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◇三.灰燼回帰(アッシュ・リバース)◇

 転機は、ラプラスとの会話だった。空白の一年が終わりに近づいた頃、ドーナツは研究棟の最深部に足を運んだ。

 白い廊下の奥、温度も湿度も完璧に管理された部屋。そこにいたのは、リュシアン・カルネリウス──コードネーム【ラプラス】。

 細身の長身。青みがかった灰色の髪を無造作に流し、銀縁の眼鏡の奥に淡い金の瞳を潜ませた男。

 白衣の下に黒の軍用インナーを着込み、手には常に薄い手袋。表情はほとんど動かない。感情を切り落としたような、無機質な美しさを持っていた。

 管理局きっての異常現象解析者。

 かつては感情で判断した結果、すべてを失った過去を持つという噂があったが、本人は決して語らない。ただ、感情を誤差として徹底的に排除し、最適解だけを求める男。

 それがラプラスだった。


 ドーナツはポケットから、あのくすんだ宝石を取り出した。血の筋がまだ残る、価値がないとされた欠陥品。

「これで、時間を戻せるか」

 ラプラスは宝石を指先で受け取り、端末に接続された分析装置にセットした。淡々とした声で答える。

「理論上は可能です。ただし、これは単なる『時間巻き戻し』ではありません。

 正式名称──灰燼回帰アッシュ・リバース

 おそらく、あなただけが使える、禁忌の技術です」

 彼は眼鏡を軽く押し上げ、画面に映るデータを指でなぞった。

「媒体は煙草。あなたが吸う一本一本に、テオドーラ・エウカリオン──オリビンの涙から生成された微細な結晶、宝石粉を混ぜています。

 煙は彼女の時間の欠片であり、燃焼は時間の消費です。

 火をつけ、最後まで吸い切った瞬間、世界が巻き戻ります」

 ラプラスは無表情のまま、淡々と核心を突いた。

「代償は三つ。

 第一に、あなただけが記憶を保持する。

 第二に、身体は戻っても疲労と精神の摩耗は蓄積される。

 第三に、寿命が確実に削られる。

 ……そして最も重要なこと。

 この技術の本質は、彼女の死を『燃料』にしているということです。使えば使うほど、彼女の寿命そのものが消費されていく」


 ドーナツは黙って聞いていた。

 指の間に挟んだ煙草、すでに最初の試作品が、わずかに震える。

 ラプラスは続けた。声に感情はないが、どこか冷たい警告が混じっていた。

「あなたは今、彼女の痛みを燃やして時間を買おうとしている。これは救済ではありません。最適化された消費です。……それでも、やるのですか?」

 ドーナツはゆっくりと息を吐いた。

「やる」

 ラプラスは一瞬だけ沈黙し、眼鏡の奥の瞳を細めた。

 それは、感情を排除した男が初めて見せる、ほんのわずかな理解不能、という色だった。

「……非合理です」

 そう呟きながらも、彼は分析結果を端末に保存した。

「ただし、技術的には可能です。最初の煙草は、すでに完成しています」

 机の上に置かれた一本の煙草。

 紙巻きの内側に、くすんだ宝石の粉が極微量で練り込まれている。

 血の筋が残った、あの最初の宝石から作られたもの。

 ドーナツはそれを指で摘み上げた。

 価値がないと言われたもの。

 彼女が、自分を価値がないと泣いたもの。

 それが、世界をやり直す鍵になる。


 彼はゆっくりと火を点けた。

 緑の炎が、一瞬だけ揺れた。

 煙が、わずかに濁りながら肺の奥へと落ちていく。

 世界が、軋んだ。

 視界の端で、彼女が倒れた瞬間の顔が浮かぶ。

 静かで、諦めたような表情。

 そして、すべてが逆再生する。



 最初の出会いへ。

 医療室で、くすんだ宝石を零していた彼女。

「……謝るな」と言った、自分の声。

 煙が、ゆっくりと天井へ昇っていく。


 ドーナツは、かすれた声で呟いた。

「……なるほどな」

 これで、やり直せる。

 彼女が死ぬその瞬間まで、何度でも。

 その日から、彼の時間は狂い始めた。

 まだ、間に合う。


 そう信じてしまった瞬間から、すべてはもう、戻れなくなっていた。

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