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◇六.歪みの始まり◇

 ドーナツは、その場に座り込む。彼女を抱えたまま。動かない。何も壊れていない。何も失敗していない。それなのにすべてが終わっている。


 理解する。守ることに意味はなかった。関わること自体が、すでに結果だった。ポケットに手を入れる。煙草がある。でも手が止まる。

 初めてやり直す理由が分からなくなる。


 それでも彼は、一本取り出す。

 火をつける。煙が、ゆっくりと上がる。その中で彼は、たった一つだけ願う。

「もう一度、あの言葉を聞きたい」

 救うためじゃない。ただ、それだけのために。

 

 指の間に挟まった一本には、彼女の命を削って精製された燃料が詰まっている。

 かつて、この煙は毒だった。

 一口吸い込むたびに全身の細胞が悲鳴を上げ、彼女の苦痛が直接脳を殴りつけてくるような拒絶感があった。だが、今、肺を満たす紫煙は驚くほど滑らかで、春の陽だまりのような甘ささえ含んでいる。

 慣れとは、何よりも残酷な浸食だ。味覚が摩痺し、痛覚が消える。彼女の死を甘美なやり直しのための儀式として、身体が受け入れ始めている。

 白く漂う煙の向こう側。かつて血の味がしたはずの空間には、もう何の刺激も残っていなかった。


◇Tips.◇


 この世界には、【時間が戻る】という現象が、確かに存在している。

 ただし、それは奇跡でも祝福でもない。記録されず、証明もされず。誰にも共有されないまま、ただ一部の人間だけが知っている歪みのようなものだ。

 煙が、引き金になる。

 火をつけ、吸い込み、肺の奥に沈める。その一連の行為が、ある条件下でのみ、時間を巻き戻す鍵となる。

 だが、その条件は明文化されていない。

 ただ一つ、観測されている事実がある。

 誰かが、死ぬこと。

 それも、ごく限られた特定の存在が。死を起点に時間は静かに折り畳まれ、過去へと還る。だが、その記憶を保持できる者は、極めて少ない。

 そして、その少数の中にひとりの男がいた。


 世界は一見、平穏に見える。

 国家は均衡を保ち、軍は秩序を維持し、人々は日常を生きている。だがその裏側では、異質な存在が管理されている。

 宝石を生む者。涙と共に、結晶を零す者たち。

 それは美しく、希少で、高値で取引される資源でもある。同時に、忌避される呪いでもあった。

 彼らは長く生きられない。理由は分からない。

 医学でも、魔術でも、未だ解明されていない。ただ共通しているのは、例外なく若くして死ぬという事実だけだった。

 その一族は、二つの選択を迫られる。

 血を繋ぎ、呪いを次代へ渡すか。

 あるいは、自らの代で終わらせるか。

 彼女は、後者を選んだ。


 軍に所属し、自らを消耗させる道を選び、誰にも未来を残さないと決めた少女。

 コードネーム、オリビン。

 彼女の涙は、深い緑をしていた。

 そしてもう一人。

 その死を、何度も見届けてしまった男。

 コードネーム、クロウ。

 彼は、煙を使う。繰り返す。何度でも。

 彼女が死なない未来を、掴むために。


 だが、世界はまだ、彼に教えていない。

 その行為こそが、彼女の死を、固定しているのだということを。


 これは、やり直し続けた男が、やり直すことをやめるまでの物語。そして、終わらせることでしか、救えなかったふたりの記録である。


◇Tips.◇


【機密指定:第Ⅲ種】

【閲覧権限:上級将校以上】


■件名

 特異現象【アッシュ・リバース】に関する観測報告


■概要

 本報告書は、近年複数回観測されている時間逆行現象(通称:アッシュ・リバース)について、現時点で確認されている事実および関連対象の情報を整理したものである。

 当該現象は、通常の時間進行に対し局所的な巻き戻りを引き起こすものであり、観測範囲は個人単位に限定される傾向が強い。

 なお、発生時の記録は基本的に消失するため、再現性および客観的検証は極めて困難である。


■発生条件(暫定)


 以下の条件が重複した際に発生する可能性が高い:


 1. 特定個体の死亡

 2. 喫煙行為の実行

 3. 観測者の強い意思(詳細不明)

 ※いずれも確定条件ではなく、相関関係に留まる。


■関連対象


▼対象A

 コードネーム:オリビン

 識別:特異体(涙結晶生成型)

 特徴:涙腺より高純度結晶(緑色系)を生成

 寿命:平均20歳未満(過去記録より例外なし)

 備考:当該個体の死亡が、現象発生のトリガーである可能性が高い。


▼対象B

 コードネーム:クロウ

 識別:観測者

 所属:中央軍・特殊任務部隊

 特徴:当該現象発生後も記憶を保持する唯一の確認個体

 備考:喫煙行為との関連性が指摘されている。

 また、対象Aとの接触頻度が極めて高い。


■観測結果


 複数回の報告において、以下の傾向が確認されている:


 ・対象Aは例外なく死亡する

 ・死亡要因は一定しない(外傷/疾病/不明)

 ・対象Bは当該結果を回避する行動を取るが、成功例は確認されていない


■考察


 現象の本質は時間逆行ではなく、「特定結果への収束」である可能性がある。

 すなわち、観測が継続される限り、結果は固定される。


■補足記録(抜粋)


 記録番号:AR-27

 対象Bは対象Aを戦場から完全に隔離。

 健康状態の維持も確認。

 外的要因による死亡リスクは排除されていた。


 結果:


 対象A、原因不明の心停止により死亡。



 記録番号:AR-43


 対象Bは対象Aとの接触を意図的に断絶。

 任務配置を変更し、関与を排除。


 結果:


 対象A、別任務中に死亡。

 対象Bは当該時刻に現場不在。



 記録番号:AR-58


 対象A、自発的に死亡(詳細不明)

 対象B、現場にて観測


 備考:本記録において、対象Aは対象Bに対し発言を残している。


 内容は記録されていない。



■結論(暫定)


 対象Aの生存は、いかなる条件下においても確認されていない。

 また、対象Bの介入は結果に影響を与えない可能性が高い。


■付記

 観測を停止した場合の挙動については、未確認。

 ──以上


【手書き追記(記録者不明)】

「これは救済ではない。ただの反復だ。……誰が、これを望んでいる?」


【反復編・了】

 to be continued.

◆◆◆◆◆

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