◇五.反復◇
医療室は、変わらない。
白い床。淡い光。消毒液の匂い。
すべてが、記憶と一致する。嫌になるほど、正確に。
テオドーラが椅子に座っている。少し俯いている。
ドーナツは、その光景を見た瞬間に足を止めた。
来る。
分かっている。彼女は、言う。
「……出ます」
ぽとり、と音がする。
床に落ちた、緑の宝石。
濁り。ひび。血の筋。
同じだ。寸分違わない。
記録係が、小さく呟く。
「……廃棄対象です」
その言葉に彼女の肩が、震える。
「……申し訳ありません」
小さな声。また一粒、落ちる。
同じように、価値のない結晶。
ドーナツの胸の奥が強く軋む。
分かっている。このあと、自分は言う。
謝るな、と。
あの時は、何も考えていなかった。ただ、許せなかったから言った。でも今は分かってしまっている。
この一言が彼女の中に何を残したか。
この言葉がどれだけ彼女を変えてしまったか。
そしてその結果、彼女は死ぬ。
喉が詰まる。言えばいいのか、言わなければいいのか分からない。ほんの一瞬迷う。
その迷いが、前回との決定的な違い。
テオドーラが顔を上げる。黒い瞳が、わずかに揺れる。
「……申し訳ありません」
同じ言葉。同じ声。でももう同じ意味では聞こえない。
ドーナツは息を吐いて、言った。同じ言葉を。
「……謝るな」
だが、声が違う。
低く抑えた、どこか、苦しそうな声。
テオドーラが、少しだけ目を見開く。その反応も少しだけ違う。
ドーナツは、しゃがみ込む。床の宝石を拾う。
冷たい。濁っている。血の筋が、指に触れる。
ドーナツは、宝石を見つめる。前回は価値がないことが許せなかった。だから買った。価値を付与した。
でも今回は違う。
彼は、知っている。この宝石が、世界を変えることを。この涙が、時間を巻き戻す燃料になることを。彼女の苦しみが、消費されることを。
それでも。それでも彼は、言う。
「これは、俺が買い取る」
記録係が顔を上げる。
「規定の五倍で」
「ですが、それは……」
「いい」
短く、遮る。
テオドーラが、静かに言う。
「……価値は、ありません」
同じ言葉。同じ諦め。
ドーナツは、ほんのわずかに笑った。前と同じように。
だが、意味は違う。
「価値は、俺が決める」
そう言って宝石をポケットにしまう。その動作は、同じ。でも理由が違う。前回は衝動だった。今回は意志だ。
彼女を救うために、彼女を消費することを、選んでいる。その事実を覚悟した上で選んでいる。
テオドーラの瞳が、わずかに揺れる。何かを感じ取ったように。
その感情にまだ、名前はない。
ドーナツは立ち上がる。何も言わずに、背を向ける。
その歩みは、重かった。
◇
任務前。
瓦礫の多い旧市街。崩落リスクあり。
前回と同じ条件。
ここで、彼女は死ぬ。
ドーナツは配置図を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
「ルートを変更する」
部下たちが顔を上げる。
「侵入経路を西側にずらせ。崩落ポイントを回避する」
「しかし、それでは接触が遅れます」
「構わない。被害を抑える」
短く、断定する。前回とは違う選択。テオドーラが、静かに彼を見ている。その視線に、わずかな違和感が混じる。彼女が問い掛けた。
「……クロウ。このルートは、最適ではありません」
いつも通りの淡々とした声。至極、合理的な指摘。
そして、言わなかったはずの言葉。
ドーナツは一瞬だけ、反応が遅れる。
「最適じゃなくてもいい。生き残る方を取る」
その言葉に、テオドーラの瞳が少しだけ揺れる。
理解ではない。
違和感。
違和感……。
彼女は頷く。
「了解しました」
返事は、ほんの少しだけ、遅れた。
◇
任務開始。
予定通り、西側ルートで侵入。崩落ポイントは回避。
(成功している)
ドーナツの呼吸が、わずかに軽くなる。
変えられた。そう思った瞬間、異音。
軋む音。天井ではない。足元からだった。
「──下がれ!」
叫ぶ。だが、遅い。
地面が崩れる。
想定外の、二次崩落。
『……クロウ。このルートは、最適ではありません』
起きなかったはずの事故。
崩落に、部下が一人、巻き込まれる。
テオドーラが、動く。迷いなく。
前と同じ速度で。同じ選択で。庇う。
「待……ッ」
声が届く前に衝撃。
瓦礫。血。そして、静寂。
彼女は倒れている。前と同じように。
いや、少しだけ違う場所で。だが、結果は同じ。
ドーナツは、動けない。
呼吸が浅くなる。
「……なぜ」掠れた声。
変えたはずだ。選択を。ルートを。タイミングを。すべて。それでも、彼女はここにいる。
テオドーラが、ゆっくりと目を開ける。
血に濡れたまま、彼を見て、小さく呟く。
「……やっぱり」
ドーナツの心臓が、止まるような気がした。
「……何が」
声が震える。彼女は、わずかに笑った。前と同じような、どこか違う笑み。息は浅い。それでも、続ける。
「今日の……、あなたは、少しだけ……、変です」
静かな言葉。断定でも、疑いでもない。
違和感の報告。
ドーナツは言葉を失う。
彼女は続ける。
「いつもなら……、もっと、合理的に動きます……。でも、今日は……、私を、避けるように動いた」
図星だった。完全に。見抜かれている。
理由は知らないはずなのに。ただ、結果だけを正確に捉えている。
テオドーラは、ほんの少しだけ目を細める。
「不思議、ですね……。初めてなのに……、あなたの行動が、少しだけ、懐かしい気がします……」
ドーナツの呼吸が止まる。
彼女には、以前の記憶はない。
でも、何かが残っている。
それは逃げ場のない現実だ。
彼女は、ゆっくりと目を閉じる。
「……でも、嫌いじゃ、ないです……」
それだけを残して、意識が落ちる。
ドーナツは、その場に立ち尽くす。
何も変わらなかった。
変えたはずなのに。いや、変えたからこそ、別の形で壊れた。
手が震える。煙草を取り出す。火をつける。吸い込む。
煙が、やけに重い。
「……ふざけるな」
初めて、運命という言葉が、現実になった気がした。
それでも彼は、吸い切る。
理由は、もう一つだけ。
次は、もっと上手くやる。
◇
その周回で、ドーナツは一切の誤差を許さなかった。
任務は外す。前線には出さない。
配置は後方。接触リスク、ゼロ。食事管理。睡眠時間。医療チェック。すべて完璧だ。
彼女が死ぬ要因をひとつ残らず、排除した。
テオドーラは、最初こそ戸惑っていた。
「……私は戦力です」静かな抗議。
「分かっている」短く返す。
「でも今回は、違う」
それ以上は説明しない。説明できない。
彼女は、少しだけ考えてから「了解しました」と、頷いた。
◇
数日が過ぎる。
何も起きない。本当に何も起きない。
戦闘なし。負傷なし。異常接触なし。
ドーナツの中にわずかな希望が灯る。
ある朝。窓の外は、穏やかな光だった。
テオドーラが、隣に立つ。
「……静かですね」ぽつりと呟く。
ドーナツは頷く。
「ああ」
それだけの会話。でもそれだけで十分だった。
彼女が、生きている。それだけで彼の世界は成立していた
テオドーラが、ふと彼を見る。
緑の光が灯る黒い瞳。静かで、まっすぐな視線。
「……クロウ」
「なんだ」
「あなたはどうして、そこまで私を守るのですか」
ドーナツは答えない。答えられない。
理由はある。でも、それはこの世界には存在しない。
沈黙。テオドーラは、少しだけ困ったように笑った。
「変な人ですね」
穏やかな声。それからとても自然に続ける。
「でも、嫌いではありません」
ドーナツの呼吸が、わずかに揺れる。
理由はない。根拠もない。
それでも彼女は初めて、そう言った。
テオドーラは、窓の外に目を向ける。
「不思議です。初めて会ったはずなのに。あなたといると、ほんの少しだけ安心する気がします」
ドーナツは、何も言えなかった。それは、積み重ねの残響であり、彼女の知らない時間の蓄積だ。
理由のない信頼。
それが、ここにある。
◇
その日の午後。
何の前触れもなくテオドーラは、倒れた。音もなく。崩れるように。
「……っ」
ドーナツが支える。
呼吸、正常。外傷、なし。異常が、ない。
なのに彼女は動かない。
「……テオドーラ」
コードネームではない。本名で呼ぶ。
反応はない。
静かに、本当に静かに。
命が終わっていく。
彼は理解する。
ここまで来ても、変わらない。
原因は外側じゃない。彼女の中にある。
テオドーラの指が、わずかに動く。
最後の力で彼の服を掴む。
「……ドーナツ」
かすかな声。彼は顔を近づける。
彼女は、微笑んだ。
穏やかに。何も知らないまま。
でも、何かだけは知っている顔で。
「……やっぱり、あなたのそばが……」
そこで声が途切れる。呼吸が、止まる。
静寂。




