表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑止千万  作者: 曲瀬樹
第二期 森羅穿つ界線の努
20/42

第十八話 故事得たるは獣の巣窟



 しがみついてくる女の子に私は固まった。いつも通りの道の真ん中で、いつも通りじゃないことに突然がつんとやられた私は、女の子がもう一度はっきり


「たすけて!」


 と口にしたのを聞いて、はっとして通りの向こうに目をやった。雑踏の隙間に見える黒い服の人影。何かを探すように辺りを見回す制服たちの姿に、私はぎょっとして女の子を見下ろす。彼女は必死で私の顔を見つめ続けている。私はそこでぐっと唇を噛んでから、


「ついて来て」


 と短く、私自身のことまで元気づけるように、はっきり口に出した。


 女の子の手を引いて、私は来た道を引き返した。制服たちに気取られないように、あんまり急ぎすぎないように、ゆっくり、振り返らないで。不安そうな女の子の頭の上に安っぽいネオンの光が落ちているのを見て、私は女の子の小さな手をますますしっかりと握った。


 表通りを折れて、人通りの少ない、道幅の狭い西洋風のアパルトマンの立ち並ぶ住宅街へと入っていく。汗で湿った女の子の手。女の子は不安そうに辺りをきょろきょろと見回し、それから私の顔を見上げた。大丈夫、と気持ちを込めて手に少し力をこめると、彼女は不安そうな顔のままだったけど、すがるように握り返してきた。


 アパルトマンの前で制服たちに付けられていないことを確かめる。それから、私の手に引かれた重い鉄の外扉はゆるやかに開き、私と女の子を招き入れた。女の子を先に中に入れてから、慎重に閂を下ろす。これで一安心。女の子は明かりがぽつぽつと灯るアパルトマンの中庭を見回している。私は彼女にゆっくりと近づいて、しゃがみこみ、もう一度その小さな手を取る。と、その手は震えていた。


「……大丈夫よ」


 気がつけば私の口からはそんな言葉が溢れていた。薄い氷の色をしたその目は私の目の前で見開かれて、そのままはらはらと涙をこぼし始めた。私は握っていた手ごと女の子を自分のほうに引き寄せて、そうっと抱きしめた。なんか、そうしなきゃいけない気がしたんだ。泣き声と一緒に震えている細くて小さい体を自分の肩にくっつけて、私はこんなに小さい子を抱きしめたことがなかったんだなあ、と思った。女の子のすすり泣きが収まってから、私は彼女から体を離す。寒いのに涙に濡れたほっぺたが真っ赤になっているその子は、なんだか私が小さい頃によく遊んでくれた友達とよく似ている気がして、私は愛しいような気持ちでいっぱいになった。でも、なんでこんな小さい子がこの街に? それに、制服に追われていたのはなんでなんだろう。私は目の前の十歳にもなっていないような女の子の顔を見て、どうやって質問しようかと少し考えた。


「お父さんと、お母さんは?」


 と、私がゆっくりと聞くと、女の子は口をぎゅっと引き結んだまま首を横に振った。


「はぐれちゃった?」


 私が尋ねると女の子は眉根をぎゅっとつめて、うんともすんとも言わない。なんだか意地っ張りな感じの顔だ。はぐれたのが恥ずかしいんだな。


「どこから来たの?」


「……おうち」


 そうやって小さな声で返されて、私は気が抜けてしまった。でもそうよね、おうちから来たのよね……。どうしようかなあと思って女の子の手をにぎにぎと触っていたら、彼女は喉を詰まらせながら口を開く。


「おとうさんとおかあさんも、おいかけられてて」


 自分ののどが勝手にひくついて、私は自分の背中が固まったのに気づいた。


「それで、はぐれちゃったの……くろい服のひとたち……」


 それからまた泣きそうになる女の子の目を見つめて、私はぎゅっと彼女の両手を自分の手で包み込んだ。


「絶対に、助けてあげる」






 結局無人の街を延々練り歩いてから洋間のソファで眠った俺は、頰に弾けるような痛みをぶつけられて目を覚ました。


「あ、起きた」


 きょとんとした顔の椿と、俺を叩いた後の右手に、俺は昨日の続きをすぐに思い出してため息をつく。


「ほんとに部屋に帰んなかったんだ?」


 倒れこむように隣の椅子に腰掛けて頬杖をついた椿を一瞥して、俺はかゆい頭をばりばりと掻いた。


「だって、茜は根に持つんだろ?」


「そこまで子供じゃぁないわよ。あんたに怒ってたってしょうがないしね」


 椿の二転三転する言動に苛立ちながら、そのちょっとしたとげとげしさも疲労感に押しつぶされて俺の中に埋没していく。


「俺はなんだか、まだよくわからないんだよ。ここのことも、お前らのことも」


 そこで大きく息をついた俺をよそに、椿はテーブルの上のガラスボウルからチョコレートを一つ摘んで、ソファに再び身を沈めた。俺になんか目をやらずに、尖った爪の先で銀紙を器用に剥がしていく。


「真木なんかは何を失ってるのかわからない。見た所『完璧』って感じで……」


 俺は言葉を濁した先の、喉から出かけた「気にくわない」を飲み込んだ。俺が喉の奥の気持ち悪さに顔をしかめていると、椿はいつのまにかまたひとりで笑い転げていた。


「真木? あいつ? あいつの『欠け』のことぉ?」


 椿は口の中でチョコレートを転がしながらけらけらと笑い声をこぼす。


「あたしに聞かずにさあ、あいつに直接聞きなよ。すっごい顔するよ、きっと! だって、あいつの欠けってば」


 椿はその言葉の続きをチョコレートと一緒に噛み込んで、意地悪な笑みで俺にじろっと目をやった。


「……別に、そう知りたいわけじゃない」


 と、俺がむっとしながら言うと、椿は手を振って


「知らなくていいわよ」


 と言いながら二つ目のチョコレートに手を伸ばす。今度はガラスボウルの中で手を泳がせて、包み紙をじろじろと見てはチョコレートをボウルに戻すといった具合にずいぶんと吟味している。


「そういえば」


 と俺が言っている間に、椿は、やっと包装が赤いのを選び出した。


「……ここの一番の古株ってのは誰になるんだ?」


 途端にめんどくさそうな顔をした椿は、少し思案するように上の方を見上げてから、チョコレートの包みを剥きとって、そのまま口に放り込む。


「……枇杷?」


 彼女の返答は疑問形だ。


「枇杷なの? お前でも真木でもなくて?」


 華屋の中じゃ、枇杷が一番年下に見える。けれど椿は、あたしなんか、とにやついて手を振った。


「枇杷ね。枇杷よ! 枇杷がいっとう古株。あたしが来た時にはもういたもん。真木なんて最近よねえ。茜はあたしより少し前って聞いたことあるけどさ」


 ふっとこぼれた茜の名前に、俺は瞬きした。


「君がここに来たのっていつ」


「うるっさいわねえ。根掘り葉掘り。帝都の犬みたいに尋問してさぁ。うっとおしいったら」


「……俺はもう警官じゃない」


 俺がぼそりとそう返したのに椿は一度目を丸くして、それから意地悪く笑った。


「へえ、ちゃんとわかってんだ?」


 それから不気味に首をふら、と落ちそうに傾げた後、背中をそらすようにしてくらりと立ち上がった。


「じゃああんまりさあ、そういうことすんのやめなよ」


 彼女が俺に向けた背中は、いつもと同様にただれていた。


「誰も、あんたにそんなこと望んじゃいないから」






 私は女の子の手を引いて、賑やかな表通りを避けて街の入り口を目指していた。彼女の着ていた薄い水色のコートを隠すように私の黒い上着を彼女の肩にかけて、人の目を盗むように、こっそりと。彼女はずいぶん私のことを信用してくれたみたいで、私の手をしっかり掴んで離さないからありがたかった。


 この子は、どんな気持ちで私に抱きついて助けを求めたんだろう。知らない男の人たちばっかりの街の中で、女の私を見つけて、きっと必死になって縋り付いたんだ。そういうふうに思ったら、彼女の見えていないところで私の目が勝手にうるんだ。この子も、私と同じだ。制服たちの裁判に巻き込まれて、きっとお父さんお母さんと一緒に狙われてる……。私だってあの日、あんなに不安だったのに、こんなに小さいこの子は、どれだけ辛い気持ちなんだろう。私はそう思って、足を早めながら彼女の手の小ささを確かめた。今、この子、どれだけ、どれだけ心細いんだろう。


 そのまま私はなんだかムキになって来て、絶対にこの子を街の外まで送り届けてやろうともう一度心に決めた。もしも制服たちが追いついて来ても、私がこの子の盾になってやる。私、人間じゃないんだ。そう簡単に死なないもの。そう思いながら、私は大分街の入り口に近づいているのに気づいていた。たくさんのひとの声が聞こえて来る。入り口に繋がっている表通りだ。私は彼女の顔を見下ろして、


「もうすぐよ」


 と、声をかける。女の子は私の顔を見返して、必死に首を縦に振った。そのとき、


「おとうさん!」


 女の子がそう叫んで、私の手を振りほどいてわあっと駆け出した。人通りの多い表通りに躍り出た女の子は、くすんだ人混みに分け入ってぐいぐい進んでいき、その小さな背格好は私がきょとんとしている間に人混みのどこかに消えてしまった。あまりのあっけなさに私は薄暗い路地の中で立ち尽くした。それからネオンの光に溢れた表通りに出て彼女の姿を探してみるけれど、もう、どこにも見つけられなかった。あんまりにも不意を突かれたから私の足は固まってしまって、ひとにどんどんぶつかられる。なんだ、お礼も言われなかったな、と私はちょっとむくれたし、上着を持って行かれてしまったなとちょっと惜しい気もしたけれど、しばらく表通りを見回した後で、引き返すことにした。別に、お礼を言われるためにやったことじゃないし、それに、彼女が私みたいにならずにこの街の外で、お父さんやお母さんと一緒にいられるなら……。


 私はやっぱりあの女の子の顔をもう一度見たかったけれど、バイトの時間にずいぶん遅刻していることを思い出して、慌ててカフェのほうへと駆け出したのだった。






 望まれようが望まれまいが、俺にも知的欲求はあるのだ。それに、このまま何にも知らないんじゃ馬鹿みたいだ。俺は、「もう顔も見たくない」という茜の言葉に多少なりとも胸を痛めていた。いや、俺が悪いのかもしれないけど、だって、知らなかったんだぜ? そういうことで、彼女が傷つくとか俺の知ったことじゃないじゃないか。そんなふうに頭を悩ます俺の視界の中、廊下の先に一瞬だけ人影が見えた。その人影は渡り廊下の先にすぐに消えて行ったから、はっきりとは見えなかったが、背格好からおそらく枇杷だろう。そうか、やつの居室はこのあたりだったか。


 華屋の連中の住まい方は妙な具合になっていて、やたらだだっ広い娼館の中で散り散りになって居を構えている。真木なんかは俺と茜の部屋とは一番離れた棟にいるのだと聞いた。場所はなんとなくしか知らないし、行き来もしない。……皆、互いに干渉しない。


 俺は枇杷と話がしたくなって、奴が姿を消した渡り廊下の先へと歩を進める。赤い絨毯が敷かれた西洋風の廊下に入り、低い天井にぶらさがった黄ばんだ電灯の下を、枇杷の姿を探して歩く。と、少し先にある右側のドアが開いている。俺はそのまま吸い寄せられるように開けっ放しのドアを押し開けて、


「よお」


 と、挨拶をしてみるが、応答はない。そのまま中に入ると、そこはふっと香水の香るホテルのような作りの部屋だった。白でまとめられた調度品は細かく装飾が施されていて、どうみても女の部屋という感じだ。こういう趣味だったのか、と俺が花瓶の置かれた飾り棚に近づく、と、奥に続く続き間からたしかに誰かの寝息が聞こえて来た。その音につられて顔を上げ、そのまま続き間の方へと歩き出した時、廊下の方からドアの音が聞こえて、俺はぎょっとして振り返った。音もなく、薄暗い洋館の中、確かに視線が俺に刺さっている。ぞわりと寒気がする。俺が開け放していたままのドアの前に、枇杷があまりにも驚いて愛想笑いの吹っ飛んだ顔で立ち尽くしているのだった。俺は、自分の背中が凍りつくのを感じた。


「なにしてる」


 枇杷は瞬時に俺と距離を詰め、気がつけば奴の腕は俺の胸ぐらを掴んでいた。その細腕からは想像できないほどの恐ろしい力で壁に叩き付けられ、俺は自分の喉が勝手にひくつくのを感じた。俺の胸元をぐっと握った男とも女ともつかない細く骨ばった枇杷の指は、明白に怒りに震えている。暗闇の中でも確かにぎっと俺のことを睨みつけるその柔和であった目元には、俺が言うべきことの全てを喉の奥に詰まらせるのに十分なだけの鋭さがあった。


「おまえ」


 喉から唸るように低く絞り出されたその声に、いつもの甘ったるい愛想笑いはひとつもない。それから俺を突き殺すような奴の瞳がひとつ、ゆら、と酒に酔ったように震えて、奴がふいとこうべを垂れてもう一度俺を見たときには、そこには急ごしらえの歪な微笑が貼り合わせてあった。奴の頭が、ゆらりと傾く。


「そうか……君はひとのテリトリーにずけずけと踏み込んで、とぼけた顔で踏み入って踏み荒らして踏み潰して帰っていくのが趣味だったねえ」


 枇杷は歯をむき出して笑って見せたが、その笑いは乾いていて、野犬のようにひどく攻撃的だった。そのまま柔和な形をした目をにじ、と底意地悪く歪めて、枇杷はふっと溢れるように口を開いた。


「……知りたい? 知りたいんだよね? そうだ、知りたいんだよ、君は。僕らの……僕の、秘密を、さあ」


 そう言った枇杷は、俺の襟首を掴んだままぐいと手を横に振切って、俺を隣の肘掛け椅子に引きずり下ろした。それから間髪容れず俺の膝にのしかかって、俺の頭を背もたれに打ち付ける。それから枇杷は、痛みにめまいのする俺の目の前であろうことか自分の着ているシャツのボタンをひとつ、ひとつと外し始めた。何が起こっているのかわけもわからぬ俺は、ふつりふつりと暴かれていく枇杷の細い胴から目を離せないでいた。どこからか聞こえてくる電灯のじい、と導線の震えるような音と、続き間の先から確かに聞こえてくるかすれた寝息。そして、薄闇の中に広がっていく枇杷の肌。凹凸のない少年のような薄い胴体は、しかし妙に艶かしく、俺は違和感にぞっとしながらも結局は恐怖と妙な好奇心で声も出なかった。枇杷は最後のボタンを外し、肩からするりとシャツを滑り落とした。はっとして見上げた枇杷の顔は、かすかにほころんでいて、薄く開かれた唇は、まさに少女のそれだった。その唇が、ゆっくりと俺の目の先に近づいてくる。俺はそれを払いのけねばならなかったが、強張った体のまま、あまりにも完成された窒息しそうな空気の中で身動きも取れない。そうして、枇杷の顎が俺の額にぶつかる。なめらかな肌がしっとりと吸い付くように触れて。じっとりとした空気の中で、枇杷の肌からは女の香水の匂いがした。枇杷はそのまま不気味なほどゆっくりとズボンのファスナーを下ろしていく。しんと静まり返った部屋の中にぎりぎりと降りていく不躾で、卑猥で、下品なその音が、俺の耳に嫌というほどしっかりと刻み付けられていった。枇杷は俺の額に唇を当てたまま、ぎょっと目を見開く俺に向かって、俺の骨の芯にまで響かせるように、嘲けり声を震わせた。


「ほら、知らないほうが良かったろ?」






 約束の時間から一時間も遅れてやって来た私は怒られるのを覚悟していたのだけれど、ちょうどカフェにいて私の姿を認めた茜は、別になんともなく私の顔を見て、


「生きてたんだ」


 とだけ言うので私も拍子抜けしてしまった。怒られた時のために言い訳を用意して……というか、私が女の子と出会ってその子をどうやって助けたのか、そういうのを全部、ぜーんぶ話すつもりだったのに、私がさっきした大仕事は大したことでもないような気がしてきて、私は話そうと思っていたことの全部を飲み込んで制服に着替え、仕事を始めたのだった。




 お店から人がいなくなって、私は制服から普段着の黒いパンツに着替える。そうすると、真人間の他の店員たちを全部帰してしまったカフェの中で、茜がやっぱりひとりで店じまいの仕事をしていた。今日も伝票とにらめっこ。茜は娼館の華屋のひとだけど、いつもここや、別のレストランをぐるぐると回って私たちを監視している。掃き溜めの中でもちょっと綺麗なご飯屋さんは、全部華屋が管理しているお店で、茜はそういうのの取り締まり、みたいなのをしているらしかった。たぶん、仕事ができるひとなんだと思う。いつもなんだか疲れたような顔をしてるけど。唇をつんと尖らせて書き仕事をする茜の顔をじいっと見ながら、私はなんともない感じで口を開く。


「茜ちゃんってさ」


 私は彼女と同じテーブルの椅子に体を滑り込ませた。


「恋したことある?」


 茜は私を一瞥してからすぐに伝票に目を戻す。私が彼女の返答を諦めて通りに目をやったとき、


「……あるよ」


 という彼女の声が私の耳に聞こえたから、私はにわかに嬉しくなって彼女をくるっと振り返る。


「じゃあさ……!」


「恋は恋よ」


 うきうきしながら話し出そうとした私に、茜はぴしゃりと言い放つから、私は言葉を止められてしまった。


「恋のままで終わり」


 茜はそう続けて、テーブルの上に広がっていた伝票を手元にかき集める。


「……どういうこと?」


 私が正直に彼女が何を言ってるのかわからないって白旗をあげると、茜は一つため息を吐いて、


「人間分かり合えっこないって話」


 と、うんざりとした声で言った。茜の顔をしばらく黙ったまま見ていた私は、小さな声を出す。


「私たちもう、人間じゃないのに?」


 私がそう言った時、茜は怒ったように目を見開いたのだけど、ちょうどその時カフェのドアがからんからんと乱暴に鳴らされる音がしたので、私たちの話はそこで途切れてしまった。ドアのところには、吉見の妹の方がひとりで立って、まっすぐ私のほうを見ていた。


 茜の怒りっぽい顔から逃げ出すようにして通りに出た私に、吉見は開口一番、


「今日さ、泊めてくンない?」


 と、いつものぶっきらぼうな調子で言うから、私は


「ほあ?」


 とか間抜けな声を出すことになったのだった。




 帰り支度をして、お疲れ様、とこちらの顔を見もしないで一応労いの言葉をかけてくれた茜から逃げ出して、私は吉見と一緒に人気のない通りを歩いていた。


「兄さんは?」


 いつもはふたりで私に会いにくるから不思議に思って私が聞くと、吉見は


「しらね」


 とか、ぶすっとした声音で言う。


「どっかで酔いつぶれてンじゃないの」


 それからわざとらしいくらい大きく鼻を鳴らすから、私はなんとも言えなくて彼女から見えないようにそっぽを向いてちょっと口を曲げた。ふた月前にここに来た時からずっと、吉見のふたりはしょっちゅう私のところにやって来て、雀荘で麻雀のいかさまに付き合わせたり、怪しいバイトに引き込もうとしたり、よくわからないけれどご飯を奢ってくれたりして、私を街中連れ回した。ふたりと一緒だとほんとうに目が回るみたいだった。ふたりが私の心細さを気遣って、そうやたらめったら構っていたんだってわかったのは、ほんとうに最近のこと。いつもは私のバイトが終わるくらいの時間を見計らってふたり一緒にやって来るから、今日みたいにひとりで来ることなんて今までなかったのだ。吉見は私の方に目も向けず、横顔のままで口を開いた。


「……ときどきあんだよね。こうゆーの。勝手にひとりでどっか行ってさ」


 十二月の空気は冷たいから、私は巻いたマフラーを一度ぐっと口のところまで持ち上げる。


「ウチの部屋、兄貴と一緒じゃないと入れねーから」


 吉見はそう言って、服の中から自分の鍵を取り出して、私の目の前にぷらんとぶら下げて見せた。その鍵は、一つの鍵を上から下に向かってぎざぎざに切り分けたみたいな形をしていた。


「ときどき……いなくなるんだったら、今まではどうしてたの?」


「みなみんとこ行ってた」


 でも、いつもあそこ行くわけにもいかないじゃん? と、吉見はちょっとはすまなそうだと思ってる顔で私に目配せする。


「兄貴から市井にさ、あたしのことよろしくって言ってたみたいで。でも、そういうことじゃなくてさ、あいつが帰ってくればいいし?」


 なあ、と吉見が私の顔を見てくるから、私は求められるまま頷いてみせた。それから吉見がふーっと吐き出した息は白くなって、夜の中に散り散りになっていった。


「路地裏とかで酔いつぶれて倒れてンの……ほんとにさ、そういう兄貴なんだ」


 吉見の声はぴりぴりとげとげして、時々ひっくり返る。


「『あのひと』にも、迷惑かけてさ……ほんと、バカなんだよ、バカ」


 それからまたひときわ大きく息を吐くから、私はなんだか心配になって、彼女の顔を覗き込む。


「……嫌いなの? 兄さんのこと」


 私の言葉に吉見は立ち止まって私の顔をまともに見た。それから特に悩んだ様子もなく、


「好きとか嫌いとか、そんなんじゃなくない? きょうだいって」


 というから、私は彼女が次に何を言うのか気になった。だから彼女の顔をそのまままっすぐ見ていたんだけど、私があんまりにも見つめるから、ちょっとびっくりしている。それから私を置いて歩き出してしまうから、私も歩き出す。


「気がついたときにはいて、気がついたら一緒にでかくなってた、ってだけ」


「……そういうもの?」


「よそんちのことはしらね」


 吉見は寒さで赤くなっている耳をさすった。もう少しで私の部屋があるアパルトマンに着く。


「でも、うちはそう。あいつもきっとそう思ってるよ。あたしのこと」


 吉見の言葉はずうっとぶっきらぼうなままだ。妹がこんなんで、兄の方もうるさいから、会うたび吉見のふたりは大きな声で喧嘩しあってて、付き合わされた私はいっつもため息を吐くことになる。そして、吉見に会うたび私は、私にもきょうだいがいたらどうだったんだろうって、ふたりの喧嘩をずっと聞いていたいような聞いていたくないような、ちょっとむず痒い気持ちになるんだ。




 部屋の中に入ると、私はすぐにストーブの火を点けた。吉見は初めて来た私の部屋をぐるぐると見回して、それから窓に近づいた。そこからしばらく外を眺めていたあとで、振り返って


「いい部屋じゃん」


 とこちらに声を投げる。だから私はついつい笑顔になって


「ありがとう」


 と、お礼を言った。私の住む屋根裏部屋はあんまり広くないんだけど、窓からすぐ下の屋根の上に降りられる。冬になる前は何度かそこに出て本を読んだし、私の部屋はこのあたりじゃ一番高いところにあるらしくて、遠くの方まで屋根の平原が続いているのが見えるんだ。今じゃすっかりお気に入りの部屋。私は自分の首にかかった鎖と、その鎖の先に付いた自分の鍵が胸ポケットに入っているのを確かめた。


 ふた月前、私のお腹の中から出て来たあの「子供」の体の中に、私のその鍵はあった、らしい。らしいっていうのは、そう言う風に言って華屋のひとが鍵を渡して来たからだ。


「自分の部屋は自分で見つけるんだよ」


 と、透き通った声で言ったあの人の名前はたしか、枇杷、だったと思う。私のバイト先のカフェにも時々やって来る、たぶん、女のひと。かわいい靴を履いていたから、そうだと思うんだけど。でもどっちかよくわかんない。とにかく鍵をもらった私は、次の日にはその鍵を持って街の中を歩き回った。


「部屋なんか勝手に見つかるぜ」


 としか市井は言ってくれなかったし、私は半分くらい自暴自棄になって街をさまよっていたのだけれど、この部屋があるアパルトマンの前を通った時、なんとなく引き寄せられるようにして手をかけた鉄の玄関扉が、私に向かって不意にその鍵を開けたのだった。そして、ふらふら階段を上がってたどり着いて、開いたのがこの部屋の扉だった。


 吉見は読み物机の椅子に自分の上着をさっさとかけてしまって、ストーブの前で靴を脱いでいる。あんまりにもくつろいでいるけれど、びっくりするほど遠慮がないからなんならもう失礼にも思わなかった。私も上着を脱いでクローゼットの中にかける。あかくぼうっと火の灯るストーブに手をかざした吉見は、私の顔を振り返らないまま、


「最近なにかあった?」


 と、聞いて来た。


「……今日は迷子を外に送ったわ」


 茜に話せなかった私の冒険物語は、この時間にはもうだいぶしぼんでちゃちなものになっていた。


「迷子?」


「そう、はぐれちゃった子だったみたい。制服に追われてたのよ」


「制服に?」


 そこで吉見は私の方を振り返って、口をへの字に曲げている。


「なンか、ふた月前のあんたみたい……」


 と、そこまで言ってから、吉見は悪いことをしたような顔をして押し黙った。私たちの間で、私の両親のことは話さないことになっていたんだ。いつのまにか。そうだ、私がふたりの前で泣いちゃったことがあるからだと思う。


「……あの子のことはいいや。お父さんに会えたみたいだったし……」


 私はなんだか気まずくなって、ベッドの上に身を放り出した。あんまりやわらかくないスプリングが痛い。


「ん」


 とか吉見が私から目をそらして言うので、私は何か別のことを話そうと思った。何かあったかな。


「あ、そういえば、ね、」


 私は昨日の帰りのことを思い出していた。急に明るく弾んだ私の声に、吉見はこっちを振り返る。


「わ、わたし、」


 私はそれからベッドの横に立ち上がって、それから妙に気恥ずかしくなって、自分の背中を押すようにはっきりと声を出す。


「恋、したかも」


「こい」


 それから吉見はストーブの前であぐらをかいた。聞いてやるよって感じの顔をしている。


「わかんない、わかんないわよ?」


 私はいてもたってもいられなくなって、ベッドの上に登った。


「わかんないけど、なんかそんな感じ! なの!」


 それから私は短いベッドの上を右に行ったり左に行ったりし始める。


「きのう、なんだけど、急にね、そんな感じがしたの。ううん、恋じゃないかもしれないんだけど、こう、とにかく、なんかね、どうしたらいいのかわかんないのよ、わたし!」


 それから私は、ひとに向かってこんなことを話しているのがものすごく恥ずかしいことのような気がしてきて、落ち着かなくてベッドの上でぴょんぴょん跳ねてみる。


「話すんじゃなかった!」


 もしも隣にひとが住んでたら苦情が来るんじゃないかなっていうくらい、私の声は大きくなっていた。だからもうどうしようもない気がして、自分の顔を覆って私はベッドの上で丸まった。それからそおっと手を外して、ぼんやり窓の外を見た。


「わかんないけど、すごく……恋って」


 その先に私は何か言おうとしたんだけれど、胸がぐうっと苦しくなって言葉をなくしてしまった。それから気を取り直して、何か喋ろうとするけれど、言葉がもつれる感じがする。


「きのう……ほんとは昨日始まったんじゃないのかもしれないけど、ううん……私にとっては昨日始まったの……その、だから、始まった、ばっかりなんだけど……」


 そこで私の言葉は打ち止めになってしまったんだけれど、吉見はそれをずっと静かに聞いていた。ストーブの火が燃える音がする。窓が風にがたがた揺れるのが聞こえる。靴を脱いだ足が、なんだかすごく寒い気がしていた。


「あたしも好きだよ」


 私の不意を突くようにして聞こえたその言葉に、私はぱっと起き上がって彼女のほうを振り返った。相変わらずストーブの前であぐらをかいたままの格好で、吉見は赤くなった私の顔を見ていた。吉見のちょっと切なそうなその顔は、それまで見て来た中でいちばん、女の子って感じがした。


「好きだよ、ひとを、好きになるの」


 吉見の言ったその言葉がなんだかものすごく胸にじいんとして、私は何も言えずに彼女の少しはにかんだ顔を見つめていた。続きを話して欲しかった。だから、彼女は続けてくれた。


「そいつがいるだけで世界が明るくなってさあ」


 ぽつぽつと、吉見は話した。


「世界の中心がそいつみたいな気がしてきて」


 私はベッドの上に座って、両手で口元を覆って彼女の言葉の続きを聞いている。


「それで、そうやって、自分の全部が、そいつに引っ張られて行くみたいなのがさ、それが、幸せなんだ」


 私がほう、とため息をついた音が、部屋の端っこの方に消えて行った。


「あたし」


 吉見の優しい声はなんだか聴き心地が良くて、私は話し続ける彼女のちょっと恥ずかしそうな顔に見入った。


「あたしが今まで愛されてきたみたいにさ、あたしも誰かのことを愛せるんだとしたら、それって……」


 うつむいていた吉見はそこで一度目を上げて私の顔を見て、それから急に目をそらす。


「……なンか、うまくいえない」


 それからはいつものむっつりした顔に戻ったけれど、彼女の耳はちょっと赤いままだった。吉見はそれから思い切ったように立ち上がって、私の座るベッドのほうにやって来ると、ぶすっとした顔で私の隣に座る。私がついついにやっとしたままの顔でその横顔を見ていると、吉見はそれからばたんとベットの上につっぷした。それから布団の上に伏せてもごもごした声で


「あたしもう寝る。起きたらあいつを探しにいく。きっとまた、きったない道の上でぶっ倒れてるからさ」


 それからほんとに眠ってしまったのかどうかはわからないけど、吉見はうんともすんとも言わなくなったから、私は彼女の頭の後ろに向かって


「おやすみ」


 とだけ、言っておいた。






 知らない方がいい、というのは事実だ。ふらふらと人気のない街の中を這い回りながら、俺はぼうっとさっきのことを思い出していた。暴かれた枇杷の足の間にあったのは、見たことのないものだった。あれは、男でも女でもなかった。それだけ。そして、それがわかっただけで俺には十分だった。これ以上、何も、あいつに踏み込んではいけない。


 あの薄暗い続き間の奥の奥、ベッドの上にちらりと見えた、銀色の髪、白い腕、仄かに漂う薔薇の花の匂い。あれはきっと、俺が見てはならないものだった。あれが、奴の秘密。


 俺はどっとため息をつく。とてもじゃないが枇杷と顔を合わせる気にならない。そして、茜にも。なんて面倒な、そして、俺はなんてばかばっかやってるんだ。俺から目を逸らして、非人間、と自称した彼女の苦々しい顔を、俺はもう忘れたかった。いや、どうも今日の俺は辛気臭くていけない。なんでこんな心持ちなんだ? いつもは、何が何だかわからないまま、なんとなく楽しくて、馬鹿らしくて、愉快でたまらないのに、どうして、今日は。


 石畳に落ちるぼうっとした影の中に浮かぶのは、例の朱色だ。そうだ、昨日は部屋に戻らずに「普通に」眠ったんだ。いつぶりかしれない。道理で、頭がいつも以上に冴えている。ひどくメランコリーで悲観的な風に。だが、こんな寒空の下悲しんでいたって、寝床は探さなきゃならない。真木のところにでも行くか。あいつは俺を追いだしやしないだろう。あいつは俺を好きでも嫌いでもない。根本的に俺に興味がない。それは茜も同じことか。


 ──いや、同じだろうか? そのとき、ふっとそういった類の疑問が俺の中にざわりと浮かび上がった。俺は自分の呼気が白くたなびく先をぼうっと見ている。彼女は俺そのものに興味は一切ないのだろうか。一切? 何も?


 そのとき俺が思い出したのは、彼女に初めて会ったあの晩の光景だった。酩酊して溶け込んだ世界の中で、確かに俺の耳に届いた彼女の声、言葉。たったひとつの、しかしはっきり俺の脳の端に釘のように刺さったままのフレーズ。震える吐息の唇。


「ごめんね」


 俺の記憶の中の彼女の像が、そのときにわかにゆらぎ始めた。ベッドの上に腰掛ける、女。黒い髪の下の、歪められた目元。それは、 それは?


「……誰だ?」


 俺の口が気の抜けたように薄く開いたとき、背後に何かがどさりと落ちる音がした。首を回した俺の目に順々に映り込む、配管のへばりついた鈍色のコンクリート壁、月の光が落とす、真っ黒な影の葉脈、薄汚れた石畳──そこには。


 一冊の本が、色味のない路地の上に落ちていた。それは、忽然とそこに姿を現したのだとしか思えないほどに、その風景の中で間違いなく異質だった。闇夜の中に浮かび上がる、皮で丹念に装丁を施された旧時代的な形式のその本は、そこに黙って佇みながら、しかし確実にこの俺を「見ている」ようだった。俺は瞬時に壁伝いの空を見上げ、黒い路地の中に走る、くすんだ群青の夜空を両の眼に、捉えようとした、が。俺が思わず顔を歪めたのは、本の土砂が俺の頭上数メートルに迫っていたからだ。俺の視界に雪崩かかる黒い影の群れに、俺は次の瞬間には必死に両腕で頭を覆い、ぐっと目を瞑った。


 腕に落ちる激痛を覚悟していた俺は、依然として何の痛みもない無音の夜の中で慎重に目を開いた。腕の隙間に見えたのは、色味のない薄暗い路地ではなくて、なぜか、ほのあかるい橙の光だった。驚くままに腕を下ろすと、俺はそびえ立つ本棚に両側を挟まれていた。ぶわりと香る古い紙の匂い。俺は息が止まるような心地がして、必死に首を回して自分の居場所を確かめようとする。目の先には、俺のすぐ横にあるのと同様の本棚が、かすむほど遠くまで延々と続いていた。まるで本の街だ。そのとき寒い冬の風が俺の足元に吹き付け、がたがたと揺れる窓の音につられるままぐっと首を上に向ければ、窓枠が張り巡らされたガラスの天井の奥に満天の星空が広がり、その下にかかるランタンの火の色があちこちで燃えて本の街に柔らかい明かりを投げかけていた。あまりに美しいその光景に、俺は息を飲む。いったいここがどこなのかなんていう疑問がどうだってよくなるくらいに、その光景は悲しくなるほど美しかった。






 吉見がいるせいで狭くなったベッドに横たわって、私は衛のことや、今日あった女の子のことや、怒っているかもしれない茜のことを考えた。それから、昨日、かつかつハイヒールを鳴らしながらカフェから出ていった、あのひとのことも考えた。吉見の寝息がすぐそばから聞こえてきて、私はなんだか安心してしまう。


 あのひとも、恋をするんだろうか。






「言葉はひととひとを繋ぐ媒介だ。言葉に触れるとき、我々は常に言葉以上のものをそこに見出すだろう。そうだ。我々は、言葉の先にあるものをこそ、捉えなければならない」


 僕は横に広げたトレーの上のソーサーにティーカップを返す。そうすると、書架の下から彼女がこちらを見上げているのがわかったから、僕は、ごちそうさま、と声をかけた。おかわりは? と彼女が言うから、僕はいいえもう結構とそれだけ返す。それから、微笑む彼女の目をまじまじと見つめてみた。


「……君は『これ』で満足なんだろう」


 僕のその言葉に彼女は少し肩をすくめてはにかんでから、


「ええ、これできっと、全部うまくいくはずです」


 と、はきはきと答えた。


「信じるよ」


 彼女がこの仕組みを変えるって言うんなら、それはほんとうに変わるってことなんだから、僕はただそれに従うだけだ。僕は、世界の手足にすぎない。誰だって光を求めて生きるのだ。僕だって同じこと。


 そうだ。悪いけれど、今夜の話はこれでおしまい。あなたとはまた次の晩に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ