◇四.微熱◇
女子宿舎の廊下は、夜になると音が消え、灯りだけが残る。
ミラは、自室の前で立ち止まった。
鍵を開ける。
扉を押す。
いつもと同じ動作。
何も変わらないはずだった。部屋の中は狭い。
整頓されているわけでも、散らかっているわけでもない。
ただ、必要なものだけがある。
ベッド。簡易机。
そして、手の中のぬいぐるみ。
ミラはそれを、そっとベッドの上に置く。
……置いてから、すぐに拾い上げる。少しだけ考えて、やっぱり抱え直す。
「……」
静かだ。やけに静かだった。耳の奥で、まださっきの言葉が残っている。
『あなたとは、違う』
ミラは、首をかしげる。その場では、よく分からなかった。
否定された、という事実は理解している。
でも、それが何を意味するのかが分からない。
「……違う、って……、変、だったかな」
自分の言葉を思い返す。
宝石。
きれいだった。ちゃんと意味があった。
誰かが助かるなら、いいことだと思った。
それは、間違っていないはずだ。
ずっと、そう教えられてきた。
そう考えるように、なっていた。
なのに。
『違う』
その一言だけが、引っかかる。
「……なんで?」
問いは、誰にも向けられていない。
だから、答えも、返ってこない。
その中で、ふと。さっきの光景が、浮かぶ。
テオドーラの手。宝石を握っていた指が、震えていたことを。
ミラの呼吸が、わずかに止まる。
「……あ」
ぱちん。パズルのピースをはめるみたいに小さな音。
思考が、ひとつ繋がる。
きれいだった。
でも。あの時。あの人は、嬉しそうじゃなかった?
ミラの指から、力が抜ける。ぬいぐるみが、少しだけずれる。
「……痛いって……、あれは、いいこと、じゃなかった?」
初めての疑問だった。
今まで、一度も考えたことがなかった問い。
ミラは、自分の胸に手を当てる。
鼓動は、いつも通り。でも、何かが違う。
内側が、ざらついている。
「……そっか」
ぽつりと。理解が、遅れて届く。
「いやだったんだ」
静かな結論。誰にも教えられていない答え。
自分で辿り着いた、初めての認識。
ミラは、ぬいぐるみを強く抱きしめる。
いつもより、少しだけ強く。布が軋む。
「……ごめんなさい」
小さな声。
届かない相手に向けた、今さらの謝罪だった。
その瞬間。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
ミラは、少しだけ目を見開く。その感覚に、戸惑う。
「……あれ」
もう一度、確かめるように触れる。
同じ場所。
同じ違和感。
これは、知っている痛みじゃない。
訓練でも。
戦闘でも。
壊れる前触れでもない。
「……これ、……やだ」
言葉を探す。
うまく見つからない。
ぽろりと零れた、とても小さな本音だった。
ミラは、自分で驚く。
やだなんて、思ったことがなかった。
壊れることも。
消えることも。全部、当たり前だったから。
でも今は、違う。
胸が、少しだけ痛い。
その理由が、分かってしまったから。
ミラは、ぬいぐるみを抱えたまま、ベッドに横になる。
目を閉じる。
暗闇の中で、さっきの言葉が浮かぶ。
『あなたとは、違う』
今なら、少しだけ分かる。あれは、拒絶だった。
でも、それだけじゃない。
線を引かれたのだ。ここから先には、来ないでって。
「……でも、知りたいな」
壊れることを恐れない子供が、初めて持った願い。
痛みの意味を。あの人の見ている世界を。
まだ、名前のつかない感情のまま。
ミラの中で、何かがゆっくりと変わり始めていた。
◇
整備室の中央で、ミラは椅子に座っていた。
足が、やっぱり床に届かない。ぶらぶらと揺れている。
背後では、外骨格が分解されていた。
プレートが外され、ケーブルが引き抜かれ、内部構造が露出する。
「出力ログを確認します」
ラプラスの声。いつも通り、温度がない。
「はい!」
ミラは、少しだけ元気よく返事をする。
でも。いつもより、ほんの少しだけ声が小さい。
ラプラスは端末を操作する。
数値。波形。誤差。
すべてを、無駄なく処理していく。
沈黙。
ミラは、しばらくそれを見ていた。見ているだけだった。けれど。
「……あの」
ぽつりと、声を出す。
ラプラスの手は止まらない。
「質問ですか」
「はい」
即答。でも、そのあと少しだけ間が空く。ミラは、言葉を探している。珍しく。
「……どうすれば。どうすれば、いいですか」
ラプラスの手が、ほんの一瞬だけ止まる。ほんの一瞬。
それから、また動き出す。
「対象を明確にしてください」
淡々とした返答。ミラは頷く。
「オリビンです。……あの人と、仲直りしたいです」
整備室の音だけが、しばらく流れる。
ラプラスは、何も言わない。ただ、データを見ている。
だが。思考は、別のところにある。
変化。
それは誤差として記録されるもの。
ミラ・ヴァレンタイン。自己損耗を前提とした運用個体。価値判断は単純。
効率優先。
倫理無視、だったはずだ。
だが今は違う。
「仲直りの定義を確認します。関係性の修復。敵対状態の解消。認識の再構築」
「はい、たぶんそれです」
ミラは素直に頷く。少しだけ曖昧な理解のまま。
「あと……、知りたいです」
「何を」
「オリビンが、何を見てるのか」
ラプラスの指が、わずかに止まる。ほんの、わずかに。
メンバーの観測。
それは、本来ドーナツ、指揮官の領域だ。
だが今、ミラはそれを口にした。無自覚に。
ラプラスはゆっくりと息を吐く。極めて小さく。
誰にも聞こえないレベルで。
「理解しました。あなたの発言は、対象の価値観を否定しています」
ミラが、少しだけ目を瞬かせる。
「否定……?」
「はい。あなたは価値のある死を肯定した」
「はい」
「対象はそれを否定している」
短い沈黙。ミラは、考える。
「……違うんですね」
「はい」
「では、どうすればいいですか」
ミラは、すぐに次を聞く。
迷わない。それが彼女の強さでもあり、危うさでもある。
ラプラスは、端末を操作しながら答える。
「結論。価値判断を提示しないこと」
「……?」
「対象は現在、痛みを主観的経験として保持しています。そこに対して価値を与える行為は、外部からの意味付けになります」
「外から……」
「はい。意味付けは、観測の干渉です」
観測すれば、結果は変わる。
「よって、あなたが行うべきは、評価ではなく共有です」
「共有……」
「はい。同じように思う、ではなく、同じように見ることです」
「……見る」ミラの瞳が、わずかに揺れる。
「はい。対象が何を見ているかを、そのまま受け取る」
ラプラスはようやく、ほんの少しだけミラに視線を向ける。
「理解できなくても問題ありません」
「……いいんですか」
「はい。理解は結果です。過程ではありません」
ミラは、少しだけ黙る。それから。
「……分かりました。じゃあ次は、きれいって言いません」
ラプラスは、わずかに目を細める。
それは感情ではない。
ただの、観測結果の更新。
だが。ほんのわずかに、予測から外れた変数に対する興味が生まれていた。
「推奨。代わりに、事実を述べてください」
「事実?」
「はい」
ラプラスは端末に視線を戻す。
「痛そうですね、で十分です」
沈黙。ミラは、それを頭の中で繰り返す。少しだけ、安心したように。
「……痛そうですね。……それなら、言えます」
整備室の音が、また規則正しく流れ始める。
ミラの足は、まだ床に届かない。
でも。ほんの少し、前よりも地面に近づいた気がした。
◇Tips◇
■観測ログ:第2048サイクル/特定個体群【クロウ班】
■記録者:ラプラス
■更新内容:因果変動の検知
計算が合わない。
第2030サイクル以前の統計によれば、当該任務におけるクロウ班の全滅確率は87.2%であった。しかし、個体名【ミラ(EMBER)】の介入以降、その数値は21.4%まで急落している。
生存率の上昇。本来ならば成功と定義されるべき偏差だ。
だが、代償としての連鎖崩壊確率が異常な上昇を見せている。
エンバーが他者の損耗を肩代わりし、クロウがその歪みをアッシュ・リバースで強引に整律する。
この挙動は、運命の先延ばしに過ぎない。
一人が助かるたびに、別の誰かの内部構造に、数値化できない澱が蓄積していく。
……警告。
因果の保存則は、この部隊を許容しない。
全滅という結末を回避した報いは、より残酷な【個体そのものの質的変質】として現れるだろう。
それは救済ではない。
ただの、壊れ方の変更である。




