表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/9

噂その5:理科室の人体模型が夜中に歩く

「理科室は……まあ……昼でも怖いよな」


 俺は扉の前で、できるだけ小さな声で言った。


 理科室という場所は、どうしてあんなに昼間から不気味なのだろう。

 人体模型。骨格標本。ホルマリン漬けの標本瓶。壁に貼られた内臓の図。

 人間の中身を、やけに丁寧に並べてある感じが嫌だった。


 しかも今は深夜。

 そんな場所に懐中電灯一本で入るなんて、正気の沙汰ではない。


 ぎい、と扉を開ける。


 薬品の匂いが、冷たい空気と一緒に流れ出した。

 懐中電灯の光が、実験台の上を滑る。ビーカー、試験管立て、乾いた雑巾。

 そして、教室の奥。


 赤と青の筋肉をむき出しにした人体模型が、こちらを向いて立っていた。


「うわっ……」


 分かっていた。

 あるのは分かっていた。

 でも、深夜の理科室で見る人体模型は、昼間の三割増しで生きているように見える。


「……位置、ずれてる」

 高槻が言った。


「昼間の写真と比較して……三十センチ、移動してる」

「移動ってどういうこと!?」

「……床が傾いてる。……旧校舎は地盤沈下で、この教室だけ一・二度、西に傾いている。……人体模型のキャスターが、夜の温度変化で固着が緩むと……ゆっくり滑っていく」

「……勝手に動いてるってこと?」

「……物理的に」

「その言い方だと怖さが一ミリも減らない!!」


 ぎ……と音がした。全員が振り返る。


 人体模型の足元。

 キャスターが、ほんの少しだけ回っていた。


 誰も触れていない。

 風もない。

 それなのに、赤と青の筋肉をむき出しにした身体が、こちらへ一センチだけ近づいた。


「……今、動いたよね?」

「……動いた」


 高槻は冷静だった。


「……物理的に」

「だからその補足が怖いんだって!!」


 俺が後ずさる横で、大山崎が一歩前へ出た。


「それよりも、気になることが」

「それよりも!?」

「この模型、筋肉の付き方が正確ですね」


 大山崎は人体模型を真剣に観察していた。


「大腿直筋、外側広筋、内側広筋……。非常に良い教材です」

「この状況で筋肉の教材として見るの!?」

「根室さん、筋肉に恐怖はありません。あるのは理解不足だけです」

「いやいや、一般常識みたいに言わないで!」


 大山崎は人体模型の前に立ち、真面目な顔で膝を曲げた。


「では、一緒にスクワットしてみましょう」

「人体模型はスクワットしないって」


 大山崎が沈む。

 人体模型も、床の傾きのせいで、ぎい、とわずかに前へ滑る。

 大山崎が上がる。

 人体模型は動かない。


「いいですね。初心者にしては体幹が安定しています」

「ただの模型だからね!?」

「ですが可動域が足りません」

「もともと可動しないんだよ!!」


 中書島が扇子を口元に当てた。


「姿勢は悪くないわ。ただ、身だしなみが致命的ね。内臓を見せたまま人前に出るなんて、社交界では即退場よ」

「人体模型に社交界のルール適用しないで!」


 その間、高槻は人体模型の肩のあたりを見ていた。


「……この骨格、左右で肩の高さが違う」


 高槻がまたメモを取る。


「……不良品か、それとも……生前から側弯があった人の、特注品か」

「特注品って何!? どっちも怖い!!」


 大山崎のスクワット講習が一段落したころ、ふと気づいた。

 茨木がやけにおとなしい。

 さっきまでの流れなら、人体模型の横に立って「僕も内臓を晒すべきでしょうか」とか言い出しそうな男が、何も言わない。


 彼はシーツを脱ぎ、人体模型の隣に並んで立っていた。同じ角度で首を傾け、同じように片腕を下げている。


「根室さん」


 茨木が静かに言った。


「この模型は、三十年間、ひとりで動き続けていたんです」

「……いや、床が傾いてただけだよ?」

「ええ。誰かに見られるためでも、驚かせるためでもなく。ただ、ほんの少しずつ。誰にも気づかれないくらいの速度で」


 茨木は人体模型の横顔を見た。


「それでも確かに、移動していた。主役は、いつも注目される必要はないのかもしれません」


 少しだけ、声がいつもと違った。


 芝居がかった大げさな声ではなく、舞台袖で独り言を言うような声だった。


「……茨木くん、それ模型に自己投影してる?」

「少し、しています」


 素直に認めた。

 俺は人体模型を見た。


 さっきまで気味悪くて仕方なかった赤と青の身体が、少しだけ違って見えた。

 誰にも見られず、誰にも拍手されず、それでも三十年かけて一センチずつ場所を変えていたもの。


 怖い。

 でも、少しだけ間抜けで。

 少しだけ、寂しい。


「……大山崎さんが人体模型にスクワットを教えてる。……茨木さんが人体模型に人生を重ねてる。……筋肉と孤独が、同じ教室に立ってる。……混沌」


 高槻が淡々と言った。


「実況しないで! 現実だと認めたくないから!」


 俺が言うと、高槻は再びメモに視線を落とした。


「……床の傾き、これも報告書に書いておかないと」


 高槻の言葉に小さく息をついた。まだそのくらいの現実の方が受け入れやすい。


 理科室を出る時、人体模型が俺たちを見送っているような気がした。……気がしただけだ、きっと。


「……次、図書室」


 高槻が言った。

 俺はその単語に、少しだけ安心してしまった。


 本ならいい。本なら、たぶん怖くない。

 少なくとも、こっちに歩いては来ないだろうから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ