◇二.固定◇
数日後。
任務帰還直後の医療室は、白い床に淡い光が落ちていた。消毒液の匂いと、かすかな機械音だけが響く静かな空間。
テオドーラは、椅子に浅く腰かけ、少しだけ俯いていた。
「……出ます」
静かな声。ほとんど感情のない、それでいてどこか諦めを含んだ響き。
次の瞬間、ぽとり、と小さな音がした。
床に落ちたのは、緑の宝石だった。
だが、それはくすんでいた。濁った緑。透明度は低く、その内部に赤い筋。血が混じっている。商品価値など、ほとんどない。
記録係が小さく呟いた。
「……廃棄対象です」
その言葉に、テオドーラの肩がわずかに震えた。
「……申し訳ありません」
小さな声。言葉が続かない。
その目から、もう一粒、零れた。同じようにくすんだ宝石。床に落ちて、ころりと転がる。
ドーナツは、それを黙って見ていた。
違和感が、胸の奥を強く殴った。
彼女は痛みで泣いているわけじゃない。
価値を出せなかったことで、泣いている。
自分を、ただの資源としてしか見ていない。その事実が、理由もなく許せなかった。
その黒い瞳に宿る光を見て、ドーナツは胃の奥が焼けるような不快感を覚えた。
彼女の目は、かつて自分が鏡の中で見た、戦場の消耗品と同じ光をしていた。
感情を殺し、意思を削り、ただ有用な道具としてのみ存在を許される。使い潰されることに疑問を抱かず、壊れた時には役に立てず申し訳ないと謝罪する。
それは、軍人として完成された、最も美しい絶望の形だった。
管理局は彼女を資源と呼び、部下は備品と呼ぶ。
そして彼女自身もまた、自分の命を、床に転がるくすんだ石ころ程度の価値だと定義している。
だが、もし彼女がただの無機質な石ならば、なぜこれほどまでに胸を掻き乱すのか。
なぜ、零れ落ちた涙が、結晶化する前のその一滴が、あれほどまでに熱を帯びていたのか。
彼女が自分を否定すればするほど、ドーナツは自分自身の根幹を否定されているような、猛烈な衝動に突き動かされた。
彼女をモノとして処理することは、自分自身の人間性を完全に捨て去ることと同義だ。
価値などない。
そう吐き捨てた彼女を、そのままで終わらせるわけにはいかなかった。
彼女に価値を見出すことが、この狂った世界で彼が人間として踏みとどまるための、唯一の、そして傲慢な抵抗だった。
「……謝るな」
声が出た。自分でも驚くほど、低く、苛立った響きだった。テオドーラが顔を上げる。黒に近い瞳が、少しだけ揺れた。
「ですが……」
「謝るな」
遮るように繰り返す。理由は分からない。ただ、胸の奥がざわついた。彼女が自分を価値としてしか扱わないことが、ひどく腹立たしかった。
ドーナツはゆっくりとしゃがみ込み、床に落ちた宝石を拾い上げた。
冷たい。濁っている。血の筋が、指に触れる。
それでも、彼はそれをじっと見つめた。
室内の空気が止まる。
「これは、俺が買い取ろう」
「……え?」
記録係が声を上げた。
「規定価格の、三倍、いや五倍で」
「しかし、それは……」
「いいから」
短く、命令する。誰も逆らえない。それが、彼の裁量権だった。
テオドーラは理解できない顔で彼を見た。
「……価値は、ありません」
静かに、淡々と告げる。その声には、自嘲すら感じられなかった。
ドーナツは、ほんの少しだけ笑った。皮肉めいた、苦い笑み。
「価値は、俺が決める」
それだけ言って、くすんだ宝石をポケットに滑り込ませた。その瞬間。彼女の中で、何かがわずかに揺れた気がした。
サンプルではなく、ただの宝石として扱われた瞬間。価値がないと言われたものが、誰かに必要とされた瞬間。
彼女はまだ、それに名前をつけられなかった。
◇
数週間が過ぎた。
任務はいつも通り苛烈だった。異常発生現場への初動対応、因果の収束、そして事後処理。死は日常という名の統計に組み込まれ、生き残ることは単なる計算上の例外でしかなかった。
ある作戦中、世界が軋んだ。
想定外の連鎖崩落。瓦礫が降り注ぎ、空間の歪みが牙を剥く。
ドーナツの判断が一瞬、遅れた。死の気配が彼の喉元に届こうとしたその瞬間、視界を細い影が横切った。
テオドーラだった。
彼女は迷いなく彼の前に立ち、異常の衝撃をその華奢な身体で正面から受け止めた。骨の砕ける嫌な音が、崩落音に混じって鼓膜を打つ。
「任務上の、合理的判断です」
淡々とした声。温度のない瞳。
価値の使い方として、自分の命を駒として差し出す。それがこの世界における彼女の正しい機能だった。
ドーナツは、目前で崩れ落ちる彼女の背中を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
(お前は、……何を)
血が広がっていく。
その赤の中で、彼女の手から零れ落ちたのは、あの時よりもずっと透き通った、鮮烈な緑の輝きだった。
高純度。極限の感情が凝縮された結晶。
血の海に沈んでもなお、傲慢なほど美しく光を放つオリーブグリーンのペリドット。
彼女が最期に絞り出した命の価値が、世界にとって最高級の資源であるという事実が、何よりも残酷だった。
軍の回収班が、作業的に宝石を拾い上げる。テオドーラの身体もまた、効率よく検体として処理されていく。
誰も泣かない。誰も祈らない。ただ、有用な資源が一つ、回収されただけ。
ドーナツは、硝煙と血の匂いの中で立ち尽くした。
その時、彼の胸の奥に、世界中のどんな物質でも埋められない巨大な空洞が穿たれた。
◇
空白の一年。
彼は機械的に任務をこなし続けた。成果は上がり、胸元の勲章は増えた。
同僚たちは「クロウは相変わらず鉄のようだ」と羨望を込めて囁いた。
だが、内側にはもう、何も残っていなかった。
増えていくのは、煙草の本数と、火を点ける手つきの滑らかさだけ。
吸い殻の山は、彼が浪費した時間の死骸だった。
夜。独り。
ポケットの中にあるくすんだ宝石を握りしめ、彼は暗闇に問いかける。
(……あれは、何だったんだ)
答えは返らない。
彼はまだ、この地獄を巻き戻す引き金の在り処を知らなかった。




