噂その5:理科室の人体模型が夜中に歩く
「理科室は……まあ……昼でも怖いよな」
俺は扉の前で、できるだけ小さな声で言った。
理科室という場所は、どうしてあんなに昼間から不気味なのだろう。
人体模型。骨格標本。ホルマリン漬けの標本瓶。壁に貼られた内臓の図。
人間の中身を、やけに丁寧に並べてある感じが嫌だった。
しかも今は深夜。
そんな場所に懐中電灯一本で入るなんて、正気の沙汰ではない。
ぎい、と扉を開ける。
薬品の匂いが、冷たい空気と一緒に流れ出した。
懐中電灯の光が、実験台の上を滑る。ビーカー、試験管立て、乾いた雑巾。
そして、教室の奥。
赤と青の筋肉をむき出しにした人体模型が、こちらを向いて立っていた。
「うわっ……」
分かっていた。
あるのは分かっていた。
でも、深夜の理科室で見る人体模型は、昼間の三割増しで生きているように見える。
「……位置、ずれてる」
高槻が言った。
「昼間の写真と比較して……三十センチ、移動してる」
「移動ってどういうこと!?」
「……床が傾いてる。……旧校舎は地盤沈下で、この教室だけ一・二度、西に傾いている。……人体模型のキャスターが、夜の温度変化で固着が緩むと……ゆっくり滑っていく」
「……勝手に動いてるってこと?」
「……物理的に」
「その言い方だと怖さが一ミリも減らない!!」
ぎ……と音がした。全員が振り返る。
人体模型の足元。
キャスターが、ほんの少しだけ回っていた。
誰も触れていない。
風もない。
それなのに、赤と青の筋肉をむき出しにした身体が、こちらへ一センチだけ近づいた。
「……今、動いたよね?」
「……動いた」
高槻は冷静だった。
「……物理的に」
「だからその補足が怖いんだって!!」
俺が後ずさる横で、大山崎が一歩前へ出た。
「それよりも、気になることが」
「それよりも!?」
「この模型、筋肉の付き方が正確ですね」
大山崎は人体模型を真剣に観察していた。
「大腿直筋、外側広筋、内側広筋……。非常に良い教材です」
「この状況で筋肉の教材として見るの!?」
「根室さん、筋肉に恐怖はありません。あるのは理解不足だけです」
「いやいや、一般常識みたいに言わないで!」
大山崎は人体模型の前に立ち、真面目な顔で膝を曲げた。
「では、一緒にスクワットしてみましょう」
「人体模型はスクワットしないって」
大山崎が沈む。
人体模型も、床の傾きのせいで、ぎい、とわずかに前へ滑る。
大山崎が上がる。
人体模型は動かない。
「いいですね。初心者にしては体幹が安定しています」
「ただの模型だからね!?」
「ですが可動域が足りません」
「もともと可動しないんだよ!!」
中書島が扇子を口元に当てた。
「姿勢は悪くないわ。ただ、身だしなみが致命的ね。内臓を見せたまま人前に出るなんて、社交界では即退場よ」
「人体模型に社交界のルール適用しないで!」
その間、高槻は人体模型の肩のあたりを見ていた。
「……この骨格、左右で肩の高さが違う」
高槻がまたメモを取る。
「……不良品か、それとも……生前から側弯があった人の、特注品か」
「特注品って何!? どっちも怖い!!」
大山崎のスクワット講習が一段落したころ、ふと気づいた。
茨木がやけにおとなしい。
さっきまでの流れなら、人体模型の横に立って「僕も内臓を晒すべきでしょうか」とか言い出しそうな男が、何も言わない。
彼はシーツを脱ぎ、人体模型の隣に並んで立っていた。同じ角度で首を傾け、同じように片腕を下げている。
「根室さん」
茨木が静かに言った。
「この模型は、三十年間、ひとりで動き続けていたんです」
「……いや、床が傾いてただけだよ?」
「ええ。誰かに見られるためでも、驚かせるためでもなく。ただ、ほんの少しずつ。誰にも気づかれないくらいの速度で」
茨木は人体模型の横顔を見た。
「それでも確かに、移動していた。主役は、いつも注目される必要はないのかもしれません」
少しだけ、声がいつもと違った。
芝居がかった大げさな声ではなく、舞台袖で独り言を言うような声だった。
「……茨木くん、それ模型に自己投影してる?」
「少し、しています」
素直に認めた。
俺は人体模型を見た。
さっきまで気味悪くて仕方なかった赤と青の身体が、少しだけ違って見えた。
誰にも見られず、誰にも拍手されず、それでも三十年かけて一センチずつ場所を変えていたもの。
怖い。
でも、少しだけ間抜けで。
少しだけ、寂しい。
「……大山崎さんが人体模型にスクワットを教えてる。……茨木さんが人体模型に人生を重ねてる。……筋肉と孤独が、同じ教室に立ってる。……混沌」
高槻が淡々と言った。
「実況しないで! 現実だと認めたくないから!」
俺が言うと、高槻は再びメモに視線を落とした。
「……床の傾き、これも報告書に書いておかないと」
高槻の言葉に小さく息をついた。まだそのくらいの現実の方が受け入れやすい。
理科室を出る時、人体模型が俺たちを見送っているような気がした。……気がしただけだ、きっと。
「……次、図書室」
高槻が言った。
俺はその単語に、少しだけ安心してしまった。
本ならいい。本なら、たぶん怖くない。
少なくとも、こっちに歩いては来ないだろうから。




