機を買ってくれたっけ……そんで、色々とお金を出させた後で、『あんたとお喋りするのはもう飽きちゃった』って言ってやったわ。そしたらね、そいつはあたしにしてきた贈り物の全部を差し押さえようとしたね」


 私は椿がそう話しているそばから立ち上がってピアノの方まで歩いて行った。布を剥ぎ取ると、大きなグランドピアノの面がつやつやと反射して、私の顔を映した。


「じゃあなんで、これはここにあるの?」


 私が椿のほうを振り返ると、椿はかったるそうに起き上がって頭を掻いていた。


「簡単よ。『あんた、お金を持っているだけが取り柄なのに、その取り柄まで自分で捨てっちまうなんて、随分気前がいいのね。あんたのそういう美徳もしばらくはあたしたちの話の種になるでしょうよ』って言ってやったの。そしたらね、もう面白いくらいに怒って、二度と来なかったわね」


 椿はそれから大きくあくびをする。


「そうしてね、いろんな『物』だけがあたしの手元に残っていくの」


 椿はそう言いながら耳に下げていた大きな金色の飾りを外した。


「……いまじゃどれも触りやしない」


 私は彼女の声を聞きながら、鍵盤蓋を開けてみる。鍵盤は真っ白で綺麗なままだった。 


「ピアノなんて教えてくれるひともいないし、練習すんのも嫌いだし」


 声が近づいてくるので振り返ると、椿がしゃなりしゃなりと腰を揺らしてこちらにやって来るところだった。片手にはお酒の入ったグラス。


「そもそもだいいちあたしね、『教えられる』ってのが嫌なのよ。そんなんじゃ上手くなりっこないってワケ」


「じゃあ、なんで始めたのよ!」


 私が思わず吹き出したので、椿はちょっとびっくりしたように目を丸くして、それから自分でも吹き出して見せた。


「ほんとよ、なんで始めたのかしらね……あたし」


 椿の声はそこで一段と優しいような響きになった。


「でもね、憧れてたのは確か。小さい頃ね、あこがれてたの。でもさ、実際手に入れて、そんで弾いたら……あたしには合わなかったね」


 私は椅子に座り、鍵盤に手をかけて、指の運びを思い出すようにラヴェルを四小節だけ弾いた。椿はびっくりした顔をする。 


「……あんた弾けンの?」


「私は練習したもの」


 私が得意げにそう言うと、 


「ああもう、ほんとに鼻持ちなんないわね!」


 と、椿は声を張り上げた。この段になると、椿は素直に笑っていた。


「でもこれ、調律がめちゃくちゃだわ」


 低い方から順番に鍵盤を押しながら私が言うと、


「あら」


 なんて椿は小首を傾げている。それから、


「じゃああんた、直してよ」


 とずけずけと言うから、今度は私がびっくりしてしまった。


「私が調律を……? 自分で直したことなんてないわ」


「じゃあ勉強して、それから直したらいいじゃない。あんた、これからあたしのために調律師になんな」


 そう言って、椿はグラスを持ったままの手で私に人差し指を向ける。


「いいわね」


 にいっと目元を歪めた椿から脅しのように押し付けられた命令に、私は戸惑った。けれどそのとき、カフェに置き去りにされていた椿の外套と手袋を持った茜が部屋に入って来たので、私がちゃんと断る前に話は途切れてしまった。


 私はそれからまたしばらく椿と話をして、夜中の三時になった頃、もう寝る準備をするからと常夜の街にほっぽり出されたのだった。






 街の外に日が昇るまでは掃き溜めの中には真人間もうろついている。彼には、昼夜を問わず──もちろんそれは街の外における昼夜という意味なのだけど──掃き溜めの中のありとあらゆる路地をぐるぐると練り歩く習慣があった。彼は「土地勘」というものの大事なことを知っていて、だから妹が他人の部屋で世話になっている間でも、自分はごちゃごちゃした街の構造を理解しようと心づもりしていたわけである。だから、彼女が支配人を務めるキャバレーの裏手でのその邂逅は、偶然といえるかもしれないし、遅かれ早かれそうなるという意味で、必然だったといえるのかもしれない。表通りからそのかび臭い裏手に迷い込んだ彼は、キャバレーの裏口へと繋がる鉄階段の上で、ひとりの女がうずくまっているのに気がついた。男は思わず(別に偶々居合わせた彼に非などひとつもないのだが、そういった個人的な感傷の場面に他人がずけずけと立ち入るということに、彼は気が引けるたちだったので)ゴミ置き場の影へと身を隠した。それでもどうにもその女が気になって、悪いとは思いながらも、彼はどうにも引き返せないでいた。


 そうすると、しゃがみこんでいた女は息をひとつ吐いてから勢いよく立ち上がって、何かを振り払うような調子で首を横に振る。彼はびっくりして息を呑んだ。それは、他ならぬ「彼女」だったのだ。彼のその息の音が聞こえて、というよりもその気配に気づいて、彼女はばっと彼の方に顔を向けた。


 涙に濡れたその顔は、確実に、「彼女のことを見つけてしまった彼」のことを見ていた。一瞬だけ見えたその清廉たる涙の顔──もっとも、彼にはその顔の悲哀に満ちた美しさは永遠のように感じられたのだけど──は、彼が息を呑んでいる間に、逃げるように身を翻し、戸口の奥に引っ込んでしまった。




 彼は、すぐにでもまた彼女のところに会いに行こうと考えた。でもなんだか気が引けて、それがうまくできなかった。あの時鉄階段の上で泣いていたあの美しい娘が、あの悪魔じみて洗練されたかの商売女と同一であるとは、彼にはなかなか納得いかなかったのだ。そうであるからして、やっと会いに行こうと決心のついた時、彼は彼女にひとつ質問をすることを心に決めていた。つまり、「あのときあんた、泣いてたか?」という、なんとも不躾なことを。


 結論から先に申し上げると、少し間を置いて彼が顔を出した時、彼女の態度は一変していた。あの妖しい微笑みをばっさりと脱ぎ捨てた彼女は、高級娼婦とは到底思えないほどぶすっとした顔で客の彼を迎えたのだ。その顔を見た瞬間、彼は何が起こっているのかわけがわからなかった。まるで彼が何かしでかしたような──実際、「彼女から見れば」、彼はしでかしてしまっていたわけだが──不当な不機嫌に彼は迫害を受けていた。彼女だって、彼があの裏手に現れたことに関しては偶然に違いなく、また彼に非がないことをよくわかっていたのだが、その無実性がむしろ彼女の苛立ちに拍車をかけていた。彼女はこう思っていたのだ。「あんたはうっかり握ったあたしの弱みでもって、あたしのことをからかうためにわざわざ日を空けた今日に会いに来たんでしょう? だって、何にも気にしてないなら、日があくこともなかったんだからさ」


 そういった、彼女の驚くほどに面倒な心理学──こういうのってほんとうに厄介なものだよ──を、その日の彼は全くもって理解できていなかったので、「ばったりと鉢合わせて悪かった」と真面目くさって実にすまなさそうに答えたのである。もちろん、謝れば彼女がまた、あの艶めく美しい笑顔を自分に向けてくれると信じて、だ。しかし、彼女からすれば、彼のその謝罪は予想どおりであった。そして、彼女は予想していた通りの彼のその言葉の裏にあるであろう、彼女への軽蔑や同情や憐憫や、「自分は相手をより深く理解している」というような自負からくる馴れ馴れしさのようなものを勝手に解釈し、彼に向かって一層嫌悪感をむき出しにした。じゃあ、どうすれば一番丸く収まったのかといえば、それは彼が彼女を「ただの娼婦」扱いすることだった。彼女は、彼が、「娼婦」という枠組みの外に彼女というひとを求めたことに大層腹を立てていた。わかった口を聞くな! と言いたいのである。ああ、なんて! なんて面倒な! そして、彼女のそういった奇妙な態度の裏にある、その「正解」を知らぬ彼は、それから数週間そのことだけに頭を悩ませることになる。後になって彼が自分の妹に尋ねたところ、


「仕事のほかに立ち入らないでっていうことでしょ」


 と返答されて、彼はやっとこさ彼女の卑屈さを理解したのである。そして、彼女にとってはこれ以上ないほど不本意なことに、彼女の「裏の顔」を知った彼は、彼女に尚更入れ込んでいくことになる。そうそう、特筆すべきこととして、彼は拒まれれば拒まれるほどおせっかいを焼くような類の男だった。まあ彼も、彼女とはまた違った形式の面倒な人間だということである。これだけ話せば、彼らがどんな関係か、あなたにもなんとなく伝わるんじゃないんだろうか。


 彼女の性質の厄介さにのめりこむほどに、彼は彼女がどんな人物であるか知りたくなった。だから、彼がすぐさま彼女の「例の傷」の背後にある事情について知ることになったのは当然と言えよう。いつかの話でも述べた通り、彼はそれを良くは思っていない。そして彼は、言葉で言って聞かせてわからなければ、無理矢理にでもやってみせるといったような、多分に激情的なところがあった。彼のそういった性質を彼女が初めて理解したのは、彼が彼女を他の客の前からかっさらって行った、じっとりと昼の匂いの残ったままの夏の路上でのことだった。


 彼女の腕をむんずと掴んで客から引き剥がし、彼は無責任に彼女を憎っくき迫害者の前から連れ去った。嵐のような出来事に彼女はしばし呆然としていたが、怒ったような息遣いで自分を街の中引きずっていくのが彼であるのに気づき、必死にその手を振りほどこうと腕を無茶苦茶に振り回した。彼女があんまりにも声をあげてもがくので、彼は一度立ち止まって彼女の肩を指の跡が残るほどに強く掴んだ。


「あんたは望んでこんなことをやってんのか」


 怒りを帯びた興奮に目をぎらぎらさせた彼は、彼女がそれに否と答えるのを待っていた。けれど、彼女はそうはしなかった。


「そうよ」


 と、はっきりと答えた彼女の目に曇りはなく、だから彼はその日初めて怯んだのだった。けれど、彼はそれに満足しなかった。


「こんなことが許されていいわけがないだろうが」


 諭すような彼の言葉は初めから終わりまで全て真剣で切実だった。けれど彼女はやはりそうではなかった。彼女は彼の誠実さを、真正面から嘲笑した。


「『許される』? あたしがどんな世界で生きていると思って、そんなことを言ってんの?」


 そこは人気のない路地だったから、彼女の声は彼の耳に刺さるかのようだった。月の光の下にむき出しの生白い彼女の肩が、自分の手から滲み出た汗で湿って滑るような心地がするのを、彼は覚えていた。


「あんたさ、この世の『不正』っていうものを全部表に突き出したら、勝手に世の中のどっかから顔を出した『正義』みたいなもんがそれの全部を正しく裁いてくれるんだとでも思ってるんでしょ?」


 そのときの彼女は、完全に、彼のことを傷つけてやろうと考えていた。


「違うのよ」


 はっきりと声を発する彼女の唇を、彼は瞬きせずに見ていた。


「暴いちゃならないものがあるの。そうやって暴き出すことで、誰かが痛い思いをすんのよ。なんにもわかってないあんたのばかみたいな正義感が、今日だってあたしの首を絞める」


 そこまで言った彼女は、恐ろしく無表情になった。 


「正義でなんでもいいようにできたら、あたしみたいに生きてるやつなんて最初からいないわ」


 彼女がそうやって気味の悪いほど理知的に語るのを、彼は努めて聞かないようにして再び歩き出し、彼女を夜の街の中引きずって行った。彼女は彼に掴まれた腕の痛むのに息を荒げて、何度も振りほどこうともがきながら、それでも物言わぬ彼に向かって呪詛を投げ続けた。それらの全ては、しかし彼の足を止めさせるのには十分ではなかった。


 迎えが来たのはすぐだった。


 ふたりが薄い青緑色の通りにさしかかったとき、横道からふっと現れた人影がふたりの行く手を阻んだのだ。電灯の下にすらりと立ち上がった人影に彼は彼女の腕を掴んだまま歩みを止める。彼らのことをじっと睨み付けるのは、少年のような少女のような、そのどちらでもないような透明な人物であった。子供っぽい瞳が愛想笑いを含んで歪み、その口がいつも通り軽やかに語り出した。


「うちの妹を随分な三文芝居に引き込んでくれたじゃないか」


 彼女を自分の腕の中に庇うように抱き込もうとした彼は、そうし損ねて、彼女は彼の手をついに振りほどいて目の前の人影の腕へと飛び込んだ。そのときの彼の無力感と言ったら、もう比類もない。


「哀れな零落の女を救ってやるだなんて空想は、映画の中だけにしておくんだな」


 背後から聞こえた声に彼が振り返ると、もう一つの人影が、抜き身の刀をぎらぎらと輝かせながら彼に迫ってくるところだった。


「お前が生きているのは現実だ」




 彼はもちろん、彼女も折檻を受けることになった。彼はそのときの浅はかな自分自身について何度も悔いることになったし、そうありながらやはり彼女がそうあること、彼女を今の悲惨たらしめるこの状態というもの自体を憎み続けることに決めたのだった。彼は月の光の下の彼女の冷たい瞳を、彼自身の血だまりの中から見上げたその絶望的な立ち姿を、そしてその時彼女が発した迷いのない言葉を今も、夢に見る。






 誰もいない路地を疲れ切ってとぼとぼと歩きながら、私は椿とのお喋りを思い出していた。




「あたしはね、あたしより幸せな奴らをみんなみんな、ぜーんぶ! あたしより不幸にしてやるのよ」


 酔った椿の声は大きくなってゆらゆら揺れる。


「あたしはここで、不幸の帝国を築いてやんの」


 そう言う椿は据わった目で私のことをとっくりと見つめている。私は慎重に口を開いた。


「あんたは、そういう風にして……幸せになりたいってこと?」


「幸せになんかなりたくないわよ」


 椿はぴしゃりとそう言って、それから背もたれから首を起こして、ひどくきっとした声で話し出した。


「この世にはね、幸せになる権利のある人間と、そうじゃない人間がいんのよ」


 彼女の首はそこでがくりと傾いた。やっぱり酔っているんだ。


「あたしはそうじゃないほうだったってだけ」


 そう話してから彼女は、自分の言ったことが可笑しくてたまらないようにけたけたと笑い出した。彼女の目元の化粧は流れ出して、隈のように目の下にこびりついている。私は彼女のあり様のちぐはぐさに、どうにも耐えられなくなってうつむいた。そうすると、彼女の声が、ねえ、と私に呼びかけるのが聞こえた。


「あんたさあ、リンゴがなんで赤いか知ってる?」


 私が少し考えて何かを言う前に、椿はもう口を開いていた。 


「赤いから赤いのよ。それを問うたってしょうがないでしょ」


 そう言い放つ彼女はにたりと目元で笑いながらも、声音はひどく正確で、もうしらふみたいだった。


「あたしは、『あたしが不幸なのはなぜ』なんて問うたりしないわ。だって、そんなの考えたってしょうがないじゃない。だってそういう生まれだもん。リンゴの赤さを問わないように、あたしだってなんであたしが不幸かなんて問わない」


 椿はまるっきり酔いが覚めてしまった様な顔をして、テーブルの上にあった煙草を取り上げて、またその隣にあったライターで火をつける。その流れる様な仕草はひどくやつれた生活の感じがして、けれど色っぽくてとても綺麗だった。


「でも幸せなやつを見てりゃあ腹は立つでしょ。だから、あたしは全員道連れにする。地の底から、自分より上にいる奴らの足元に食ってかかって、引き摺り下ろしてやるの。あたしは、あたしにできるやり方で、この悪徳の世界を征服するわ。毒蛇と毒蛇が喰らい合うってね。この世はね、正義なんかじゃどうにもならないのよ」


 彼女は煙草の煙を吸い込んで、それからどっと吐き出した。煌びやかな装飾のカウチの上で着崩して膝を立て、うっとりとした顔でこちらを見つめる椿は、まるで一枚の絵のように思えて、私の目に焼きつく感じがした。


「いいことをひとつ教えておいてあげる」


 椿は、じわ、とまつげの長いその目を歪めた。






「力のない正義に、意味なんてないのよ」

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