第22話:経済崩壊と非ユークリッド空間の正しい歩き方
現実世界での完璧な栄養計算に基づいた昼食を終え、胃腸の消化サイクルに合わせた最適な休憩を挟んだ後、俺は『FRO』へと再ログインした。
視界が晴れると、そこはログアウトした第二の街『オアシス』のギルド内。
しかし、どういうわけか、つい1時間前まで難民キャンプのようにごった返していたはずのプレイヤーたちの姿が、忽然と消え失せていた。
「ん? 誰もいないな。静かで非常に効率的だが」
俺が首を傾げていると、カウンターの奥から獣耳の受付嬢がゲッソリとした顔で現れた。
「あ、ナナシ様……おかえりなさいませ……」
「他の連中はどうした? まさか全員、馬車酔いでログアウトしたのか?」
俺の問いに、受付嬢は遠い目をして窓の外――砂漠の方向を指差した。
「ナナシ様がログアウトされた直後……砂漠に数億Gの金袋が落ちているという情報が広まり、プレイヤーの皆様は全速力で砂漠へと向かわれました。空前のゴールドラッシュです」
「なるほど。ゴミ拾いに出かけたわけか。で?」
「……金袋を拾って所持金がパンパンになった皆様のところに、リスポーン再出現したコインドロボーの大群が襲いかかりました。結果、全員が所持金の限界までスリ取られ、砂漠に絶叫が響き渡る大惨事(経済崩壊)に……」
自業自得である。
そもそも、重量のある金袋など拾えばスタミナ消費が悪化し、回避行動に遅れが生じるのは火を見るより明らかだ。欲望に目が眩んでリソース管理を怠った末路だな。
「まあ、他人の財布事情はどうでもいい。それより、午後のレベリングの予定を組みたいんだが、あの砂漠以外で『誰も行かない無料の狩場』はないか?」
俺がそう尋ねると、受付嬢は顔を引きつらせた。
「だ、誰も行かない場所、ですか……。一つだけありますが、絶対におすすめしません。第二の街の地下に広がる『廃棄迷宮』です」
「廃棄迷宮?」
「はい。非ユークリッド幾何学的な構造を持つエリアです。空間がねじ曲がり、壁を抜けたと思ったら天井から落ちてきたり、無限ループする廊下があったりと、物理法則が完全に破綻しています。入った人は全員、強烈な酔いを起こしてリタイアしました」
受付嬢はブルブルと震えながら警告してくる。
「立ち入り非推奨になっています。あんな空間、人間の脳で処理できるわけがありません!」
「なるほど」
俺はニヤリと口角を上げた。
非ユークリッド空間。無限ループ。物理法則の破綻。
「要するに、面倒なギミックのせいで『誰も横殴りしてこない貸し切りの狩場』ということだな」
「えっ? いや、そうじゃなくて……空間の繋がりがおかしいんですよ!? まともに歩くことすら――」
「空間がバグっていようが、俺の『初期の布服』と『木の棒』の耐久値が無限であることには変わりない。なら、何も問題はないな。行ってくる」
俺は静止する受付嬢を置いて、ギルドの地下へと続く立ち入り禁止の階段をスタスタと降りていった。
地下迷宮の扉を開けた瞬間、視界がおかしくなった。
目の前にあるはずの通路がメビウスの輪のようにねじれ、右を向いているのに左の景色が見え、床だと思って踏み出した足先が壁のテクスチャにめり込む。
まるで、出来の悪い裏世界に迷い込んだかのような、不気味でグリッチだらけの光景だ。
『ジジッ……ガガッ……』
ノイズ音と共に、壁の中からポリゴンが崩れたような異形のバグモンスターが這い出してきた。
そして、重力を無視して天井を這いながら、俺の頭上へ向かって奇軌道で飛びかかってくる。
「――無駄なエフェクトだ」
俺は一切の動揺もなく、視覚から入るバグまみれの情報を脳内で『ただの座標データ』として最適化した。
空間がどうねじ曲がっていようと関係ない。
敵が『どの座標』から『どのベクトル』で迫ってきているか。それさえ計算できれば、やることは今までと全く同じだ。
俺は最小限の動きで半歩だけ軸足をずらし、天井から降ってきたバグモンスターの中心座標に向けて、木の棒を真っ直ぐに突き出した。
『パァァァァンッッ!!!』
【ミニマリスト】の極大火力が直撃し、バグモンスターがエラー音を撒き散らしながら消滅する。
「空間が歪んでいるなら、それを逆算して『最短距離』を歩けばいいだけだ」
俺はねじ曲がった壁をすり抜け、無限ループする廊下の『繋ぎ目』をショートカットとして利用し、スタミナ消費を極限まで抑えた歩様で迷宮の奥へと進んでいく。
一般プレイヤーなら三半規管を破壊される非ユークリッド空間も。
視覚情報を完全に切り離し、効率と座標の処理のみに脳のリソースを全振りしている俺にとっては、ただの『近道だらけのボーナスステージ』でしかなかった。
「素晴らしい。ここなら誰にも邪魔されず、最高のタイムパフォーマンスで経験値を稼げるな」
運営すらも匙を投げたグリッチまみれの廃棄迷宮で、ただ一人、無一文の初期装備男だけが、鼻歌交じりでバグの壁を突き抜けながら無双を続けるのだった。




