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噂その4:美術室の目が動く絵画

 美術室は、正直、一番怖かった。


 音楽室の勝手に鳴るピアノも嫌だ。

 女子トイレのアナスタシアも、もちろん嫌だ。

 まだ行っていないけれど、理科室だって多分かなり気味が悪い。


 ――でも、美術室の絵は、もっと嫌だった。


 あいつらは、こっちが目をそらすまで、ずっと見てくる。


 壁一面に、絵が飾られていた。

 歴代の生徒たちの作品らしい。肖像画、風景画、抽象画。どれも古びていて、額縁(がくぶち)の木は乾き、キャンバスは少しだけ黄ばんでいる。


 油絵具の匂いがした。

 古い木枠と、埃と、閉め切った部屋の匂い。長い間、誰にも見られないまま、絵だけが呼吸していたような匂いだった。


 懐中電灯の光が動くたびに、影も動く。

 そのたび、絵の中の目が、ぎょろりとこちらを追った気がした。


「……俺、美術室は苦手なんだよ……!」


「何故ですか、根室さん」


「だって! 絵の目が動くって!!」


「視線を感じる環境でのトレーニングは、集中力の向上に効果があります」


 大山崎が、美術室の中央で静かにスクワットを始めた。


「今ここで鍛える必要ある!?」


「見られていると思うと、フォームが崩せませんから」


「絵にフォームチェックさせるな!!」


「……実際には動いてない」


 高槻がすかさず言った。


「……懐中電灯が動いてる。……光源が移動すると、絵の陰影が変化して……眼球が動いたように見える。……立体的に描かれた目は、どこから見ても視線が合うように感じる」


「モナリザ効果というやつですね」


 茨木が頷いた。

 その言葉は、ネットの記事か何かで見たことがある気がする。


「なるほど! じゃあ怖くない!」


 俺は少しだけ胸を撫で下ろした。


 その瞬間だった。


 美術室の奥で、誰かと目が合った。


「……え」


 懐中電灯を向ける。

 そこにあったのは、一枚の肖像画だった。


 制服を着た少女の絵。

 美術室の一番奥。窓からもドアからも遠く、光が届きにくい壁に、それだけが少し沈むように掛けられていた。


 どこかで見たような顔だった。

 けれど、誰に似ているのかは分からない。


 目の部分だけ、やけに濃い絵の具で描かれている。

 黒い絵の具の奥に、まだ乾いていない水分が残っているみたいだった。


「……この絵だけ、少し違う」


 高槻が肖像画の前で止まった。


「違うって、何が?」


「……目」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず一歩下がった。


「やめて。今いちばん聞きたくない単語だった」


「……この目、本当に動いてる」


「だからやめてって!!」


「……正確には、絵の裏に空間がある。……建物の構造上、ここだけ壁に隙間があって……空気の流れで、キャンバスがわずかに振動してる。……それが目の動きに見える」


「だったら最初からそう言って!! 『本当に動いてる』の部分いらないから!!」


「つまり、背面から圧をかければ振動の変化を確認できますね」


 大山崎が腕まくりをした。


「やめろ。絵にベンチプレスの概念を持ち込むな」


「大丈夫です。押すのは壁です。作品には触れません」


「そういう問題じゃない」


「これは使えます」


 茨木が目を輝かせた。

 すかさず絵の裏に回り込もうとする。


「茨木くん!?」


「絵の向こうから、僕が目を動かします。完全なる一体化です。絵画と役者の、魂の融合」


「やめて!! その発想自体が新しい七不思議になっちゃうから!!」


「根室さん」


 茨木が、珍しく静かな声を出した。


「怪談は、誰かが語り継がなければ消えてしまうんです」


「……え?」


「目が動く絵。階段で消える女。夜中に鳴るピアノ。そういうものは、怖がる人間がいなくなった瞬間、ただの古い物になります」


 茨木は、肖像画の少女を見上げた。


「だから僕は、身体を貸したいんです。忘れられそうなものに」


 言っていることは、意外とまともだった。

 行動は最悪だったけど。


「でも、絵の裏に入るのはやめて」


「それは別問題ですか」


「完全に別問題です」


「忘れられそうなものに身体を貸す、ですか」


 大山崎が、珍しくスクワットを止めた。


「筋肉も同じですね。使われなければ、衰えます」


「いや、たぶん今そういう話じゃない」


「ですが、残すためには動かし続ける必要がある。怪談も、身体も」


 反論しようとして、少しだけ言葉に詰まった。

 変なことを言っているはずなのに、妙に筋が通っていたからだ。


「……この肖像画」


 中書島が静かに近づいた。


「なかなか、腕があるわ」


 扇子を閉じ、額縁の前で足を止める。


「背景の構図、陰影の付け方。目だけが少し強すぎる。でも、それがいい。未熟さもまた、作品の呼吸よ」


 中書島は、額縁の下を指先でなぞった。


「署名が消えているのが惜しいわね。誰が描いたのかしら」


「……裏にラベルがある」


 高槻が絵の裏を照らした。


 ラベルは黄ばんでいた。

 角は剥がれ、文字の半分は滲んでいる。


 それでも、いくつかの文字だけは読めた。


『第三十二回 卒業制作展』

『作品名 視線』

『作者 藤宮――』


「卒業制作展……ってことは、卒業生の作品?」


「……普通は、そう」


 高槻がそう言った時だった。


 茨木が、小さく息を呑んだ。


「藤宮」


 その声は、いつもの芝居がかった調子ではなかった。


「茨木くん?」


「その名前、見たことがあります。演劇部の古い台本で」


「台本?」


「三十年前の文化祭公演です。配役表の端に、鉛筆で書き足されていました。でも、卒業アルバムには載っていなかった」


「なんでそんなこと覚えてるの?」


 茨木は、肖像画を見上げた。


「忘れられた役者の名前を覚えるのは、後輩の義務です」


 その言い方だけは、少しだけ本気に聞こえた。


 さっきまで気味悪く見えていた少女の目が、急に違って見えた。


 俺たちを(にら)んでいるんじゃない。

 ただ、ここを見続けていたのかもしれない。


 誰もいなくなった美術室を。

 夜になるたび暗くなる窓を。

 自分を描いた誰かが、戻ってこなかった時間を。


「……ちょっといいわね」


 中書島が扇子を胸に当て、静かに言った。


「残された絵が、三十年後も人を怖がらせるなんて。……それは、絵描きにとっても本望でしょう」


 怖さの輪郭が、少しだけ変わった。


 幽霊がいるかどうかは、まだ分からない。

 でも、この絵には確かに何かが残っていた。


 作者が意図したかどうかは分からない。

 それでも、伝えたかった気持ちのようなものは、ここに置き去りにされていた。


「……ここは、修繕の前に学校側へ確認が必要」


 高槻がメモに書き加えた。


「保存できるなら、保存した方がいいでしょうね」


 大山崎が肖像画を見上げる。


「筋肉も作品も、放置すれば劣化します」


「今だけは、ちょっとだけ良いこと言ってる風なのが腹立つな……」


 そのときだった。


 ぎい。


 廊下の向こうで、何かが軋む音がした。

 俺たちは一斉に振り返った。


 ぎい、ぎい。


 今度は、床の上を何かがゆっくり転がるような音だった。


「……車輪?」


 俺が呟くと、高槻が耳を澄ませた。


「……キャスターの音。たぶん」


 音は、美術室の前を通り過ぎていく。


 ぎい、ぎい。


 それはまるで、誰かが古い台車を押しているみたいだった。

 でも、こんな時間に台車を押す人間なんているはずがない。


「……理科室の方」


 高槻が、淡々と言った。


 理科室。

 その単語を聞いた瞬間、俺の頭に白い人体模型が浮かんだ。

 骨格模型じゃない。人体模型だ。内臓が見えているタイプの、あれだ。


 やめろ。

 想像力、今だけ仕事をするな。


 俺はもう一度、肖像画を見た。

 少女の目が、廊下の方を見ている気がした。


 いや、やめろ。

 頼むから、絵まで次回予告に参加しないでくれ。

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