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噂その6:図書室の棚から抜けない本

 七不思議にも、格差がある。

 正直、今回のやつは下位ランクだと思っていた。


 『図書室の奥にある郷土史の参考書が、抜けない日がある』


 ……本が抜けない。

 いや、確かに困るけど。

 困る種類が違う。


 夜中に鳴るピアノ。

 三階女子トイレのアナスタシア。

 階段で消える白い女。

 美術室で動く肖像画。

 歩く人体模型。


 その並びで、抜けない参考書。


 七不思議というより、図書室の備品不具合っぽい。

 というか、それを調べるなら図書委員とか司書の先生の仕事だろ。


「今回、地味じゃない?」


 図書室の前で俺がそう言うと、茨木が静かに首を振った。


「根室さん。地味な怪談ほど、演出次第で化けます」

「怪談を舞台作品として評価するな」

「それに、本が抜けないというのは象徴的です」

「何の?」

「物語に捕まる、ということです」

「嫌な象徴を即興で作るなよ」


 大山崎は妙に張り切っていた。

 まるで準備体操でもするように、扉の前で腕を回している。


「本が抜けないなら、僕の出番ですね」

「違う。絶対に違う。図書室で一番呼んじゃいけないタイプの出番だ」


「本を相手に張り切る人、初めて見たわ」

 中書島が扇子で仰ぎながら言う。


 その横で、高槻が小さな湿度計を取り出した。


「……今日は、起きるかもしれない」

「何が?」

「……抜けない日」


 そこで初めて、少しだけ空気が変わった。


 図書室の扉を開ける。

 中は、静かだった。

 静かすぎて、さっきまでの会話が全部、外に置き去りにされたみたいだった。


 本棚が迷路のように並んでいる。

 懐中電灯の光が届かない奥には、古い背表紙がぎっしり詰まっていた。


 カビと古紙と、湿った木の匂い。

 窓から差し込む月明かりが、床の上に細い線を引いている。


「……うん」


 俺は小さく呟いた。


「普通に怖いな、ここ」

「地味な怪談ほど、静寂が効くのです」

「もうさ、茨木くんは黙っておこうか。解説は高槻さんに任せようよ。何かわかってるみたいだし」

「……こっち」


 高槻が懐中電灯を向けた。


 図書室の一番奥。

 郷土資料の棚。


 そこだけ、他の棚よりも少し古く見えた。

 木の板は湿気を吸って黒ずみ、背表紙の文字も日に焼けて薄くなっている。


 高槻は棚の下段を照らした。


「……これ」


 そこには、分厚い参考書があった。

 背表紙には、金色の文字でこう書かれている。


『旧町史資料集』


 たしかに、かなり重そうではある。

 でも、怪談になるほどかと言われると、やっぱり地味だ。


「これが、抜けない本?」

「……そう」

「本当に?」


 俺が聞くより早く、大山崎が前に出た。


「確認しましょう」

「待って。なんで腕まくりしてるの」

「牽引します」

「本に使う動詞じゃない」

「問題ありません。丁寧に行います」

「祥平くんの丁寧って、たぶん一般的な丁寧と単位が違うんだよ」


 大山崎は参考書の背表紙を掴んだ。

 その瞬間、中書島が一歩前に出る。


「大山崎」

「はい」

「くれぐれも、美しくね」

「承知しました。指先の動きまでフォームに注意を払いますよ」

「承知しないで! まず触るなって話をしようか」


 大山崎が、ゆっくりと参考書を引こうとした。

 が、びくとも動かない。


「……ほう」

「今ちょっと嬉しそうだったよね?」

「かなりの抵抗があります。これは手強い」

「本相手に戦闘開始するな」


 大山崎がもう一度、力を込める。


 みしり。

 図書室に、嫌な音が響いた。


 全員が止まった。

 中書島の扇子が、ぴたりと閉じる。


「……大山崎」

「はい」

「今の音、美しくなかったわ」

「申し訳ありません」

「反省文ね」

「いや、でもまだ壊れては……」 


 その瞬間。

 背表紙の端が、ぺり、と小さく剥がれた。


「壊れた!!」

「大山崎」


 中書島の声が、静かに低くなった。


「反省文を二枚に増やします。題名は『力で解決することの醜さについて』」

「……待って」


 高槻が、剥がれた背表紙ではなく、本と本の隙間を見ていた。


「……それ、無理に引っ張らない方がいい」

「もう引っ張ったあとなんだけどね」

「……湿気」


 高槻がぽつりと言った。


「湿気?」

「……梅雨で紙が水分を吸って膨らんでる。古い本は紙が水分を吸いやすい。……この本だけ製本の糸が太いから、背の部分が少し膨らむ」


 高槻は隣の本との隙間を照らした。


「……隣の本と擦れてる。棚も少し歪んでる。だから湿度が高い日だけ、抜けにくくなる」

「じゃあ、誰かが奥から押さえてるわけじゃない?」

「……押さえてるのは、水分」

「水分ってそんな怪談みたいな仕事するの!?」

「……する。梅雨は強い」


 高槻は湿度計を見せた。


「……今、かなり高い。たぶん、怪談が起きる日」

「怪談の発生条件が湿度管理で分かるの、嫌すぎる」


「除湿すれば解決するのでは?」

 大山崎が真面目な顔で言った。


「君が壊す前なら、美しい提案だったわね」

 中書島が冷たく言った。


 大山崎は静かに姿勢を正した。


「反省します」

「口頭だけじゃなく、書面でもね」

「はい」


 高槻はポケットから薄い布を取り出し、参考書の背表紙に当てた。

 少しずつ、左右に揺らす。


「……力じゃなくて、隙間を作る」


 ぎし、ぎし。

 古い紙が、隣の本と擦れる音がした。

 その音は、まるで本棚の奥で誰かが歯を食いしばっているみたいだった。


「……やっぱ地味なのに怖いな、これ」

「地味な抵抗ほど、想像力に訴えますから」

「茨木くんは俺の恐怖に解説字幕をつけるな」


 やがて、参考書がほんの少し前に出た。

 高槻は動きを止めず、慎重に引き抜いていく。


 ずるり。

 重たい音を立てて、『旧町史資料集』が棚から外れた。


 棚の奥に、黒い隙間が残る。

 そこには何もない、そう思ったとき。


「……あ」

 茨木が、小さく声を上げた。

「何?」

「紙きれがあります」


 茨木は本のあった奥を覗き込み、指先を差し入れた。

 舞台の小道具でも扱うみたいに、慎重に。


「触って大丈夫?」

「かなり古そうですが、慎重に扱えば崩れはしないでしょう。乱暴にすれば、紙より先に中書島さんの怒りが破裂します」

「その判断基準、たぶん正しいな」


 茨木が取り出したのは、薄い紙切れだった。


 古い紙だった。

 端は茶色く変色し、折り目には細かな亀裂が入っている。


 懐中電灯の光を当てると、紙の中央に小さな絵が浮かんだ。


 白い花に、細い茎。

 葉脈まで丁寧に描き込まれた葉。


 その下に、短い文字があった。

『屋上で待っています』


 誰も喋らなかった。

 さっきまでただの備品不具合だったはずの怪談が、急に別の顔をした。


「……裏は?」

 高槻が呟いた。

 茨木がそっと紙を裏返す。

「誰かの名前のようにも見えますが、読めませんね」


 俺も横から覗き込む。

 かすれたボールペンのようなもので何か書かれていたが、判読はできなさそうだ。


 俺は棚に抜けたままの空洞を見た。


 開かなかった参考書。

 抜けなかった本。

 その奥に隠れていた古い紙切れ。


 怪談の正体は分かった。

 水分と、紙と、歪んだ本棚。


 でも。本当に引っかかっていたのは、その参考書じゃない気がした。


 茨木は、紙切れを見つめたまま言った。


「根室さん」

「何?」

「物語に捕まる、というのは……案外、間違っていなかったかもしれません」

「そういう回収の仕方しないで。ちょっと怖いから」


 改めてメモを読み返す。

「『屋上で待っています』……もしかして、ラブレター?」

 俺が呟くと、中書島が扇子を開いた。

「可能性はあるわね。簡潔で、余白がある。呼び出し文としては悪くないわ」

「昔の手紙に恋愛指導しないで」 


「いえ」

 大山崎が首を振った。

「果たし状の可能性もあります」

「急に戦おうとするな」

「屋上で待っています、という文面は明確な場所指定です。念のため準備を」

 大山崎はその場で肩を回し始めた。


「ウォーミングアップするな! 相手が誰かも分かってないだろ!」

「だからこそです」

「だからこそじゃない!」


 少しだけ、空気が緩んだ。

 けれど、高槻だけは紙を見つめたままだった。


「……屋上」

「え?」

「……最後の七不思議。屋上に現れる、白い影」


 その言葉で、笑いが喉の奥に引っ込んだ。


 屋上で待っています。

 俺は、その文字をもう一度見た。


 抜けない参考書。

 その奥に隠れていた紙切れ。

 紙に描かれた白い花。

 そして、最後に残った屋上の噂。


 偶然だと思いたかった。

 でも、ここまで来て気づいてしまった。


 俺たちは七不思議を解いているんじゃない。

 もしかして、誰かに順番どおり案内されているんじゃないか。


 背中に、冷たいものが走った。


 頼むから。

 ラブレターでも果たし状でもいいけど、怪談が待ち合わせ場所を指定するのはやめてくれ。

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