噂その1:夜中にひとりでに鳴り出すピアノ
音楽室のドアを開けた瞬間、埃の匂いが流れ出した。
古い木。乾いた紙。錆びた金属。
そこに、長いあいだ誰も触れていない楽器特有の、冷たい沈黙が混じっている。
懐中電灯の光が、黒いグランドピアノを照らした。
蓋は閉じている。椅子もきちんと押し込まれている。
鍵盤の上には、埃が薄く積もっていた。
誰かが触れたなら、指の跡くらい残りそうなものなのに、白と黒の上には何もない。
なのに。
ポロン、と。鍵盤が鳴った。
「ひっ」
情けない声が出た。
でも仕方ない。深夜零時の旧校舎で、誰もいないはずの部屋のピアノが鳴ったら、普通の人間はこうなる。
ポロン。
また鳴った。
今度は少し低い音だった。
まるで暗闇の中で、見えない指が鍵盤を探しているみたいに。
俺は思わず悲鳴を上げかけたけど、声になる前に喉の奥で消えた。
「……あ」
高槻が、静かにピアノへ近づいた。怖がる様子は微塵もない。むしろ、何か珍しい虫でも見つけたみたいな顔をしている。
「高槻さん? 待って? 今の完全にアウトな音だったよ? これがホラー映画なら、近づいた人から順番に消えるやつだよ?」
高槻は答えず、懐中電灯をピアノの内部へ向けた。
「……ネズミが、リズムを刻んでる」
「え?」
「弦の間に、巣を作ってる。動くたびに弦に触れて……音が出てる。……拍子は四分の三。……ワルツ」
それだけ言って、高槻はまた首を傾けた。
解決、終わり。
いや、待て。
俺の心拍数はまだ未解決なんだけど。
「……旧校舎の沈黙に、小さな足音が拍を打ってる。……悪くない」
「悪くないで済ませられる精神が怖いんだけど!?」
俺の渾身の抗議に対して、高槻は軽く肩をすくめただけだった。
その直後。
「このネズミは、ショパンの生まれ変わりだ!」
茨木が叫んだ。
シーツを翻し、グランドピアノの前に仁王立ちになる。
「見ろ、根室さん! 夜ごとひとり、誰も聞かぬ音楽室で演奏し続けた哀れな魂が、小さな獣の身体を借りて帰ってきたんだ! 彼は弾きたいんだ、最後の一曲を!」
俺は思わず頭を抱えた。
ネズミに前世と未練を背負わせるな。
相手はたぶん、今夜の寝床を守りたいだけだ。
「茨木くん、それ普通にネズミだよ。あと、たぶんそこまでドラマ背負ってないよ」
「分かりませんよ。名もなき魂ほど、静かな場所で鳴るものです」
「ちょっと良いことっぽく言わないで」
「……このピアノ、調律がなっていないわ」
中書島が静かにピアノの前に座った。
白手袋をはめた指が、鍵盤をゆっくりと確かめていく。
「この『ド』は半音ずれている。この『ミ』は弦が緩んでいる。……貴方、こんな楽器で演奏させられていたの? 可哀想に」
彼女はネズミに向かって話しかけていた。
俺は思わず黙り込む。ネズミの人生相談に巻き込まれたくなかった。
中書島はそのまま、一方的に話を続ける。
「音楽に対する冒涜ね。たとえ演奏者がネズミであっても、舞台には相応の格式が必要よ」
ネズミの格式とは。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
出したら負けだと思った。
「俺が試そう」
大山崎が突然、グランドピアノの端に手をかけた。そのまま少し持ち上げる。
「祥平くん!? 何してるの!?」
「重さのバランスが気になりました。片側に重心が偏っているグランドピアノを持ち上げることで、左右の三角筋の均衡を確認できます」
「そんな確認いらない!!」
ここだけは叫ばせてほしい。
だって普通に危ない。
ゴトン、という振動が床を走った瞬間、ピアノの内部から黒い影が飛び出した。
ネズミだ。
一目散に、音楽室の隅の穴に消えていく。
静寂。
さっきまで確かにあったワルツは、もう聞こえない。
古いピアノも、暗い音楽室も、またただの沈黙に戻っていた。
「……解決した」
高槻がポツリと言った。
「解決したのは確かだけど、プロセスが怖すぎる……」
俺の声は、もう叫びというより、魂のため息だった。
そのとき。
こぽ、と。
廊下の奥で、水の鳴る音がした。
高槻が、ゆっくり顔を上げる。
「……次。三階女子トイレ」
「待って、やっぱりもう帰ろうよ」
俺は後ずさりながら言ったが、誰も帰る気はないようだった。




