第十七話 月の臘極やんやの幕上げ
男は女のうなじに額を押し当て、息を殺して泣いている。
自分が目の前の女を抱きしめるだけの器がないことを彼はよく知っていたので、不意をついて自己満足のまま彼女に「無償の愛」を押し付けることなど彼はしまいと思っていた。
女は男の押し消えぬすすり泣きを心底鬱陶しいと思っていた。
自分の本当の痛みなど分かりもしないお節介焼きで恩着せがましいだけのこの男が、彼女以上に彼女の痛みを肥大化して好き好み浸り嗜んでいることが、彼女にはどうにも耐えられないのだった。
二人は常からそうだった。男は独りよがりで押し付けがましく、女は意地っ張りで人嫌い。ふたりの心情はいつも歪な土台の上にあった。それは、ちょっとやそっとでは覆りようのないことだった。
それでも男はとうとう女の背中に触れ、涙に濡れた唇でその肌に、口付けた。
ここから先の進行を彼らに譲る前に、僕から少しご案内を差し上げよう。まあ、僕のことをそう面倒臭がらないでくださいよ。僕の話を聞かないと、多分ですけど、少々困ることになりますよ。
では、了承をいただいたことにして、まずはお話の舞台について説明しよう。前話までに彼やら彼女やらが恋や愛やになんのかんのしていた間も、掃き溜めは動き続けていた。少女が赤子を産み落とし、そして五十余の晩が過ぎ、あなたが彼らとともに走り抜けたあのいくつかの夜は、もうふた月と幾らも前のこと。季節は秋を吹き飛ばし、掃き溜めは師走の凍える空気に張り詰めている。
もしかして、僕があなたへの説明をはしょっているとお思いだろうか。けれど、何も起こらなかった時間についてまで語っていたら、どうなります? そう、このふた月と少しばかりの間、掃き溜めでは大したことは何一つ起こらなかった。いつも通りに二度とりものが行われ、あなたに伝えるべき死などもありません。ただし、少々の変化はあるんだな。ふた月もあったんだから。
あなたの愛しいおてんば娘はあなたの思う以上に世渡り上手で、利益関係を新たに幾つも結んだばかりか、働き口まで見つけたようだ。そして、きっとあなたの良き友人である無鉄砲な彼のほうはといえば、人間関係は二進も三進もいっていないようだが、まあ、これはあなたにとってはわかりやすいから良いね。まあ、こんなところだ。
それと、あなたはきっと察しの良いひとだろうから曖昧にするのはやめておくけれど──そう、これからきっと何かが起こるはずだと、僕は予感しているんだ。勘が外れた時には謝るさ。でもまあ、僕のことをそろそろ信用してほしいですね。僕はあなたのことを友人のひとりに数えようと思ってるんだから。
じゃあ、退屈な前置きはこれまでだ! 話が話を連れて来るままに。それじゃ、幸運を!
からからからからと鳴るのは、俺の足と数十歩先を走る娘の足が瓦屋根を叩く音だ。そう、俺は今、月光にさらされて黒く煌めく瓦の平原で、もっぱら「暇つぶし」の真っ最中ってわけだ。──と、娘の灰色の髪が揺らいで目の前から消えた。あんちくしょう、下に降りやがったな。面白いことしやがって。続いて俺も次に俺の足元に開いた真っ黒な路地に降り──と思ったところで、俺は振り向きざま瞬時に刃を振り向けた。たしかな、肉の感触。
「っ……」
男が口から漏らす硬い音が俺の耳に届く。路地裏に降り立った俺は、今しがた俺が飛び降りて来た屋根の軒下に、グレーの髪色の男がぶら下がっているのを認めた。片腕で身体を支えながら、俺に腱を切られたもう片腕からは血がしたたっている。最初からここで俺の不意をつくつもりだったらしい。垂れ下がったほうの拳には拳鍔がはまっているが、もうその腕自体が使い物にならないだろう。
「おい、降りてこいよ」
と、声をかける俺に、吉見は
「お断り」
と言ってにっと口元を歪めて笑った。
俺は妹の方の気配を探すが、もうだいぶ遠くに逃げちまったらしい。毎度のことだが、いつもあいつにはうまく逃げられる。いや、違うな。
そのとき吉見の眉が思わずと言った様子で上がり、奴の指がすべってその体はそのまま路地裏に落下した。俺はいつも通りのくだらない三文芝居に嫌気が差す。
こいつは、俺に目をつけられてこの「暇つぶし」に付き合わされるとき、いつもなんとかして妹のほうを俺から「逃がす」のだ。俺は、腕を抑えてじっと「待っている」奴の方にゆっくりと近づいて行った。
「いい兄貴だな」
「ほんとにいい兄貴なら、妹をこんなとこに住まわせたりしねえよ」
俺は鼻でひとつ笑ってから、奴に見せびらかすように刀を握り直した。この「暇つぶし」が何度目だろうが、奴は刀の白銀に、やはり一度はその目に恐怖を滲ませる。それがほんの一瞬なのは、こいつにも「男の意地」みたいなものがあるからなんだろうな。だが、やはりこの瞬間が俺にとってはいっとう楽しい。報われる、ってやつだ。
「まあ、屋根の下で俺を本気で殺そうとしたのは、いつもよりは面白かったぜ。首がついたらまた遊ぼうな」
俺は刀を振り上げる。それからこの無益な「暇つぶし」が早く終わることを願ってぐっと目をつむる吉見の首を、はねた。
「なんでお前がここにいる?」
起き抜けで目つきの悪い目をますます歪めた市井は、寝癖のついた頭を不恰好にぼりぼり掻いている。不潔だわ。それに、ここに遊びにくるのなんて最近じゃ珍しくもないのに、いちいちこんなこと言って来るんだもの。嫌になっちゃう。
卵焼きを綺麗にひっくり返すみなみちゃんの横で、私は当たり前だけどつっけんどんに声を出す。
「私は『みなみちゃんの部屋』に遊びにきたの。それなのに『あんたに』許可を取らないといけないの? あんたってここの部屋の王様なわけ? あんたが作った法律があるの? あんたが私を牢屋に放り込めるって──」
「ええい、もうどうでもいいから黙れ! お前の声、きんきん響いて頭が割れそうだ! くそ、余計なおしゃべりばっかり覚えやがって……」
「お話が得意な方がいいのよ? 特に接客業じゃ、ね」
ふふんと鼻を鳴らしてみる私に、市井はますます目を細める。そのまま目が消えちゃいそう。市井はそれから、はあ、とため息をついて、ごはんの用意がされたちゃぶ台におとなしく座った。それから、おい、と私に声をかける。
「ふたりぶんしかないぞ」
ちゃぶ台の上に並んでいるのは市井が言った通り確かにふたりぶんの食事の用意だった。市井の頭の中では、市井と、みなみちゃんと、それから私の三人がちゃんと数えられているみたいだった。案外丁寧ね。
「私もう食べちゃったの。これからすぐ茜ちゃんのとこでバイトだから!」
「茜……『ちゃん』ん?」
忌々しそうに私の言葉を繰り返した市井のことを無視して、私はみなみちゃんに手を振って玄関に向かった。みなみちゃんははっとしてから私にわたわたと手を振り返す。この子が市井じゃなくて私の妹だったらいいのに。私は慌ただしくハイヒールをつっかけてドアを思いっきり開ける。
「じゃ!」
華屋に吉見の血を被ったまま帰って来た俺に、真木はうっとうしそうにため息をついて、風呂に入れと低い声で言った。風呂上がりに部屋で着替えていると、茜も部屋の中でぐったりと窓辺の肘掛け椅子にもたれて船を漕いでいた。これから、華屋の連中で集まって「夕食」だ。まあ、もう真夜中なわけだが。
「茜、飯だって」
俺がそう声をかけるが、茜はまつ毛の下で薄く目を開けて、
「後から行く」
と眠たそうにそのまま呟いた。
階段を下ってダイニングに入ると、すでに真木と椿と枇杷が食卓について待っていた。
「やーっと来た」
と、俺にはにかんで見せる枇杷は、おなかすいた、などと子供のような声を出す。このあたりは本気で言っているのかもしれない。
それから俺が席に着くと、全員が粛々と手を合わせ、
「いただきます」
と馬鹿丁寧に挨拶をして食事が始まった。いつもこうだ。
「高峯さんはいないわけ?」
という俺の声に、椿はもごもごとパンを口に含んだまま、
「今日はいないわ」
とだけ、目もあげないで俺に言う。ふうん、と声を漏らした俺は、自分のパンにとりかかる。高峯がいることはまちまちで、食事は大抵俺を含めたこの四人だった。そう、茜はいつもこの食卓には来ない。さっきのように、「後で行く」とか俺には返すが、このダイニングで茜を見たことはない。そもそも俺は、彼女の「食事」というものを、今まで一度も見たことがないな。彼女が食事の席に現れないことを、こいつらは一切咎めない……。
華屋の他の連中は「あえて」茜の食事に触れないのか……? 俺はそう思い至って、それに思い切り好奇心を駆り立てられるのを感じた。なぜみんなが揃ってそれを隠し通す? 話題にするのを避け、押し殺す?
俺は脳みその中で筋道立てて考えながら、目の前のキッシュにフォークを突き立てる。隠すからには理由があるのだ。知られたくない後ろめたさがあるのだ。それは、何か。
俺が一度も食事を見たことがないのだから、俺が彼女のそばにいない時、彼女は食事をとっているのだ。そして、その「俺の不在」は、「俺が食事をしている時」で、十中八九間違いなかった。
几帳面な彼女が起き抜けも、妙にベッドから出たがらないと思っていたが、彼女は「起きられない」のではなくて、食事に立つ俺がいなくなるのを「待っている」のだ。そうでなければ、俺だって一度くらい彼女の「食事」に立ち会うはず。彼女はそうさせないで、俺の目に届かないところでその「こと」をきっちりと、綿密な計画を立てて遂行している。念入りなプランと実行だ。
ああ、ますます暴かずにはいられないじゃないか、君の秘密を。
「なあ」
俺の出した声にここの連中は基本的には興味を示さないのだけど、真木がなんとか視線をこちらに寄越した。
「なんか骨がのどにひっかかってさ、鏡で見て来てもいいか?」
真木はすぐに目を落とした。
「俺の許可なく便所に行っちゃいけないなんて、俺がお前に教えたことがあったか?」
便所なんて言うのやめて、とか椿が喚いているのを他所に、俺は安心して席を立った。それから便所の先にある階段を忍び足で登って、ゆっくりと俺たちの寝室に近づいて行った。彼女の食事が一体どこで行われているかは知らないが、まあここから当たるのが無難だろう。──と、やはり寝室の中から物音がする。事件は案外早いところで解決するらしい。
これはもう強行突破だな。俺がドアを開けて容疑者を確保するまでの間には、もう相手は逃げようがない。速やかに奴さんを確保せねば。ドアに耳を押し付けて、彼女の気配を探る。俺には気づいてないな。完璧だ。俺はドアノブに慎重に手を滑らせて、一度ゆっくりと時間をかけて息を吸い、吐いて、一気に、開けた。
茜はそこにいた。心底驚いた、という様子を隠せもしない彼女がこちらを向いた時、ごんと音がして、その音の先を辿れば、そこにはサイドテーブルから滑り落ちたらしいガラスのコップと、そこから床にひろがってしみを作る水が見える。はっとした彼女が立ち上がったのに俺の体が追いついた。彼女が何かを隠そうとしたのが見えたから、俺は彼女自身にできるだけ目をやらないようにして、できるだけ優しくベッドの上に転がしてやる。それから一気に彼女が隠そうとしたそれに飛びついた。乱暴に俺が伸ばした手が弾いたのは、乳白色の小皿だった。それがサイドテーブルからガラスのコップを後追いするように落ちて、その中身が床の上でぱらぱらと何か軽い音を立てる。床に散らばったのは形状も様々な錠剤だった。
「え、なにこれ」
そう言う俺の背中に、着替え途中だったらしい茜は掴みかかったが、俺がその腕をぐっとひねり上げるとそれ以上どうもできないらしかった。慌てすぎてお得意の朱色の睨みを効かせるのを忘れているらしい。
「物を食う代わりにこれを飲んでるってわけ?」
俺が落ちた錠剤のひとつをつまみ上げてじろじろ眺めると、それはビタミン剤だった。俺の手を振りほどこうと茜が暴れている。だが、俺はそれどころではなかった。指の先で錠剤を撫でながら、俺は茜を振り返る。
「なあ、俺わかんないけど、これって『異常』だぜ。……こんな食事……いや、これって食事か……?」
俺がそう言ったとき、茜がぴたりと暴れるのをやめた。
「なんていうかさ、非人間的だ、これ」
そこまで言った俺は、空気がぴりついているのに気がついて、恐る恐る茜の顔を覗き込んだ。
「非人間? そうよ。非人間だもの。私はあんたみたいな食事なんてしない」
彼女の声ははっきりと冷たかった。
「ねえ、満足でしょ。私の無様な格好を見て」
伏し目の茜は、俺のことを見てもいない。ただ淡々と言葉を吐き続ける。
「そう、私は食べたものの味もわからない、人の気持ちだって分からないような味気ない冷たい女よ。そうね、悪かったね」
俺が彼女の腕を離すと、その腕はだらりと落ちた。俺はここにきてようやっと気がついたんだ。彼女の「異常な」食事のその「異常さ」を、彼女自身がよく知っていること。むしろ、誰よりもそうわかっていて、それでも彼女はその方法を選んでいること。彼女のその「習慣」に、ここのやつらは、あえて一切触れないでいること。
「出て行って。……もう顔も見たくない」
言葉通り俺に目も向けない彼女に、俺は言葉を失った。言うべきことなんてなかった。俺はその時、彼女の言う通りに部屋を出る以外の選択肢がなかったんだ。
「馬鹿だなあ」
食卓に再び下りた俺に、にっこりと笑った枇杷がそう言い放つ。俺は言い返せもしなくて目をそらした。椿もけらけら可笑しそうに笑っている。奴らは三人とも、俺の「長い便所」の間に食事を終わらせてしまっていた。かといって俺ももうあんまり食べる気もないが。
「謝ってきたらどうだ」
と、真木が席を立ちながら言うが、俺はかぶりをふる。
「しばらく顔を見るのがこわい……」
「あの子、すっごい根に持つから、覚えときなよ」
と、椿はひいひい息を吸いながら言う。
椿が面白がって尚も馬鹿みたいに笑っているのに耐えられず、俺はダイニングを出ることにした。かといって別に行くところもない。外の空気が吸いたかった。とにかくこの食卓の息の詰まる気分の悪さから早いところ逃げ出したい。そうして俺が戸口を出るとき、枇杷の声が確かに俺の背中に届いた。
「ここでは誰にも踏み込まないことだ。誰にだって、知られたくないことがあるんだからさ」
「はあ」
お店の片付けが終わったカフェで、売り上げの整理をしている茜の横に私は腰掛ける。
「まだ終わらない?」
お客さんのいなくなったお店で、茜が仕事を全部終えるまでくっついているのが私の習慣になっていた。疲れてるけど、この時間はなんとなく寂しいから誰かのそばにいたいんだ。正直に言っちゃえばね。
「もう帰っていいよ。おつかれさま」
と、茜はそっけない。
「つめたーい」
「……私は冷たい女なの」
と、返す茜は、やっぱり今日はなんだかイラついてるみたいだった。嫌なことあったのかな。まあ多分あのひとだろうな。
「いい、待ってる」
私がそうして机にだらりと頭を預ける。そうすると花の形をした電灯が天井にくっついているのが見えた。この街に来たばかりの時も、茜に会うためにここのカフェに来たっけ……。あのときは私、なんにも知らなかったな。ここで働くなんて思ってもなかったし、茜が私に同情して雇ってくれるとも思ってなかった。冷たい顔してるけど、このひと結構優しい。ペンを走らせて伝票とにらめっこしている茜の顔を見つめていると、急に慌ただしくドアのベルが鳴る音がした。ウェイトレスの仕事に慣れすぎた私が、ばっと顔をあげてドアのほうを確かめると、娼婦の椿が殺気立った様子でハイヒールのかかとを鳴らしながらこっちにずんずん歩いて来るところだった。
「はぁもう疲れちゃった! あのオヤジほんとむっかつく!」
それから椿はばしーんと音を立てて、きらきらしたお飾りのバッグを私たちの座るテーブルに叩きつけた。それから乱暴に椅子に腰を下ろすと、私をぐっと睨む。
「ねえ、ブス、あたしにお茶を持ってきて」
私は椿の剣幕に目をぱちくりと瞬かせ、しばらくしてからやっと口を開いた。
「わたし? 私に話しかけてるの?」
椿は私の言葉に思いっきり片眉を吊り上げる。
「あんた以外いないでしょ。なにぼーっとしてんの? 早くして」
椿の声の大きさにびくびくしながら、私の中には小さな怒りが生まれていた。
「もうお仕事の時間、終わってるもの……私がすることじゃないわ」
私がそう言ったのを椿は気に入らなかったようで、彼女は露骨に口をわななかせる。と、茜は私たちのやりとりをしっかり見ていたみたいだった。
「いい……私が持ってくる」
と言って、茜が立ち上がろうとしたとき、椿がすぐさま声を上げた。
「はぁ? 『店員が』お茶持ってくるのが当たり前でしょ? だめよ。茜、あんたが行っちゃだめ。こいつに行かせて」
そう言いながら私から目を離さない椿に、私はしょうがなく席を立った。
キッチンのほうに向かう私の背中に、椿ではなくて茜の声が、
「コーヒーね、ミルクだけ。砂糖はいらない」
と、聞こえた。
悔しい気持ちでいっぱいで私がコーヒーを淹れて帰って来ると、椿の声が相変わらずきんきん響いていた。
「あんたさ、グラスの運び方だけ教えてどうすんの? ここじゃ、他人に媚びを売れない女なんてすぐにでもおっ死ぬわ。あんたってさあ、なんでもかんでも飼い殺しよね」
茜に向かって怒鳴っていた椿は、私のことなんかもう忘れてしまっていたらしくて、コーヒーを運んで来た私を、ああ、いたの、なんて言いたげな目で一瞥する。それから急に気が抜けてしまったように冷たい目をして、あまりにもあっさりと席を立った。
「いい、もうお茶なんか要らないわ。あんたが淹れたのなんて飲みたくない」
それから呆気にとられている私をほっといて、またかつかつハイヒールを鳴らしてカフェを出て行ってしまった。
「それ、あんたが飲んじゃって」
嵐のように去って行った椿に、茜はもう慣れっこれしくて、彼女は私に椅子を引いて座るように促した。
私はお盆をそのままテーブルの上に置いて、ソーサーごとコーヒーを引き寄せる。それからむっとしたままコーヒーに口をつけた。あったかくて香ばしいのに、なんだかすごく不味かった。
「私、あのひと……きらい」
今更目にじんわりと涙が滲んで来る。「きらい」と呟いてから、ますます泣きたくなった。
茜は私の目をじいっと見て、それからまた伏して紙にペンを滑らせ始める。私は涙まで飲み込むように、温かいコーヒーを口の中に流し込む。そうすると、茜がゆっくり話し始めた。
「……あの子ね、背中やももの裏にたくさん火傷があるの。何でかわかる? 酷い客がさ、面白がってあの子の背中に煙草を押し付けるんだ。あの子、熱いのがわかんないの。冷たいのもそうだけど……。だから、最初は、煙草が押し付けられてるんだって気づかないのよ。背中に何か、触れてるなって、そのくらいなんでしょうね。だから、ひどい水ぶくれになるようにずっと、押し付けられて、きりきり痛んでくるまで気づかないのね。……あの子はそれを、背中の開いた服が着れなくなるってけらけら笑うんだ」
そこまで話した茜は、私になにか答えを求めるように目を向けた。朱色の瞳が、私の顔を覗き込む。私は、それがなんだかすごくいやで堪らなかった。
「……その話、私に何の関係があるの」
私は意地を張ってつっけんどんにそう言った。今は誰にも優しくしたくない気分だったの。私と茜しかいないカフェの中で、時計の針がこくこくと遠く鳴っている。すると茜はひとつ息を吸って私のことをもう一度はっきり見つめてから、
「ない」
と、ひどくこざっぱりとした調子で言った。
カフェを出て閑散とした街を華屋へと帰る椿に、後ろから声が響いた。グレーの眉をしかめる吉見の兄は、居心地悪そうにして椿が振り返るのを待っていた。首のあたりをさすっている。
「なあ、痛むのか」
と言って、吉見は自分の背中を、つまりは椿の背中の傷を指した。椿はうんざりとした様子で眉をひそめ、
「またその話?」
と声をひっくり返した。
「しつこい」
「……なあ、よくないと思うぜ、そうやって、自分を……」
もごもごと声を出す吉見を、椿はぎりっと睨みつけた。
「あのねえ、こんなのあたしの商売なのよ。商売、なの。不意を突かれて痛がったふりをすりゃあさ、あいつら喜ぶのよ。喜んで金を払ってくれるの。あたしは馬鹿を可愛がってあげてるの。わかる?」
そこまで一息で喋った椿は、自分が目の前の道化男にむきになっていることが急に恥ずかしいことのように思え出した。それからゆっくりと夜の空気を吸って胸を落ち着かせようとするが、今度むきになったのは吉見のほうだった。いや、彼はむしろ、泣きそうに眉を寄せていた。
「これから痛めつけられるんだって、あんたがどれだけわかっていようが」
吉見はそこで息をひとつ吸って、ぐっと胸の奥の痛みに耐えながら言葉をつなげた。
「痛いことに、変わりはないんだろうが」
そう言ってから彼は自分の目頭が夜気の冷たさに反してほのかに熱くなっていくのを覚えていた。肺の震えを押し殺そうとする吉見のその立ち姿に、椿は強く辟易していた。それから彼女は唇を微かにひらく。
「消えて」
身を引き裂くように冷たく尖った椿の目元に、吉見はそのまま退きさがるしかなかった。彼女の言うとおりさっさと彼女に背を向け歩き出した吉見は、一度だけ振り返って、そっけなく向けられた彼女の背中のあまりの小ささに、悔しくて唇を噛みしめるのだった。
カフェを出てから私はぐるぐると茜や椿の顔を思い出していた。私はひとつも悪いことをしていないのに、ひどくひどく胸が痛くて、気分が悪かった。なにか楽しいことをしてさっきあったことを全部忘れたかったし、どうして自分がこんなもやもやした気持ちになっているのか知りたかった。
私はそうして、もうじき朝になる夜のままの通りを歩いてゆく。街の真ん中に向かって歩く私とは反対に、ここを出ていかなければならない帝都の「真人間」たちが私の横を通り過ぎていく。私は通り過ぎていくそのひとたちをひとりひとり見つめてみた。ぐったりとした背中を無理やり引っ立てられるようにして、濁った目をぼうっと見開いたまま、真人間たちはよろよろとよろめきながらその足を動かしている。一歩進むごとにがたりがたりと背中をゆらして、間抜けに開けっ放しの口からはよだれが垂れてしまっているひともいる。まるでひとの抜け殻だ、と言っていたのは、たぶん市井だ。
夜明け間際になるまでこの街に居残った真人間たちは、こうして自分の意識を失ったまま、「歩かされる」ように、まるで映画のゾンビみたいになって「自分の足で」この街を出て行く。何も見えていないような目をして、まるで洗脳された芋虫みたいに、お化けに取り憑かれたみたいに街の外へとよろよろ歩いて行く。二月も前なら私だってびっくりしたけれど、今はもう慣れっこだ。これって掃き溜めにとってはいつものこと。そういうゾンビたちの流れの中でいつのまにかぼうっと足を止めていた私は、通りの向こうに私と同じように立ち止まった人影がいるのに気がついた。バイトが終わったばかりでくたくたの私はぼうっとその人影を見ていて、それからそのひとがこちらを振り返った時に瞬いた紫色の目にどきっとした。まもるだった。
びっくりした自分を落ち着かせるように私はそのままじっとしていたのだけれど、私に気がついたまもるは、そのまま私に手招きしてみせた。私は戸惑ったけれど、まもるは優しく微笑んだままずっと私を手招きし続けている。私はそれから思い切って、よろめく人たちの波に逆らって、ゆっくり、ゆっくり、白い月の下を、まもるのところまで歩いて行った。まもるに追いつくと、まもるは取り出した手帳にぐいぐいと急いで文字を書いた。走り書きの、角ばってくちゃくちゃした文字。
仕事は終わったの?
私がこくんと頷くと、まもるは嬉しそうに目をぱちりと瞬いて、それから、じゃあ、というように私に手を差し出した。私がびっくりしているとまもるは私の戸惑いに気づいたらしくて、手を下ろしてから、ついておいで、と言うふうに私に目配せして歩き出した。私はよくわからないまままもるの背中を追った。
まもるが向かっているのは町の中心みたいだった。よろよろ不気味に歩く外の真人間たちの数は減っていく。しばらく歩いて行くと、とうとう道の上にいるのは私とまもるのふたりだけになった。どこまでいくんだろう、と私がまもるの様子を伺っていたとき、まもるが不意に立ち止まる。そこは下っていく坂の上だった。石畳の青い夜の景色に、電灯が通りの先までずうっと続いている。そのとき、私たちの歩いて来た通りの明かりがぽつりぽつりと消え出した。この時間にはこの街に残っているのはひとでなしだけになるから、街灯はほとんど消えてしまうんだ。そのときまもるが私の肩をやさしく叩いて、私ははっとして彼の方を見遣った。するとまもるは、はにかんだまま自分の目を覆う動作をしてみせる。彼が何を言いたいのかわからなくて首をかしげると、まもるは私に半歩近づいて、ゆっくり、右手で私の目を覆った。
びっくりしたけれど、声を上げるほどではなくて、私は背中を強張らせたまま、きょとんとしたまま立っていた。目を覆われているから、当たり前だけど、真っ暗で何も見えない。そのまままもるはじっと私の目を覆ったままでいる。なにが起こっているのかよくわかんない。すぐそばにいるまもるが笑っているのがなんとなくわかる。私はうまく息をできないまま、まもるの手は大きいな、と思った。
それから急に覆いを解かれて、私はとにかく必死にまもるの顔を見た。やっぱり笑っていた。それからまもるは、私の肩に手を添えて、下り坂のほうを向かせた。そうして、私はやっと全部がわかったんだ。
街灯がすっかり消えてしまった景色の中で、私たちの先に下っていく坂の両脇の柊の花が、暗闇に慣れた私の視界の中で、白くぼうっと浮かんで花開いていた。ずうっと続いていく通りの両側から、その色は月の光を跳ね返して、きらきらたしかに私の目に届く。私は思わず息を飲んだ。ずっとネオンの強い光に蓋をされて、見えていなかったその儚い花の色が、すごくすごく綺麗に見える。しばらくその景色に目を奪われていた私は、はっとしてまもるを振り返った。まもるは、私に肩をすくめて笑う。彼は星を背負っている。
そのとき初めて気づいたの。
私、恋をしたことがなかったんだ。
また夜がやってくる。月の光がさす夕方四時半の屋根裏部屋。私はベッドでまどろんでいた。昨日、まもると見たあの柊の白い色は夢じゃない。そもそも私、夢を見ないけれど。
ここに来て二月は経ったけれど、私が眠れたことは一度もない。疲れもする、ぐったりと眠りたいとは思うけれど、ほんとうに眠れはしない。ほかのひとでなしたちとおなじような時間にベッドに潜り込み、ゆっくりと念じながら目を閉じる。けれど、頭のどこかは絶対にいつも起きていて、吹き込んで来る風のひやっとしたつめたさや、布団の生地のすこしざらついた感じや、床板の湿った匂いや、通りのどこからか聞こえて来る夜の音を、いつも私は知っていた。ここに来てからずっと、私にとって夜は昼と同じかそれよりもずっと長くて、辛くて冷たくて寂しいものだった。けれど、今日だけは別だった。
昨日の続きのままの私は、しろっぽく照らされたまもるの顔をそのまま覚えていた。にこっとどこか気恥ずかしそうにあがるほっぺを、そう、そのまま。
なんだか心が弾むのにむず痒くて、私はひとりぼっちのベッドの上でふふ、と笑って見せた。それから弾みをつけて起き上がって、よし、と声を出してから寝巻きを着替えることにした。
外の人たちが入り始めた表通りは、ネオンの光がいつもよりきらきら輝いて見える。いつもとは違ってもっと優しい色、な気がする。私は息が弾んでしまう自分に気がついて、それから、これからお仕事なんだから、と頭を切り替える。ミスをしたら茜は怒るわ。まあ、そんなに怖くないけど。
私はふわふわした気持ちのまま、カフェに向かうために、人波を縫うようにして角を曲がる──そのとき、背中から私の腰に、どん、と何かがぶつかった。びっくりしたまま振り返ると、高くて幼い声が下の方から響く。
「たすけて……! わたし、追いかけられてるの!」
そう言って私の腰に必死で縋り付いたのは、まだ十にもならないような、冬の色を映したような瞳をした女の子だった。




