◇三.引火◇
医務室を出たあと、廊下はやけに長く感じた。
照明は白く、足音だけが規則的に響く。
女子宿舎は同じ方向だった。
並んで歩いているはずなのに、テオドーラはほんの半歩だけ後ろに下がっていた。
意識しているわけじゃない。
でも、身体が勝手に距離を取る。
ミラは気づかない。一定のリズムで歩きながら、時折、腕の中のぬいぐるみを抱え直す。
擦り切れた布。ほつれた縫い目。片目が落ちたままの、小さなヒーロー。
その指先は、白くなるほど強く握られていた。
テオドーラの喉の奥に、わずかな痛みが走る。
胸の奥とは別の、もっと物理的な痛み。さっき、宝石を排出したばかりだからだ。
じくじくとした違和感が、呼吸のたびに残る。
その痛みと、さっきの言葉が、混ざる。
「……」
視線を上げる。ミラの横顔。
規定から外れた軍服。サイズの合っていない袖。無理に継ぎ足された装甲の跡。
そして、片方の目。
濁っている。
焦点が合っているのか、いないのか分からないまま、それでも前を見ている。
テオドーラは、理解する。この子も、壊れている。
自分と同じ場所にいる。
ただ、その壊れ方が違うだけだと。
足が、少しだけ前に出る。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
何かを言おうとする。
理解しようとする。
その時。
「……さっきの」
ミラが、先に口を開いた。テオドーラの動きが止まる。
「きれいでした。その宝石」
テオドーラの指が、わずかに強く握られる。
ポケットの中で、冷たい感触が沈む。
「痛かったですよね。でも、ちゃんと残ってる」
声はやわらかい。気遣うような響き。
でも、その先が、違う。
一歩、前に進む。
ミラの歩幅は小さいのに一定だ。少しだけ、彼女のぬいぐるみを抱きしめる力が強くなる。
「私は、ああいうの出ないから。だから……」
一瞬だけ、考える間。そして、迷いなく言う。
「本当に、羨ましいです。あなたのようになりたい。最後に生み出した宝石で、誰かが助かるなら。それって、良いことじゃないですか?」
静寂。
テオドーラは、立ち止まっていた。足が動かない。
理解しようとしたものが、音を立てて崩れる。
違う。この子は、同じじゃない。
同じ地獄にいるのに見ているものが、違いすぎる。
「……あなたは」
声が、かすれる。でも、逃げない。ちゃんと、言う。
「それを……、良いことだと、思えるんですか」
ミラは、初めて少しだけ首を傾けた。本気で、問いの意味を考えるように。
「……はい」
迷いなく、答える。その純粋さが、決定的だった。
テオドーラの瞳から、何かが消える。
「……違う。私は、あなたとは、違う。私のものは、苦しくて、痛くて……」
それは拒絶と否定、そして、明確な境界線だった。
ミラは、少しだけ目を瞬かせる。
傷ついた顔は、しない。
ただ、受け取る。
「……そうですか。ねえ、オリビン」
前を歩くミラが、ふと立ち止まって振り返った。その瞳は濁っているのに、射抜くような純粋さでテオドーラを捉える。
「私は、出力が高すぎて中身がすぐ焼けちゃうんです。だから、もし私が壊れたら……このパーツ、誰かが再利用してくれるのかな。それとも、ただのゴミになるのかな」
ミラは自分の腕の接続ポートを弄りながら、明日の天気を占うような軽さで言った。
「……再利用、ですか」
「はい! 誰かの役に立ってからゴミになりたいんです。ヒーローの部品なら、かっこいいじゃないですか」
ミラの無邪気な期待が、テオドーラの喉を鋭く切り裂いた。
テオドーラにとっての死。宝石化は、再利用されることが確定している未来だ。それは期待などではない。
自分が死んだ後も、その苦痛の結晶を誰かが拾い、削り、消費し続けることが決まっているという、逃げ場のない収奪の連鎖。
(私は……ゴミにすら、なれない)
死んでなお、自分は誰かの資源であり続ける。その絶望的な差異が、隣を歩く少女との間に、底知れない深淵となって口を開けた。
「……あなたは、幸せですね」
絞り出した声は、ミラの耳には届かないほど低く、震えていた。
テオドーラは、一歩下がる。さっき縮めた距離を、自分で戻す。
もう、近づかないように。これ以上、踏み込まないように。
同じ方向に歩いている。
同じ場所へ帰る。
でも、その間にあるものは、もう埋まらない。




