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第7話 妥協の矛、妥結の盾

背後の空気が、音もなく歪んだ。

殺気すら感じさせない、完全な暗殺者の身のこなし。だが、僕の『知覚』は背後に迫る異常な質量の移動を正確に捉えていた。


「――来る」


僕が振り向くと同時、鬱蒼と生い茂る薄暗い樹海の奥から、赤黒い巨体が弾丸のように飛び出してきた。

人間より一回りほど大きなその魔獣は、巨大な蟷螂かまきりを思わせる異形の姿をしていた。血のように赤黒く、不気味な光沢を放つ硬烈な外殻。そして両腕には、人間が取り回すのにちょうどいいサイズ感に収まった鋭利な『鉈鎌なたがま』が備わっている。


ヒュンッ!!


魔獣が放った一撃は、風の音すら置き去りにするほどの理不尽な速度だった。

あの鉈鎌は普段は信じられないほど軽く、魔獣の超高速移動を一切妨げない。だが、獲物を仕留める一瞬だけ内部に魔力を流し込むことで、見た目の大きさはそのままに、恐るべき質量と硬度を持った必殺の刃へと性質を変化させるのだ。


ここ数週間、僕たちはこの赤黒い蟷螂をずっとストーキングしていた。

目的は、あの極上の鉈鎌を護身用のメインウェポンとして手に入れるため。そして、あの超軽量かつ高硬度の外殻装甲を素材として回収するためだ。

これまでは暗殺者のような一撃離脱戦法に翻弄され、決定打を与えられずに逃げられていたが、行動パターンと逃走ルートの解析はすでに終わっている。


「みゃあっ!」


魔獣の刃が僕の首を刎ね飛ばそうとした瞬間、僕の足元からシャノワールが放った影の触手が飛び出し、魔獣の六本の脚を岩肌ごとガッチリと縫い留めた。


「ギ、チッ!?」


想定外の拘束に、魔獣の超高速移動が一瞬だけ完全に殺される。

だが、すでに振り下ろされていた鉈鎌の軌道は止まらない。


僕は冷静に右手を掲げ、記憶に刻み込んだ特定の『タグ』を呼び起こして自身の魔力を流し込んだ。


「――氷鏡結界(アイスミラー)


ガキィィィィィンッ!!


僕の目の前の空間に、六角形の巨大な氷の結晶が幾重にも展開され、魔獣の凶刃を完全に弾き返した。

この半年間、安全な生活圏の中で僕が編み出した絶対防御。地球の物理知識である「共有結合のネットワーク」を模倣し、世界の意思も認めてくれたダイヤモンド級の硬度を生み出す結合。僕はこれを『マナ結合』と名付けている。


「さて、もらい物(素材)に傷はつけたくない」


弾かれた魔獣が影の拘束を力任せに引きちぎろうと藻掻き始めた。

僕は反撃の術式を構築するため、足元の泥や石、空気中の塵へと魔力を流し込む。それらは急速に一点へと収束・圧縮され、超高密度の『質量弾』となって僕の右手の前に浮かび上がった。


狙うのは、超音速の電磁誘導射出。


「――捉える」


僕は『知覚拡張オーバークロック』を手動で発動させた。

世界が泥のように重いスローモーションへと移行する。体感時間を極限まで引き延ばし、装甲や鉈鎌を傷つけないための絶対の急所――硬い外殻に守られていない、首と胴体のわずか数ミリの関節の隙間を正確に狙撃エイムするためだ。


今から放つ『電磁砲弾(レールガン)』には、高度な演算を行うための『知覚拡張』や『構造認知』の自動使用関数がバックグラウンドで組み込まれている。手動の精密エイムと、バックグラウンド演算の二重起動。

おまけに僕の高校レベルの物理知識で作ったこの術式は穴だらけで、本来ならエラーとして弾かれる。そこを、僕の魔力を過剰に支払うことで強引にねじ伏せる!


「撃つ!」


ドゴォォォォォンッ!!!


空気が爆発するような轟音と共に、僕の放った質量弾が一条の光の線となって撃ち出された。

妥協とゴリ押しの砲弾は、スローモーションの世界で僕が狙い定めた魔獣の首の隙間へ、寸分の狂いもなく吸い込まれた。


「ギ、ェ……」


ぐしゃり、という潰れた音。

魔獣の首が根元から吹き飛び、赤黒い巨体がゆっくりと泥の地面に倒れ伏した。即死だった。


「ふぅ……。完璧な連携だったな、シャノワール」


僕が知覚拡張を解除して息をつくと、シャノワールは「みゃお!」と得意げに鳴きながら僕の足元へ駆け寄ってきた。

僕はしゃがみ込み、彼とハイタッチをするように、右の手のひらと黒い肉球をポフッと合わせる。

この半年間で培った、僕たち家族の狩りのルーティンだ。


僕は立ち上がり、パンパンと服の汚れを払った。

現在、僕が身に纏っているのは元の世界で着ていたジャージではなく、漆黒の糸で編み上げられた、鈍い光沢を放つ上質なローブコートだ。

数ヶ月前に僕たちのテリトリーを脅かした、女性の上半身を持つ不気味な蜘蛛の化け物。その人型の上半身を守るために形成されていた『強靭な漆黒の糸のドレス』を回収し、オタク心全開で構造解析を行い、シャノワールに影の針やハサミを作ってもらって自分好みにリメイクした最高傑作である。


「さて、素材の回収だ」


僕は倒れた魔獣へと近づいた。

狙い通り、両腕の鉈鎌にも、赤黒い装甲にも傷一つついていない。魔力が抜け、驚くほど軽くなったその美しい刃を切り離し、軽く振ってみる。微かに魔力を流し込むと、ズンッ! と腕が持っていかれそうになるほどの凄まじい質量と硬度に変化した。


「よしよし。いざという時の近接防衛として最高の武器になるぞ。シャノワール、装甲もひっぺがすから、収納してもらえるか?」


僕の言葉に、シャノワールは自らの足元の影をドロリと大きく広げ、解体した赤黒い外殻や鉈鎌を次々とその『影の亜空間』へと飲み込ませていった。

彼が独自に編み出した亜空間収納魔法だが、万能ではない。収納した質量や体積に比例して、亜空間を維持するためにシャノワールの魔力の最大値が常に割り当て(ロック)されてしまう。つまり、詰め込めば詰め込むほど普段の戦闘で彼が使える魔力リソースが目減りしてしまうため、こうして厳選した素材だけを収納してもらっている。


グゥルルルル……。


素材の回収が終わった途端、僕の腹から盛大な音が鳴り響いた。

僕の魔力を練り上げる中枢器官は、消化器系と象徴的に強く結びついているため、大量の魔力を消費すると激しい飢餓感というカロリー消費がダイレクトに襲ってくるのだ。


「……ご飯にしようか」


僕が苦笑すると、シャノワールは影の中から、以前狩ってストックしておいた普通の獣型魔獣の赤身肉を取り出してくれた。さすがに、あんな巨大な昆虫の肉を食べる気にはなれなかったから助かる。


シャノワールが手際よく影の刃で火打ち石を叩いて焚き火を作り、僕たちは肉を炙り始めた。

炎を見つめながら、僕は猛烈な勢いで焼けた肉を胃袋に詰め込んでいく。


「それにしても、やっぱり『電磁砲弾(レールガン)』は魔力燃費が最悪だな……」


この半年間で僕が解き明かした魔法の仕組みにおいて、重要な前提がある。それは『魔力』と『マナ』の明確な違いだ。

【魔力】は、術者自身の内側に宿る「意思の出力」。

対して【マナ】は、世界に充満している「世界の意思の出力」であり、魔法を現実の現象にするための素材だ。


魔法の行使とは、世界の意思に論理的な設計図――【ことわり】を提示するプレゼンだ。理に納得してもらえれば、世界の意思は大いにマナを提供し、現象化を手助けしてくれる。

だが、『電磁砲弾(レールガン)』のような知識不足の不完全な理では、世界の意思はマナの助力をほとんど出してくれない。その不足分を、自分の【魔力】を過剰に支払って埋め合わせているのだ。

おまけに術式に組み込まれたバックグラウンドの自動演算が魔力を大食らいするため、撃つたびにこんなにも腹が減る。


「その点、さっきの『氷鏡結界(アイスミラー)』はよく出来てるよな」


あの結界は自動演算を組み込んでいないというのもあるが、僕が考案した『マナ結合』の理が世界の意思にスムーズに受け入れられ、マナの助力を得やすいのだ。

さらにあの結界は、ただの物理防御ではない。任意で魔力を消費して『構造認知ディープスキャン』を手動で介入させることで、相手の魔法現象の波長を読み取り、逆位相を形成して反射させることもできる。

反射を自動発動にせず、僕のスキル練度に依存する手動の職人技にしたことで、破格の魔力コストパフォーマンスを実現しているのだ。


そして、僕が完成させた最後の一つの術式。

傷の修復を加速させる回復魔法『治癒の礎(ファーストエイド)』。

これもまた、自動演算が組み込まれた大食らいの魔法だ。かすり傷程度なら大した魔力は消費しないが、治療の範囲や難易度によって魔力消費は「指数関数的」に跳ね上がる。

以前、僕自身の不注意で指を深く切断しかけた時、切断された血管や筋肉繊維、神経系を精密な操作で繋ぎ合わせた結果、接合した直後に魔力が完全に枯渇して気絶してしまったことがある(その間はシャノワールがずっと護衛してくれていた)。

失われた部位をゼロから再生することはできないが、それでもいざという時の頼もしい切り札だ。


進化を遂げ、そこいらの魔獣になら後れを取ることのないシャノワール。そして完成した三つの術式。

あの巨大蜘蛛を倒し、厄介な魔獣を狩り続けているうちに、この樹海の一部――僕たちの生活圏内においては、魔物たちが僕らの匂いを嗅ぐだけで避けて通るようになった。

少なくともこの縄張りにいる限り、僕たちは生態系の上位として安全に暮らしていくことができる。


だが、そこから一歩でも外へ踏み出せば、そこはまだ見ぬ未知の魔物と、危険な環境が広がる領域だ。

ここがどこなのか、どの方向に歩けば森を抜けられるのかすら、まだ分かっていない。


僕は腹を満たすと、立ち上がり、鬱蒼と続く樹海の奥の底知れない暗闇へと静かに視線を向けた。

いつまでもこの安全圏に引きこもっているわけにはいかない。

……そろそろ、あの暗闇の先へと踏み出す時だ。

【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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