◇二.爆ぜ火◇
医療室。
白い光が、静かに落ちている。
機械音。消毒液の匂い。どこまでも均一な、感情を削ぎ落とした空間。
テオドーラは、椅子に座っていた。手のひらの上に、小さな緑の結晶。
血の筋が入り濁り、ひびが入っている。価値はほとんどない。
それを、ただ見つめている。
「……出ました」
報告の声は、静かだった。誰に向けたものでもない、ただの記録だ。
少し離れた場所で、ミラがそれを見ていた。
じっと。興味深そうに。
「……やっぱり綺麗ですね」
ぽつりと、言う。テオドーラの指先が、わずかに止まる。
「痛みから、そんな形になるなんて」
ミラは一歩、近づく。足取りは軽い。
壊れかけた身体が、わずかに軋む。
「私、そういうの、好きです」
屈託のない声。
テオドーラは、ゆっくりと顔を上げる。視線が合う。
黒い瞳と、まっすぐな瞳が交差する。
似ている。
どこか壊れているところも。
感情の扱い方が、歪んでいるところも。
でも。決定的に、違う。
ミラは、手を差し出した。
「触ってもいいですか?」
ためらいがない。テオドーラは一瞬だけ迷って、小さく頷いた。
ミラの指先が、宝石に触れる。
「……あったかい。まだ残ってるんですね」
少しだけ、驚いたように笑う。
「……何が、ですか」
テオドーラの声は、かすかに硬い。
ミラは、少し考えてから答える。
「そのときの気持ち、です」
当たり前みたいに。テオドーラの呼吸が、わずかに乱れる。
ミラは続ける。
「いいなあ」
また、その言葉。でも今度は、少しだけ違う響き。宝石を見つめる目は、どこか遠い。
「ちゃんと、ここに残るんですね。私、そういうの、残らないから。燃やして終わりなんです」
軽く言う。重さのない言い方で。
その言葉に、テオドーラの指が強く握られる。
ミラは気づかない。ただ、続ける。指先で宝石をなぞる。
「出力に変えて、使って、それでおしまい。もったいないですよね。せっかくの痛みなのに」
その瞬間。テオドーラの中で、何かがはっきりと形を持つ。
違う。この人は、違う。
テオドーラは、宝石を握りしめ、胸元に引き寄せる。守るみたいに。
「……これは」
声が震える。
うまく言葉にならない。
それでも、絞り出す。
「これは、残ったものじゃ、ありません」
ミラが首を傾げる。
「……?」
「残されたものです」
その言葉は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
ミラの動きが、少しだけ止まる。テオドーラは続ける。
「これは……」視線が揺れる。それでも、逸らさない。
「……消えなかったものです」
ミラは、しばらく黙る。宝石を見る。テオドーラを見る。
それから、少しだけ考えて。
「……違うんですね。同じだと思ってましたけど、全然違いました」
テオドーラの胸が、わずかに痛む。ミラは、手を引いた。宝石から離れる。
「あなたのは、残すものなんですね。私のは、燃やすものです」
それだけの違い。でも、それはどうしても交わらない違いだった。ミラは、少しだけ楽しそうに言う。
「でも、なんだか、面白いですね」
テオドーラは、何も言えない。ただ、宝石を握りしめる。
それは、自分の中に残ったもの。消えなかったもの。捨てられなかったもの。
ミラは、それを使い切る。燃やして、何も残さない。
同じように壊れているのに。同じように使われているのに。
決定的に違う。その事実だけが、静かに残る。
医療室の白い光の中。二人は初めて、互いを理解した。そして同時に、分かり合えないことも理解した。
◇
静寂を破るように、ドーナツは彼女の宝石を買い取ることを宣言した。
医療室のカーテンが、静かに閉まる。ドーナツは振り返らなかった。
手の中には、あの宝石。血の筋が残る、くすんだ緑。
歩く速度は一定。迷いも、逡巡もない。
ただ、一直線に進んでいく。
その背中を、ミラは見ていた。じっと。テオドーラの隣で。
「……変ですね」
ぽつりと呟く。テオドーラがわずかに視線を向ける。
「何が、ですか」
ミラは少し考えて、それから素直に言う。
「らしくないです」
その一言は、あまりにもあっさりとしていた。
オリビンの胸が、わずかにざわつく。ミラは指を顎に当てる。
「クロウはもっと、効率的に動きます。でも今のは違う。無駄が多いです。直線すぎる。まるで、何かに引っ張られているみたいです」
ミラは小さく首を傾げる。
「……ああいうの、ヒーローっぽいですね」
少しだけ嬉しそうに言う。その言葉に、テオドーラは何も返せない。
ただ、さっきのドーナツの背中を思い出す。
あれは命令する側の背中ではなかった。
何かを、追いかける人の背中だった。
そのとき、ドーナツの足が止まる。
振り返らないまま、言う。
「……お前たち。今日はもう休め」
命令。
短く、余地のない言い方。
テオドーラはすぐに答える。
「了解しました」
ミラは、ほんの一瞬だけ間を置いてから。
「……はーい」
軽く返事をする。でも、その目はまだ、彼の背中を見ていた。
ドーナツは、それ以上何も言わない。再び歩き出す。
今度こそ、完全に二人を置き去りにして。
その足取りは、やはり迷いがなかった。
ついてきてほしくなかった。それだけが、はっきりと伝わる。
ミラは、小さく呟く。
「……秘密、ってことですね」
楽しそうに。
テオドーラは、何も言えない。
ただ、自分の胸の奥に残った違和感を、握りしめる。
それは、名前のない不安だった。
◇
研究棟、最深部。
温度も、湿度も、音すらも管理された空間。
ドーナツは扉を開ける。
「来ると思っていました」
振り返らずに、ラプラスが言う。白衣の背中。端末に流れる数値。すべてが、いつも通り。
ドーナツは答えない。ただ、ポケットから宝石を取り出し、机の上に置く。
小さな音。
血の筋が、光を歪ませる。
ラプラスはそれを一瞥する。ほんの一瞬だけ、視線が止まる。
「……新しいサンプルですね」
「これで作れ。アッシュ・リバースのトリガーだ」
間髪入れずに言う。指示は簡潔だった。
ラプラスは、ゆっくりと振り返る。銀縁の奥の瞳が、わずかに細められる。
「……理解しているのですか」
問いではない。確認でもない。観測だった。
ドーナツは短く答える。
「ああ」
ラプラスは宝石を手に取る。光に透かす。
濁り。ひび。血の筋。
「これは、作れたとしても不安定です。純度は低い。ですが、感情の濃度は高い。適しています」
机に置く。
ドーナツは頷かない。ただ、次を待っている。
ラプラスは端末を操作しながら続ける。
「説明は不要ですか」
「いらない」
即答。その速さに、ラプラスの手が一瞬だけ止まる。
「……そうですか」わずかに、声の温度が下がる。
「では確認だけ。これは時間の巻き戻しではない。消費です。あなたが吸うたびに、彼女の時間が削れる。それでも使うのですか」
「使う」
ドーナツの答えは、変わらない。迷いはない。
ラプラスは、一瞬だけ目を伏せる。そして、淡々と告げる。
「……非合理です」
それは、いつもの評価。だが、今回はわずかに違った。
ほんの少し警告に近い響き。
「あなたはすでに、結果を知っているように見える。それでもなお、同じ手段を選択している。それは最適化ではない。依存です」
言い切る。
静かに。
逃げ場なく。
ドーナツは、何も言わない。
ラプラスは宝石を装置にセットする。
機械音が、規則正しく響き始める。
「……もう一つ、警告しておきます。回数を重ねるほど、誤差は蓄積する」
光が、わずかに歪む。それでも手は止まらない。
「いずれ、戻れなくなる。そのとき、あなたが見ているものが同じ世界である保証はありません」
「構わない」
「……そうですか」
それ以上は何も言わない。
ただ、記録に残す。
この選択を。この異常を。
やがて、一本の煙草が机に置かれる。
くすんだ緑を内包した、歪な一本。
ドーナツはそれを手に取る。
迷いなく。
当たり前みたいに。
ラプラスは、その背中を見ている。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「……それは、救済ではない」
ドーナツは振り返らない。
ただ、扉へ向かう。
その背中は、まっすぐだった。
どこまでも。壊れる方向へ。




