第32話:デバッグ領域の「壁」あるいは神の設計図
カイとの並走が始まってから、数時間が経過した。
デバッグ領域である灰色の荒野は、時折、空間のテクスチャが反転し、重力が上下左右に入れ替わる理不尽な場所だ。
しかし、俺にとっては「重力ベクトルが書き換わっただけ」の計算式に過ぎない。
カイもまた、初期装備という極限状態に身体を慣らし、俺の歩調に完璧にシンクロして歩いている。
「ナナシ。……あそこを見ろ」
カイが指差した先には、運営のデバッグエリアを囲うはずの「世界の終わり(ワールド・ボーダー)」があった。
本来なら、触れた瞬間に強制ログアウトさせられる赤い光の壁。
だが、今の俺たちの目の前にあるそれは、システムエラーを起こして半分が消失し、内部のプログラムが剥き出しになっていた。
「これが『運営が隠したかった裏側』か……」
壁の向こう側には、まだ実装されていないはずのエリアの「生データ」が、断片的な3Dモデルとして浮遊しているのが見えた。
本来、プレイヤーが到達してはいけない、未完成の「神の設計図」だ。
「ここを通るには、赤い光の当たり判定を『0』に書き換える必要がある。……あんたなら、できるか?」
カイの問いに、俺は無言で木の棒を掲げた。
「物理的な耐久値を無視して殴れるなら、プログラム上の論理判定も叩き壊せる。……当たり判定は、ただの『真(True)』か『偽(False)』の分岐に過ぎないからな」
俺は光の壁に接近し、最もデータ密度が高い「論理演算の中枢」と思われる座標を特定した。
計算時間は0.01秒。
俺は全身のバネを使い、一点に集中した最短距離の突きを放つ。
『パァァァァンッッ!!!』
金属でも、モンスターでもない。
「存在」を殴りつけた衝撃音が、デバッグ領域に響き渡った。
『ピコン!』
《警告:論理判定が喪失しました》
《エラー:境界線の判定が【無効化】されました》
赤い光の壁が、ひび割れたガラスのように砕け散る。
境界線を越えた先には、一面の真っ白な空間――プログラムの海が広がっていた。
「……信じられない。本当にこじ開けたか」
カイが呆然と呟く。
俺たちは、運営すら立ち入れない「開発者専用のサーバー内部」へと足を踏み入れた。
そこには、無数の「浮遊する光の粒子」があった。
それは、ゲーム内のあらゆるアイテム、NPCの行動パターン、天候の管理データ……この世界を構成するすべての「ソースコードの断片」だった。
「ナナシ、あれを見ろ。あれは……『アイテムのドロップ率設定』か?」
カイが指差した先には、ゲーム内の激レアアイテムを制御する数式が、まるでホログラムのように浮かんでいる。
その数値をいじれば、どんな低確率なレアアイテムも100%でドロップさせることができる。
あるいは、街の入市税を0にしたり、無料の黒パンの配布回数を無限に増やすこともできるだろう。
しかし、俺はそれらの光の粒子を、興味なさそうに通り過ぎた。
「……無駄だ。数値をいじればシステムが改変され、世界が再構成される。再構成にはロード時間(待ち時間)が発生するし、何より、そんなものに頼ったら『俺自身の移動効率』の計測が狂う」
「……あんた、本当にブレないな」
カイは苦笑しつつも、俺の隣で足並みを揃える。
俺たちの目的は、このゲームの全能になることじゃない。
この不完全で、効率の悪いシステムを、「俺たちが走るための最も速い道」に変えることだけだ。
「見つけたぞ。あの白い門だ」
空間の最奥。
そこには、このサーバーの『管理者権限』へと繋がる、ただ一つの真っ白なゲートが浮かんでいた。
そこを通り抜ければ、俺たちはこのゲームの「プレイヤー」という枠組みを完全に外れ、管理者(管理者)以上の権限を行使できるようになる。
「……ナナシ。もし管理者になったら、次は何をするつもりだ?」
俺はゲートの前で立ち止まり、懐の、無料支給されたばかりの灰色のカロリーブロックを見つめた。
「この世界中を、スタミナ消費ゼロで、遮る壁もなく、どこまでも最短距離で走れる『一直線の道』にする。……それが終わったら、ようやく『真の効率』が計算できる」
「……クックッ。最高だ。それなら、俺もその道を走らせてもらう」
俺たちは同時にゲートへ手を伸ばした。
二人の無一文。
初期装備だけの、最強の管理者たちが誕生しようとしていた。
その背後で、俺たちが壊した赤い光の壁から、真っ青なノイズが溢れ出し、ゲーム世界全体が再起動を始めていた。
もう、誰も俺たちを止めることはできない。
この世界は、俺たちの効率のために書き換えられるのだから。




