10 怪奇の噂
その日の放課後、綾世先輩と私は寮内のラウンジの一画で課題を片付けていた。1日の授業が終わったばかりのこの時間、寮に戻ってきているのは私たちだけ。詰めたら100人は入れるこの場所も今は貸切状態だ。
じろじろと視線を送ってくる人がいないのはいいけど、逆に少し落ち着かない。この時間にこの場所で勉強するのを始めてから、もう1週間くらい経つんだけどな。ページをめくる音、ノートにシャーペンが擦れる音……、沈黙の中ではいつもより大きく聞こえる。
「そういえば、陽翠は部活に入らないの?」
ちょうど課題がひと段落した時、綾世先輩は伸びをしながら聞いてくる。……その笑顔、先輩、私の答えを分かってますね?
「入りたくても入れませんよ」
苦笑しながら黒のリボンタイを差してみせると、先輩は「だよね」と頷く。黒の異能者が部活に入る、制度的には全く問題ないはずだけど、入ったところで馴染むどころか遠巻きにされる未来しか見えない。部活といういかにも青春な集団には、入りたくても入れない。
「……でも、もし入れるんだったら吹奏楽部に入ってみたいですね」
「そうなの?」
「吹奏楽部ってチームワーク必要そうじゃないですか。『みんなで息を合わせて』みたいなの、やってみたいんですよね」
一度もやったことがないから。やろうとしてもできないから。黒の異能者の私とは誰も合わせたくないらしいから。いくつもの苦い思い出がよみがえる。
「いいね、確かに俺もやってみたいかも」
「……本当ですか?」
無理だと、それは難しいと、そう言われるものだとばかり思っていたから。まさか肯定してもらえるなんて。
「うん、本当だよ。……まあ俺だったら、吹奏楽部じゃなくて演劇部に入りたいかな。自分以外の誰かに成り切ってみたいんだよね」
綾世先輩はどこか遠くの方を見ていた。だけどそれは一瞬だけのこと、すぐにいつものにこにこ笑顔へと切り替わる。……「自分以外の誰か」って「黒の異能者ではない誰か」を指しているのかな。
「私も演劇部、気になります」
「じゃあ一緒に入部届出しに行く?」
「それはまた今度にしておきます」
その「今度」はきっといつまで経ってもやってこないけど。その言葉は苦笑と共に飲み込んだ。
「そうだ、最近の演劇部といえば怪奇現象の噂だよ」
「怪奇現象ですか……?」
「誰も触ってないはずの備品が移動されていたとか、部室の電気が突然消えてすぐについたとか。そんな些細なものだけどね」
物がいつの間にか移動する? 電気が勝手に消えてつく? 演劇部の話ではなかったけど、似たような噂をいくつか聞いた覚えがある。それも昨日の夕方から今日という短期間に。
摩訶不思議な現象を起こす異能者だらけのこの学校で、そんな噂が流れるということは……。思わず身震いをしてしまった。
「陽翠? だいじょう——」
——突然、ラウンジの電気が消えた。
「っ!?」
も、もしかして怪奇現象!? 雨が降りそうな外からの光を頼りに、薄暗いラウンジを見回す。電気のスイッチのところには……誰もいない。
「ぁ、あやせ、せんぱぃ」
「大丈夫、大丈夫。急に消えたね。ちょっとつけてくるからね」
……ラウンジの入り口の方からかな、何かが近づいてきている。もちろん、綾世先輩とは別の何か。先輩は電気のスイッチのところに行っていて、たぶん気づいていない。心臓がドクンドクンと存在を主張する。
ピシャーン、と近づいてくる何かの後ろに稲妻が走った。
「ひぇっ……」
得体の知れない恐怖に涙がじわりと浮かぶ。もうダメかも……。その時、これか、という綾世先輩の独り言が聞こえたとともにぱっと電気がついた。
「……方波見? お、おい、大丈夫か?」
その正体は、心配そうにこちらを見ている布目先生だった。それが分かった途端、体中から力が抜ける。安堵のため息を吐きながら瞬きをしたら、下瞼に溜まっていた涙が一粒だけ流れてしまった。
「か、方波見……!?」
「ちょっと先生、陽翠を泣かさないでくださいよ」
慌てる布目先生を横目に、先輩は「大丈夫?」と寄り添ってくれる。ありがとうございます……。あの、勝手に怖がって勝手に驚いて勝手に泣いただけなので、そんなに心配そうな申し訳なさそうな顔しないでください。なんか、その、……すみません。
ハンカチで涙を拭いながらその旨を伝えると、二人ともほっと息を吐いていた。
「ところで、布目先生はどうしてここに……?」
寮母さんならまだしも、先生たちはこの時間校舎にいるのでは……? 入学初日にそう説明されていたはずだ。綾世先輩も少しだけ首を傾げている。何か寮に用事でもあったのかな。
「あーそのことなんだが……方波見は十川と仲がいいよな?」
布目先生は頬を掻きながら言った。
ホームルームが終わってすぐ、綾世先輩に付き合ってもらって汐梨ちゃんのお見舞いに行った。もちろん先輩は女子寮の手前まで。
だけど、汐梨ちゃんは部屋にいなかった。正しくは、ノックしても反応が返ってこなかった。物音も気配もしなかったし、いないで合っているはず。
布目先生は何か事情を知ってるのかな。
「汐梨ちゃんとは確かに仲がいいですよ……?」
「そうか、そうだよな……。単刀直入に聞く。十川の行方を知らないか?」
すっと変わった鋭い雰囲気に、思わずごくりと唾を飲んだ。汐梨ちゃんの行方を知らないか、それを私に聞いてきたということは、もしかしなくても布目先生もその事情を知らない? ……それはつまり、汐梨ちゃんの今を誰も知らないということ。
さっと、顔から血の気が引いた。
「汐梨ちゃんに何かあったんですか……!?」
***
緑色のリボンで薔薇色の髪を結び、チェック柄のスカートをほんの少し短くアレンジした少女は、寮内のラウンジで顔色を悪くする陽翠を見つめる。その瞳は髪と同じ薔薇色に怪しく光っていた。
「ねぇ、ボクはここにいるよ……?」
その言葉に反応する者は誰もいない。
彼女は、冷たい自身の手をぎゅっと握りしめて、祈るように呟いた。
「おねがい……——ボクを見つけて」




