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◇六.燎原(りょうげん)◇

 崩れた建物の奥。かつて広場だった場所に、それはいた。

 一人の男。

 瓦礫の上に立っている。

 痩せた身体。

 擦り切れた衣服。

 傷だらけの腕。

 それでも倒れていない。


 その目だけが、異様に強かった。


「……ようやく、静かになった」


 男は、ゆっくりと呟く。その声は、穏やかで。満足しているようにすら聞こえる。

 彼の周囲では、人々が動いている。

 助け合い、支え合い、争わない。

 完璧に正しい行動。それを見下ろしながら、男は続ける。


「これが、あるべき世界だ」


 ドーナツが一歩前に出る。視線は、完全に固定されている。


「異常のコアを確認。排除対象」


 男は、ゆっくりとこちらを見る。そして、笑った。

「排除? お前たちは、何を守ってる?」


 その言葉に、空気がわずかに軋む。


「この世界は狂ってる。苦しみが価値になる。人の死が資源になる」


 テオドーラの指が、わずかに動いた。反射的に。

 だが、言葉は出ない。

 男の視線が、彼女をかすめる。


「だから、変えた。誰も傷つかない世界に。何も間違えない世界に」


 風が吹く。瓦礫の上の砂が、わずかに舞い上がる。


「感情なんて、全部消せばいい」


 その瞬間。ミラは、男を見つめていた。じっと。動かずに。

 似ている。

 そう、思ってしまった。

 壊れているのに、立っている。

 限界なのに、止まらない。


 でも。違う。

 ミラは、壊れても進む。

 男は、壊れる原因を消そうとしている。

 方向が逆だ。

 ドーナツの声が落ちる。


「制圧する」


 それだけで、命令は成立する。ミラが一歩、前に出た。

 迷いはない。

 その動きに、男の視線が向く。


「……お前も壊れているな」


 静かな指摘。否定でも、嘲笑でもない。ただの事実確認のような声音だった。

 ミラは、止まらない。


「関係ありません!」


 そのまま地面を蹴る。

 一気に距離を詰める。

 その瞬間。

 空気が、歪んだ。

 男の周囲で、何かが変わる。

 見えない何かが、ミラの動きを包む。


「無意味だ。争いは要らない」


 核の男の声。その言葉と同時に。

 ミラの身体が、ほんの一瞬、止まりかける。

 踏み込むはずの足が、わずかに鈍る。

 拳が、わずかに逸れる。

 選択が、書き換えられる。

 攻撃するという意思が、別の何かに変わる。

 だが。


「……っ」


 ミラは、歯を食いしばり、無理やり、ねじ伏せる。


「関係、ありません!」


 叫ぶ。

 そのまま、強引に踏み込む。

 拳を叩き込む。

 衝撃。

 男の身体が揺れる。同時に、ミラの腕から鈍い音がした。

 骨が軋む。

 でも、止まらない。ラプラスの声が、通信越しに響く。


「エンバー、行動が安定していません。上書きに対する抵抗が発生しています」


 ドーナツの声が重なる。


「出力を落とせ」

「無理です!」


 即答。間髪入れない。

 ミラはさらに踏み込む。

 もう一撃。

 その動きは、危うい。

 制御が効いていない。

 だが。確実に当たる。

 確実に、結果を出している。

 男が、ミラを見る。少しだけ目を細める。


「……そうか。お前は、壊れることを受け入れているのか」


 ミラは、止まらない。

 呼吸が荒い。

 それでも、前に出る。


「はい! 意味が、あるなら!」


 その言葉が、空間に落ちた。

 テオドーラの胸が、わずかに締め付けられる。

 理解できない。でも、無視もできない。

 男は、ほんの少しだけ笑った。

 どこか、疲れたような笑みだった。


「……なら、お前もいずれ……」


 その言葉の続きを、誰もまだ、知らない。


 男の言葉は、途中で途切れた。代わりに、空間が軋む。

 目に見えない圧力が、広場全体を包み込んだ。


「選択の固定を確認」


 ラプラスの声が、淡々と響く。


「行動意思が上書きされています」


 次の瞬間だった。

 クロウ班の動きが、鈍る。

 踏み込もうとした足が、止まる。

 武器を構えた腕が、わずかに下がる。


「……下がれ」


 ドーナツの命令。

 だが、それすらも完全には通らない。

 空気が、正しさを強制してくる。


 ──争うな。

 ──傷つけるな。

 ──静かにしろ。


 その意思が、身体の内側に入り込んでくる。

 テオドーラの指が震える。


「……動け、ません」


 それは恐怖ではない。抵抗する理由が消えていく感覚だった。

 誰もが動けずにいるその中で。

 ミラだけが、動いていた。


「関係ありません!」


 叫ぶ。歯を食いしばり、無理やり身体を前に押し出す。

 関節が悲鳴を上げる。

 筋肉が裂ける。

 骨がきしむ。

 それでも。止まらない。


 拳を振るう。

 衝撃。

 男の身体が揺れる。

 同時に、ミラの腕が大きくぶれる。

 制御が効いていない。


「エンバー」ラプラスの声がわずかに強くなる。

「出力が異常値に到達しています」


 数値が跳ね上がる。波形が乱れる。


「そのままでは、個体崩壊を引き起こします」


 つまり、壊れ。

 テオドーラが、ミラを見る。

 初めて、恐怖ではない感情が混じる。

 理解の、手前。


 男が、ミラを見つめる。

 その視線は、冷静だった。


「……ほらな。お前も、同じだ」


 ミラは首を振る。荒い呼吸のまま。


「違います!」


 踏み込む。

 さらに一歩。

 身体が悲鳴を上げる。

 それでも。


「私は……! 消したく、ありません!」


 その瞬間。空気が、弾けた。


 ドーナツが動いた。迷いは一切ない。

 最短距離。

 最小動作。

 一直線に、コアへ。


「もういい」


 低い声。すべてを切り捨てる音。

 男が、ドーナツを見る。


「これが、間違いだって言うのか……」


 ドーナツは止まらない。


「そうだ」


 一撃。

 音は、ほとんどなかった。

 ただ、確実に。

 男の身体が崩れる。

 その瞬間。

 空間が、崩壊した。


 押し付けられていた正しさが消える。

 抑え込まれていたものが、一気に溢れ出す。


 悲鳴。

 泣き声。

 怒号。


 人々が崩れる。

 その場に膝をつく。

 痛みを思い出す。

 苦しみを取り戻す。


 現実が、戻ってくる。


 テオドーラは、動けなかった。

 その光景を、ただ見ている。

 正しかった世界が、壊れていく。

 でも。それが本来の形だ。


 ミラは、立っていた。

 揺れながら。呼吸を荒げながら。

 それでも、倒れない。


「……あの人」ぽつりと呟く。視線は、崩れたコアへ。

「間違って、なかったかもしれない」


 その言葉に、空気がわずかに揺れる。

 テオドーラが顔を上げる。

 ミラは、続ける。小さく、でもはっきりと。


「でも。私は、消したくないです」


 それだけ。理由はない。理屈もない。

 ドーナツは何も言わない。振り返りもしない。


「帰還する」


 それで終わり。


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