#133 雹
扉を開けた瞬間、分かった。
——空気が、重い。
言い争いの最中というより、
もう“刺さったあと”の静けさだ。
机を挟んで、明日香が顔を背けている。
昴は立ったまま、どう声をかけていいか分からない顔。
その距離が、やけに遠く見えた。
「だから……」
明日香の声は落ち着いている。
叫んでいない。震えてもいない。
なのに、言葉の端が鋭くて、胸に引っかかる。
「あなたの、そういう上っ面なところが嫌なのよ」
昴の眉が、困惑で歪む。
「え? 俺……また何か言った?」
「今日は……本当に、何も言ってないと思うんだけど」
その言葉が、火に油だった。
「言ってないわよ」
明日香が、きっぱり言い切る。
「でも……“そういうところ”なの!」
声が、ほんの少しだけ上ずる。
氷が軋む前兆みたいな、危うい音。
(……ああ)
俺は、嫌な予感を覚える。
“まだ、あの時のことをちゃんと謝ってもらってない”
“昴は、私をどう思ってるの?”
明日香は口にしない。
でも、その問いが、部室の温度を確実に下げていた。
昴は、それに気づいていない。
気づけていないから、悪気もない。
「俺、明日香のこと……」
そこまで言いかけて、言葉を探すように黙る。
——それが、致命的だった。
大河は頭をかきながら、小さく唸る。
「う〜ん……これは、参ったな……」
遥花は完全に固まっている。
助けたいのに、踏み込めない目。
夢威は眠そうな目のまま、ぽつり。
「……風、冷たくなってきた」
紫亜は腕を組み、少し距離を取って微笑む。
「恋とは、本当に面倒ね」
俺は額に手を当てた。
(……右京先輩がいなくて、本当に良かった)
今ここにいたら、絶対に話がこじれる。
——仲裁に入らないと。
そう思って一歩踏み出した瞬間、
明日香がこちらを振り返った。
視線が、真っ直ぐ刺さる。
「ごめんなさい」
その一言で、空気が遮断された。
「今、二人で話してるの」
拒絶じゃない。
でも、はっきりした線引き。
俺は、それ以上踏み込めず、一歩下がる。
……そして。
明日香が、ぽつりと零した。
「……私、やっぱり昔と変われない」
声が、急に弱くなる。
「誰とも、上手く仲良くなれない」
「もう……」
一拍。
「合研部、辞める」
——ガチャン。
氷が割れる音が、確かに聞こえた気がした。
明日香はそれ以上何も言わず、
背中を向けて、扉へ歩き出す。
誰も、すぐには動けなかった。
最初に我に返ったのは大河だった。
「何してんだ昴!!」
怒鳴る。
「早く追いかけろ!!」
俺も、反射的に昴の背中を押していた。
「行け!!今行かなきゃ、一生後悔するぞ!」
昴の身体が、わずかに震える。
それから——
目の色が変わった。
覚悟を決めた顔。
⸻
昴が部室の扉を開けた瞬間、
パチ、パチ、パチと乾いた音が弾けた。
——雹だ。
小さな氷の粒が、地面を叩いている。
夏休み直前の空とは思えない冷気。
息を吸うと、喉が少し痛い。
(……やっぱり)
俺は空を見上げる。
昴が言う。
「明日香は…感情が限界を超えると、
周囲の天候まで巻き込む。昔からそうだった」
気温じゃない。
彼女の“心”が、空を動かしてる。
遅れて外へ出た俺たちは、その異様な光景に言葉を失う。
遥花が、震える声で言った。
「……これ、本当に……大丈夫なやつ、ですよね……?」
夢威が、空から落ちる雹を見上げる。
「……明日香ちゃん、泣いてるかも」
紫亜は、どこか諦観したように笑った。
「人の心は、魔法よりずっと強いわ」
雹は、まだ降り続いている。
——この先は、昴の番だ。
俺たちはただ、
その背中が追いつくことを祈るしかなかった。




