#134 アルテリアの夏に雪が降った日
——気配は、上だ。
雹が雪に変わる、その境目みたいな感覚。
冷気が、階段の上から静かに流れ落ちてくる。
(……屋上か)
昴はもう、二段飛ばしで階段を駆け上がっていた。
俺たちは少し遅れて、でも足を止めずに追う。
屋上の扉が開いた瞬間、
空気が——白かった。
雪だ。
さっきまで雹だったはずの氷は、
いつの間にか柔らかい粉雪に変わり、
夏の屋上にありえない静けさを落としている。
「……」
思わず、言葉を失った。
手すりの向こう、
明日香がひとり、空を見上げて立っていた。
足元には薄く張った氷。
それでも危うさはなくて、
むしろ彼女の居場所を示すみたいに、静かに広がっている。
「明日香!」
昴の声が、白い空気を切り裂いた。
彼女の肩が、ぴくりと揺れる。
「……来なくてよかったのに」
振り返らない。
でも、声が震えているのは、ここからでも分かった。
昴は歩みを止めない。
「俺……今日、また余計なこと言った?」
「違う!」
明日香の声が、強く返る。
「違うの……!」
ようやく振り返った彼女の頬は、
雪か、それとも涙か分からない粒で濡れていた。
「あなたが“優しく”するたびに……」
「ごまかされてる気がするのよ……!」
その言葉に、昴が息を詰める。
「昔、私に言ったでしょ」
「“氷って寂しいよね”って」
空気が、さらに冷える。
昴と明日香の、幼い頃の二人だけの記憶。
昴が何気なく言った一言。
軽かったはずの言葉が、
ずっと氷の奥に残っていたなんて。
昴が、深く息を吸った。
「ごめん」
短く、でも真っ直ぐに。
「あの言葉は……本当に、ごめん。あの時の俺、何も分かってなかった」
一歩、距離を詰める。
「氷が寂しいんじゃない。“お前が”ひとりでいることが……寂しかったんだ」
——あ。
その瞬間、
空気の張りが、ほんの少しだけ緩んだのが分かった。
明日香の瞳が揺れる。
「……なんで、そんな……」
昴は目を逸らさない。
「明日香。俺は、お前を傷つけたままでいる方が……ずっと嫌だ」
そっと、手が伸びる。
明日香の冷気が、昴の手の甲に触れる。
それでも、昴は離さない。
(……覚悟、決めたな)
明日香の唇が、震えた。
「……私ね」
「あなたにとって私なんて……ずっと、“ただの幼馴染”なんだと思ってた」
昴は、はっきり首を横に振る。
「違う」
その一言が、重い。
「俺にとって、お前は——」
言葉は、そこで止まった。
……でも、十分だった。
明日香も、それ以上を今は求めていない。
彼女は、小さく笑った。
その瞬間、雪が光を帯びて舞い上がる。
「……私にとって、あなたは昔から」
「“二番手”なんかじゃないよ」
昴の目が、大きく開く。
「私にとってあなたは——
……まだ、内緒」
頬が、ほんのり色づく。
その間に、粉雪がふわりと落ちた。
そして——
俺たちが屋上に足を踏み入れた。
白い世界の中で、
二人が並んで立っているのが見える。
夢威が、ぽつり。
「……きれい」
遥花は、もう涙をこらえていない。
大河は照れたように鼻を鳴らし、
紫亜は肩をすくめて笑った。
「ふふ、青春ね」
俺は、ゆっくり息を吐く。
(……これが、“和解”か)
この日のことは、きっと忘れない。
後に人は言うだろう。
「アルテリアの夏に雪が降った日」だと。
昴と明日香にとっても、
そして俺たちにとっても——
この夏の雪は、一生消えない記憶になる。




