噂その3:階段の途中で消える女
こつん。
三階女子トイレの前で聞こえた足音は、階段の途中で途切れていた。
次の現場は、三階から四階へ続く階段。
四階は現在、立入禁止になっている。
理由は老朽化。
床板の傷みが激しく、教師ですら滅多に近づかない。だからこそ七不思議になる。
「……四階って、立ち入り禁止だろ? 本当に入って大丈夫なの?」
俺は階段の下から上を見上げた。
踊り場の先は暗い。
懐中電灯を向けても、途中で光が沈む。手すりの塗装は剥げ、ところどころ黒い錆が浮いていた。
古い木の匂いがする。乾いた埃と、湿った板材の匂い。長い時間、人の気配だけを吸い込み続けた場所の匂いだった。
「そこへ敢えて踏み込むからこそ、怪談の正体を暴けるんですよ、根室さん」
大山崎は既に屈伸を始めていた。
「それに、ここを一段飛ばしで昇降すると、大腿四頭筋への負荷が一・七倍になります。幽霊調査と下半身強化を両立できる、非常に合理的な環境です」
「怪談調査がてら筋トレしないで!!」
七不思議、その三。
三階から四階へ続く階段で、白い服の女が消える。
夜の見回り中だった教師が、階段をゆっくり上っていく白い人影を見たという目撃談があったらしい。
声をかけても返事はない。追いかけると、女は踊り場で立ち止まり、そのまま闇へ溶けるように消えた。
残っていたのは、階段の隅に落ちていた白い糸くずだけだったという。
「……なあ、やっぱやめよう。今ならまだ帰れるって。今帰れば、俺はただの臆病者で済む」
「根室さん」
茨木が、ボロ布みたいなシーツを被ったまま俺の肩へ手を置いた。
「臆病者もまた、物語に必要な役割です」
「慰め方が演劇論なんだよ!」
とはいえ、一人だけで戻る勇気もなく、結局みんなで階段を調べることになった。
そのときだった。
こつ。
また音がした。
今度ははっきり聞こえた。
踊り場の上。
四階へ続く暗闇の奥から、乾いた足音が一度だけ響く。
俺は反射的にライトを向けた。
誰もいない。けれど、確かに今――。
「……聞こえたよね?」
「ええ、確かに」
答えたのは中書島だった。
彼女は階段の手前で立ち止まり、ゆっくり扇子を閉じる。
「安っぽいわね」
「え?」
「音の響き方がよ。恐怖を演出したいなら、もう少し余韻を考えるべきよ。反響が浅いわ」
「怪談相手に演出指導し始めた!?」
中書島は壁に指先を滑らせた。
「四階側だけ天井が低いのね。音が跳ね返っている。しかも床板が乾いているせいで、靴音だけが妙に前へ飛ぶような構造になってる」
「……反射音」
高槻が小さく呟いた。
「……壁の中、空洞が多い。……昔の通気路と配管、まだ残ってる」
高槻は懐中電灯で壁際を照らした。
「……音が迷うの。……三階で鳴ったみたいに聞こえても、本当は四階かもしれない」
「じゃあ、最初の足音も?」
「……たぶん」
「たぶんって言わないで。そこは肯定して!」
「でも」と高槻は踊り場を見上げた。
「……建物って、たまに音を忘れないから」
ぞわり、と背筋が粟立った。
「怖いことをさらっと詩的に言わないでくれる!?」
「けれど」
中書島が静かに暗闇を見つめた。
「この足音、そういう怪異的な音じゃないわね」
「……どういう意味?」
「歩幅が一定すぎるのよ。迷いも躊躇もない。……まるで、毎日同じ時間に、この階段を上っていた人間の歩き方だわ」
こつ。
また、上で音がした。
今度は少し近い。
俺は思わず肩を跳ねさせた。
「……やめてよ、そういうの」
「安心なさい」
中書島は薄く笑った。
「もし本当にいるのなら、恐怖感の演出は足りないにしろ、少なくとも格好の悪い歩き方ではないわ」
「評価ポイントそこなの!?」
「……ねえ。ここ、段差の幅が違う」
高槻が足元を照らした。
「踊り場だけ、約四センチくらい狭い。……人間の歩幅のリズムが、ここで一回だけズレる」
「リズム?」
「……階段は、足で読む楽譜みたいなものだから」
高槻は段差を光でなぞった。
「……ここだけ拍子がズレる。……床板の色も、一段だけ暗い。……だから白い服でも、一瞬だけ影に沈む」
俺には、その言葉の意味がしばらくわからなかった。彼女がしているのは消える女の話だ。つまり……。
「……消えたように見えたのは、錯視ってこと?」
「……そう。階段を登る時に、踊り場の手前で視線が一瞬だけ、足元に置いていかれる」
予想していない段差を踏めば、足元に意識を持っていかれる。
ほんの一瞬、視線が落ちる。
その一瞬で、白い服の女を見失う。
……理屈としては、分かる。
分かるけど、だから何だという話でもある。
確かに、踊り場の暗さは説明されたあとでもどこか不気味なほどだった。でも、本当に人の姿が見えなくなるのだろうか?
「では、僕が『消える女』を演じましょう」
茨木がシーツを翻した。
「茨木くん!?」
「怪談を理解した上で、なお再現する。……それが役者というものです」
そう言って、茨木は踊り場の中央へ立った。
懐中電灯が白い布を照らす。
ふわり、とシーツが揺れた。
次の瞬間。
輪郭が曖昧になった。
肩が壁の染みに溶ける。
白い布の端が、暗い床板へ吸い込まれる。
顔の位置にある闇だけが、不自然に深い。
「……消えた」
俺の声は、自分でも驚くくらい小さかった。
理屈は分かっている。
錯視だ。構造だ。光の問題だ。
それでも、人が消える瞬間を見てしまった目は、そんな説明をすぐには信じてくれない。
「根室さん」
闇の中から茨木の声がした。
「聞こえますか? 今、僕は怪談そのものです」
「しゃべった瞬間に台無しなんだよ!!」
「でも、怖がっていましたよね?」
「理屈が分かってても怖いもんは怖いんだって!」
目が慣れてきたのか、普通に茨木の姿を視界に捉えた俺は、思わず安堵のため息をついた。
「想像力が豊かなのは美徳ですよ」
大山崎は三段飛ばしで踊り場を越えながら言った。
「ちなみに三段飛ばしは危険なので、良い子は真似しないでくださいね」
「急に教育番組みたいに言うなよ」
こいつは本当に何をしに来たんだ。ジムに行った方が有意義に過ごせただろうに。
「……この踊り場の板、かなり傷んでる」
高槻が床を見つめた。
「……早めに補修したほうがいい」
もはや七不思議の調査というより、設備点検報告になりつつあった。
そのとき。
報告のメモを書いていた高槻が、不意に顔を上げた。
「……待って」
「今度は何!?」
「……なんか、どこからか見られてる気がする」
その言葉に、思わず背筋が凍った。
高槻が見ている方へ、懐中電灯を向ける。
踊り場の先。
四階へ続く廊下の奥。
そこには、美術室の扉があった。
少しだけ開いている。
その隙間の奥に、こちらを見ている何かがいた。
そう思った瞬間、俺はもう、気のせいだとは言えなくなっていた。




