噂その7:屋上に現れる、白い影
廊下の窓から見えた東の空は、少しだけ白み始めていた。
夜が終わろうとしている。
それなのに俺たちは、まだ旧校舎にいた。
しかも、よりによって屋上へ向かっていた。
「もう帰ろうよ……六個もやったじゃん……」
俺の声には、魂の芯から出た疲労が滲んでいた。
音楽室でネズミのワルツを聴き、女子トイレでアナスタシアの誕生に立ち会い、階段で茨木が怪談になり、美術室で古い肖像画に見つめられ、理科室では大山崎が人体模型とスクワットをし、図書室では抜けない参考書の奥から謎の紙切れを見つけた。
もう十分だ。
むしろ一夜に色々とやりすぎだ。
高校生活における怪談の摂取量としては、明らかに致死量に近い。
「でも根室さん、七不思議なのですから、七つ全部やらないと」
大山崎が当然のように言った。
「祥平くんはさ、今日の調査の中で何回筋トレしたの!? もう十分疲れた頃だよね!?」
「記録は取っていませんが、感覚的には通常の一・五倍程度の負荷がかかりました。旧校舎は優れたジムです」
「ここはジムじゃない!!」
そんな会話をしながらも、俺の頭には、さっき見つけた紙切れの文字が残っていた。
『屋上で待っています』
ラブレターかもしれない。
果たし状かもしれない。
ただの古い落書きかもしれない。
そう思いたかった。
けれど、最後に残った七不思議は、屋上に現れる白い影。
偶然にしては、少しだけ出来すぎている。
俺たちは、自分たちでここまで来たのか。
それとも、誰かに順番どおり案内されてきたのか。
考えるのをやめたかった。
でも、屋上へ続く階段を上るたびに、あの文字が頭の中で開く。
「……帰りたい」
「ここまで来て帰るのは、美しくないわ」
中書島が即答した。
「美しさより命を優先したいんだけど」
「大丈夫です」
大山崎が階段を軽快に上りながら言った。
「屋上戦に備えて、下半身は十分温まっています」
「まだ果たし状説を捨ててなかったの!?」
「可能性はゼロではありません」
大山崎は少し立ち止まると鞄からシェイカーを取り出し、手早く水と粉を混ぜ始めた。
「……一応聞くけど、それ何してるの?」
「戦前補給です」
「果たし状にプロテインで応じようとするな」
「空腹では最高のパフォーマンスを発揮できません」
「パフォーマンスを発揮する予定がないんだよ」
◇
屋上のドアは施錠されていた。
これで帰れる。
俺がほんの一瞬そう思った瞬間、中書島が持参していた鍵束から、迷いなく一本を選び出した。
「ここの鍵は、風紀委員として私が申請したの」
「何で持ってるの!?」
「昼休みにここへ入り込んで、良からぬことをする者が後を絶たなかったから」
中書島は当然のように鍵を差し込む。
今夜のことといい、彼女の学園に対する発言力は、十分に七不思議のひとつだと俺は思った。
でも直接は言わない。命が惜しいからだ。
ぎい、と重い扉が開いた。
屋上に出る。
夜明け前の空は、藍色から薄紫に変わりかけていた。
空の端だけが薄く明るく、旧校舎の影がまだ足元に残っている。
風が冷たかった。
汗で湿った制服の背中に触れて、ぞくりとする。
遠くで鳥が鳴き始めていた。
そのときだった。
ひ、ひひ。
小さな笑い声のような音がした。
俺は息を止めた。
「今の、聞こえた?」
「……あれ」
高槻が、屋上の奥を指差した。
フェンスのそば。
そこに、白い影があった。
人の形をしていた。
じっと立って、遠くを見ている。
風が止み、影も止まる。
けれど、俺たちの誰も、足を動かせなかった。
それは人に見えた。いや、人であってほしくないほど、人に見えた。
「……うわ」
声が喉の奥で潰れた。
「幽霊だよ!! 本物の幽霊!! 六個全部違ったけど、七個目は本物だよ!!」
「……根室さん」
「なに!?」
「……違う」
高槻が歩き出した。
「高槻さん!! 近づかないで!! これで最後だからって急に勇者にならないで!!」
「……白いビニールシート」
「え?」
「……フェンスに引っかかってる。……朝の風で、膨らんだり縮んだりしてる。……それが、人の形に見える」
近づいてみると、確かにそうだった。
強風で飛んできたのか、白いビニールシートがフェンスに絡まっていた。
風を孕むたびに膨らんで、人の肩や背中のような形を作っている。
「なんだ……」
俺は膝から崩れそうになった。
「ただのシートかよ……」
「ただのシートを、幽霊に見せるとは素晴らしい演出ですね」
茨木がしみじみと言った。
「シート側に演技力を認めるな」
「けれど、姿勢は悪くありませんでした。無言の立ち姿に説得力があります」
「ビニールシートを役者扱いするな」
高槻がフェンスに絡まったシートを外した。
その瞬間。
ひ、ひひひ。
また音がした。
白いシートの方からではない。
フェンスの向こうでもない。
屋上そのものが、喉の奥で笑ったみたいな音だった。
俺たちは黙った。
「……今のは?」
大山崎が肩を回すのを止めた。
「果たし状の相手ではなさそうですね」
「今そこじゃない」
高槻は目を閉じた。
風の流れを聞くように、じっと立っている。
「……排気口の角度。……フェンスの形。……錆びた金具の隙間」
高槻はゆっくり屋上を見回した。
「……特定の風向きで、音が増幅される。……細い隙間を風が通ると、笛みたいになる。……それが、人の笑い声に似た音になる」
「つまり、校舎が笑ってるってこと?」
「……うん」
高槻は空を見上げた。
薄明かりの中で、その目が少し柔らかくなっていた。
「……長い年月をかけて、校舎が楽器になった。……沈んで、歪んで、錆びて、隙間ができて。……夜明けの風が通るたびに、誰も知らない音を鳴らしてる」
風が吹いた。
ひひ、と、旧校舎が笑う。
さっきまで怖かった音が、少しだけ違って聞こえた。
誰かが笑っているんじゃない。誰かを笑っているんでもない。
ただ、古くなった校舎が、夜明けの風に鳴らされている。
「……旧校舎の最後の合唱。……悪くない」
高槻がそう言った。
誰も何も言わなかった。
大山崎でさえ、戦前補給と称して口をつけかけていたシェイカーを止めていた。
中書島は扇子を閉じ、フェンスの向こうの朝焼けを見ている。
茨木は、いつもの大げさなポーズを取らず、ただ白いシートが絡まっていた場所を見つめていた。
『屋上で待っています』
俺は、もう一度あの紙切れの文字を思い出した。
結局、ここに誰かが待っていたわけではなかった。
白い影はビニールシートで、笑い声は風の音だった。
それでも。
俺たちは確かに、ここまで来た。
七不思議を一つずつ解いて。
怖がって、騒いで、壊しかけて、怒られて。
理屈を見つけて。
それでも、何かを残して。
「……根室さん」
茨木が、隣に立った。
「七不思議はぜんぶ、怪異じゃなかったですね」
「うん」
「でも、どの噂にも、ちゃんと理由があって、少しだけ物語がありました」
俺は少し考えた。
確かに全部、怪異ではなかった。
でも、なかったことにはできないものばかりだった。
「……うん」
俺は言った。
「七不思議は、確かに存在した」
そのとき、朝日がフェンスの向こうから顔を出した。
古い屋上の床に、淡い光が差し込んだ。
錆びたフェンスも、排気口も、ひび割れたコンクリートも、少しだけ違って見えた。
俺は空を見上げた。
ひ、ひひ。
旧校舎が、最後にもう一度だけ笑った。
「……なあ」
「はい」
茨木がこちらを見る。
「やっぱり、ここまで案内されてたのかな」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
茨木は答えなかった。
中書島も、大山崎も、高槻も、何も言わなかった。
ただ朝の風だけが、屋上を通り抜けていく。
案内していたのが幽霊なのか。
七不思議なのか。
それとも、古い校舎そのものだったのか。
俺には分からない。
でも、ひとつだけ分かることがある。
もしあの紙切れが、本当に俺たちをここへ呼んだのだとしたら。
待っていたものは、幽霊じゃなかった。
夜明けだった。




