おかしな始まり
俺はこの夜、人生で最大の後悔をしていた。
深夜零時。
星俊学園の旧校舎は、昼間とはまるで別の生き物だった。
昼間はただ古びているだけに見えた廊下も、今は違う。
月明かりは窓枠で細く切り刻まれ、床に白い檻みたいな影を落としている。懐中電灯を握る手が汗で滑った。光の輪が壁をなでるたび、古い染みが人の顔に見えた。
ぎしり。
床板が鳴る。
その音は廊下の奥へ吸い込まれて、しばらくしてから、もっと遠くで誰かが同じ音を返したように聞こえた。
帰れ。
壁も、床も、天井の隅に溜まった暗闇も、全部がそう言っている気がした。
そもそも、俺は来るつもりなんてなかったのだ。
放課後、軽い気持ちで「七不思議って本当にあるのかな」と言っただけだった。すると、なぜか話は三分後には「今夜、旧校舎を調査する」に変わり、五分後には中書島唯香によって参加者名簿に俺の名前が書き込まれていた。
抗議はした。
したが、風紀委員長の中書島は、俺の抗議を扇子の一振りで却下した。
そして今に至る。
なのに。
「根室さん、ライトをこちらに向けてください。背中のトレーニングをしながら前進します」
隣では大山崎祥平が、懐中電灯の光を広背筋のライトアップに使えないか真剣に検討していた。
俺はこの瞬間、理解した。
幽霊より怖いものは、この世にちゃんと存在する。
それは深夜の旧校舎で、自分の背中を照らそうとする同級生だ。
「茨木、貴方はさっきから何をブツブツ言っているの?」
中書島唯香は闇の中でも姿勢を崩さない。扇子を開き、閉じる音だけが、妙に上品に廊下へ響いた。
この人はたぶん、幽霊が出ても「まず名乗りなさい」と言う。しかも相手が名乗るまで帰さない。
「……唯香、聞こえないか? 三十年前、この場所で『主役』になれなかった誰かの、湿った溜息が」
茨木正輝はボロボロのシーツを被り、壁を這っていた。
やめろ。
普通に怖いし、普通に邪魔だ。
というか、その姿勢で移動できるのは才能なのか呪いなのか、俺には判断がつかなかった。
「根室さん」
茨木が、シーツの隙間からこちらを見た。
「もし僕が今夜、本物の怪異と出会ったらどうなると思います?」
「帰る」
「違います。役作りが完成します」
「帰らせてくれ!」
俺の叫びは、旧校舎の暗がりに情けなく吸い込まれた。
高槻ひかりは音楽室の方向を向いたまま、首を四十五度に傾けて固まっている。
彼女だけは、さっきから一度も騒いでいなかった。
懐中電灯もほとんど動かさず、じっと闇の奥を見ている。
まるで俺たちには聞こえない音を拾っているみたいに。
「……高槻さん?」
俺が声をかけると、高槻はゆっくり瞬きをした。
「……鳴った」
「え?」
「……音楽室。ピアノ」
その瞬間、背中に冷たいものが這った。
やめてくれ。
そういうのは、もう少し明るい時間帯に言ってほしい。できれば昼休み、購買の焼きそばパンを食べながら言ってほしい。
そして俺、根室毅は――。
「ねえ、本当にやるの? 俺、知ってるんだよ。七不思議の八番目は『調査に来た五人が仲間割れして別の怪談になる』っていうオチなんだから! ほら、祥平くん、ライトで自分の広背筋を照らすのやめて! 怖いから!」
誰も聞いていなかった。
旧校舎の奥で、何かが鳴った。
ポロン、と。
小さな音だった。
けれど、深夜零時の旧校舎では、その一音だけで十分だった。
全員が足を止める。
音楽室の扉は、廊下の突き当たりにあった。
古い木製の扉。曇ったガラス窓。そこに、俺たちの懐中電灯の光がぼんやり映っている。
中には誰もいないはずだった。
少なくとも、そういう話だった。
「……第一の七不思議」
高槻がぽつりと言った。
「夜中にひとりでに鳴り出すピアノ」
大山崎がうなずいた。
「では、入室前に軽く肩を温めておきます」
「温めるな! 空気を読め!」
中書島が扇子を閉じた。
「開けなさい、根室」
「なんで俺!?」
「一番いい悲鳴を上げそうだから」
その評価、人生で一度も欲しくなかった。
俺は震える手で、音楽室のドアノブに触れた。
金属は氷みたいに冷たかった。
そのとき。
ポロン。
今度は、はっきりと鳴った。
扉の向こうから。
まるで、俺たちを招くみたいに。
俺は心の中で、まだ見ぬ神様に祈った。
どうか幽霊でありますように。
少なくとも、この四人よりは話が通じますように。




