表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/18

第6話 目覚めの食事は家族と共に

冷たい。

指先から体温が奪われていく感覚と、鼻腔にこびりつくような強い鉄錆の匂いで、僕の意識は泥の底からゆっくりと浮上した。


目を開ける。視界は真っ暗だ。

いや、微かに洞窟の入り口から、青白い外の光が差し込んでいる。雨はどうやら上がったらしい。

全身の関節が軋み、まだ完治しきっていない胸の骨が鈍い痛みを主張している。だがそれ以上に、胃の腑を直接雑巾のように力任せに絞り上げられるような、強烈で暴力的な『飢餓感』が僕の思考を完全に支配していた。


知覚拡張による脳の酷使と、魔力枯渇に伴う弊害だ。

気絶する直前、限界を迎えた僕の脳は、生命の防衛本能によって強制的に知覚のリンクを切断された。だが、それだけでは終わらない。

まだ仕組みを完全に理解したわけではないが、どうやら僕の魔力を練り上げる見えない中枢器官は、消化器系などの器官と象徴的に強く結びついているらしい。体内リソースである魔力を限界まで搾り取られた反動が、そのまま内臓へのダイレクトな影響となり、尋常ではない飢餓感として脳にSOSを送り続けているのだ。


(……僕は、どうなったんだっけ)


重い頭を揺らしながら、ぼんやりとした記憶の糸を手繰り寄せる。

そうだ。僕はここで、帰りを待っていて。

入り口から、瀕死のあいつが這ってきて。腹を裂かれ、認知の中枢である透明な宝石を粉々に砕かれて。

僕は、自分の魔力と思考リソースを限界まで提供して、あいつの宝石を黒いダイヤモンドへと再構成させて……。


――そこまで思い出した瞬間、脳裏に『巨大な影』と『生臭い息』の記憶が強烈にフラッシュバックした。


「……っ!!」


僕は弾かれたように身を起こした。

そうだ! 僕が気絶する直前、血の匂いを追ってきた巨大な魔獣が洞窟に入ってきて、動けない僕を食い殺そうと巨大な顎を開けて――!!


心臓が早鐘を打ち、全身から一気に冷や汗が噴き出す。

僕は恐怖で硬直する首を無理やり動かし、入り口の方へと視線を向けた。

死を覚悟した。魔獣に食い散らかされた自分の下半身が目に入るかもしれないと、本気で思った。


だが。

そこに広がっていた光景は、僕の予想とは百八十度、いや、次元が違うベクトルで異なっていた。


「…………え?」


魔獣は、いた。

間違いなく、僕を食い殺そうとしたあの凶悪な巨大獣だ。

だがそれは『生きた脅威』としてではなく、まるで熟練の解体職人が作業を終えた後の精肉店のように、あまりにも綺麗で均等な『数十個の肉のブロック』として、洞窟の入り口付近に整然と積み上げられていたのだ。


ドサァッ、と乱雑に散らばっているわけではない。

分厚い毛皮の部分、内臓の部分、そして見事な赤身のブロックが、それぞれ完全に切り分けられている。足元は血の海ではあるものの、どこか幾何学的な美しさすら感じる異様な光景だった。


「…………は?」


僕の論理的思考回路が、完全にフリーズした。

切り口があまりにも滑らかすぎる。鋭利な名刀でコンニャクでも切ったかのような、一切の摩擦を感じさせない完璧な切断面。


何が起きた?

僕が気絶している間に、通りすがりの凄腕冒険者でも助けてくれたのか?

いや、そんなはずはない。こんなイカれた森に、そんな都合の良い人間がいるわけがない。


混乱する僕の耳に、静かな音が届いた。


ペロッ、ペロッ。


視線を下げると、僕のすぐ隣で、あの小さな黒猫が丸まっていた。

腹にあったはずの致命的な裂傷は完全に塞がり、毛並みは艶やかな漆黒を取り戻している。そして額には、周囲の微かな光すらも吸い込むような美しい『黒いダイヤモンド』が、静かに、そして力強く脈打つように輝いていた。

黒猫は、自分が死にかけていたことなど微塵も感じさせないほどマイペースに、前足を丁寧に舐めて顔を洗っている。


そして僕の視線に気づくと、動作を止め、漆黒の毛並みに映える、吸い込まれるように綺麗な『青い瞳』で僕を見つめ返した。


「みゃ」


短く、どこか誇らしげな鳴き声。


「……お前、なのか?」


僕は呆然と呟いた。

黒猫は答えない。代わりに、スッと立ち上がると、積み上げられた魔獣の肉ブロックの方へトコトコと歩いていき、一番美味しそうな赤身の部位を前足でポンポンと叩いた。


言葉は通じない。だが、その仕草が何を意味しているのかは痛いほど伝わってきた。

僕はゆっくりと深呼吸をし、極限の飢餓感と戦いながら、気絶している間にごく僅かだけ回復した魔力を振り絞った。そして、特定の対象の構造を精密に解析する特化スキル『構造認知ディープスキャン』を微弱に発動させる。


……見えた。

魔獣の綺麗な切断面の周囲から、僕のよく知る『感覚質クオリア』の残滓が微かに立ち昇っている。

鳥の翼の揚力構造。そして、最も物質を分断しやすい角度と圧力の概念。


それは、僕が意図してあいつに教え込んだものではない。

リンクが繋がっていた際にあいつが吸い上げた無数の『理』の記録が、同調が切断された後も、確固たる知識としてあいつの中に残っているのだ。あいつは自らの意思でその知識から最適な構造を導き出し、実体化させたに違いない。

額で深く脈打つ『黒いダイヤモンド』こそが、あいつの得た高度な知性と理を象徴しているように思えた。


「……あり得ない。お前、僕の『理』を読み取って、自分で魔法を構築したっていうのか……?」


黒猫は小首を傾げ、ゆっくりと青い瞳を瞬かせた。

まるで「そうだけど、何か?」とでも言いたげな、余裕たっぷりの表情だ。


「はは……」


僕は思わず、乾いた笑いをこぼした。

この小さな体で、あの巨大な魔獣を一方的に解体したのか。僕の理を、自分の野生の本能と組み合わせて、この圧倒的な暴力をやってのけたというのか。


こいつは、とんでもないバケモノだ。

だが、僕にとっては、これ以上なく頼もしく、愛おしい存在だった。


「……ありがとう。お前が、僕を守ってくれたんだな」


僕が優しく頭を撫でると、黒猫は気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らして僕の手のひらに額の黒いダイヤをすり寄せてきた。

そこには、以前のようなただの動物としての感情だけでなく、明確な『知性』と、僕に対する強い親愛の感覚質クオリアが感じられた。


「お前には、名前が必要だな」


僕は撫でる手を止め、彼の美しい青い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「漆黒の毛並みと、深淵みたいな黒い宝石。……『シャノワール』。地球の言葉で、黒猫っていう意味だよ。どうかな?」


僕が少し照れくさくそう呼びかけると、彼はピンッと耳を立て、瞳を輝かせた。


「みゃお!」


短いけれど、はっきりとした歓喜の返事。

この危険で孤独な異世界で、僕に初めて、命を預け合える『家族』ができた瞬間だった。


グゥルルルルルルゥゥゥゥッ!!


感動的な余韻をぶち壊すように、僕の腹から洞窟全体に響き渡るような爆音が鳴り響いた。

限界だ。魔力枯渇による飢餓感が、早く栄養を入れろと暴動を起こしている。


「……よし。ご飯にしようか、シャノワール」


僕がフラフラと立ち上がると、シャノワールは嬉しそうに尻尾を立てて、先ほどの赤身肉のブロックの周りをぐるぐると回り始めた。

だが、ここで一つの現実的な問題が立ち塞がる。


これは、未知の魔獣の肉だ。

いくら新鮮とはいえ、寄生虫や未知の毒素が含まれている可能性は極めて高い。生焼けで食べれば、ただでさえ弱っている僕の体は一発でアウトだろう。

僕はもう一度、肉のブロックへ『構造認知ディープスキャン』のピントを合わせた。


シャノワールの解体が見事だったおかげで、腸などの消化器官は完全に分離されており、内容物が赤身に付着するような二次感染は起きていない。

さらに肉の繊維の奥深くまで知覚を潜らせてみたが、毒素を示すような不規則な『ノイズの感覚質クオリア』や、寄生虫のような『蠢く混沌の感覚質クオリア』は全く感じ取れなかった。

あるのは、極めて高密度に圧縮された良質なタンパク質と、大気中から取り込まれた芳醇な『魔素マナ』の脈動だけだ。


「よし、これならしっかり中まで火を通せば、安全に食べられるはずだ」


そう結論付けたはいいものの、決定的な問題がもう一つあった。


「……火、どうしよう」


寝床として敷き詰めてあった乾いた落ち葉や枯れ枝をかき集めたものの、肝心の着火手段がない。

僕の魔力は底を尽きかけているし、そもそも今の僕が使える魔法は、血反吐を吐きながら検証した不完全な治癒魔法くらいだ。ライターやマッチなんて便利な現代の道具があるはずもない。


目の前に極上のご飯があるのに、焼く手段がない。

僕は途方に暮れながら、隣で尻尾を振っているシャノワールに、冗談半分でボヤいた。


「はは……生肉じゃ食べられないしなぁ。シャノワール、お前、まさか火を起こせたりはしないよな?」


いくら賢くなったとはいえ、さっきまで死にかけていた猫だ。火なんて起こせるわけが――。


シャノワールは「にゃっ」と短く鳴くと、僕の前にスッと出てきた。

そして、彼自身の足元に落ちる影をドロリと動かし、そこから『極小の刃』を作り出したのだ。


(影の魔法……!?)


僕が驚愕する間もなく、シャノワールはその影の刃を、洞窟の床の硬い岩肌に向かって信じられない速度でガリッ!! と擦り付けた。


バチィッ!!


猛烈な摩擦によって巨大な火花が散り、僕が寝床からかき集めて作った落ち葉の山へと、一瞬にして燃え移った。

ポッ、とオレンジ色の炎が上がり、洞窟の壁を明るく照らす。


「…………マジかよ」


僕は完全に呆然とし、ポカンと口を開けた。

ドヤ顔で胸を張るシャノワールを見て、僕はもう笑うしかなかった。

摩擦熱の原理まで理解して応用するとは。頼りになるどころの話じゃない。


僕は手頃な木の枝に、シャノワールが一口大に切り分けてくれた魔獣の赤身肉を刺し、焚き火にかざした。

チリチリと肉が焼け、芳醇な脂が滴り落ちて炎が爆ぜる。

地球の牛肉にも似た、だがもっと野性的で、スパイスを揉み込んだような強烈に食欲をそそる香りが洞窟内に充満した。


「……そろそろ、いいか」


表面がカリッと焼け、中までしっかりと熱が通ったのを確認し、僕はその肉の塊に思い切り齧り付いた。


「――っ!! うまい……!!」


口いっぱいに広がる、暴力的なまでの旨味と肉汁。

それだけじゃない。肉に含まれていた濃厚な『マナ』が、胃の腑に落ちた瞬間から温かい熱となって全身の血管を駆け巡り、枯渇していた魔力を急速に満たしていくのがわかった。


「みゃー」


シャノワールも、僕の隣で焼けた肉(猫舌なので少し冷ましたもの)を、青い目を細めながらハフハフと美味しそうに頬張っている。


雨上がりの冷たい洞窟の中。

焚き火の温かなオレンジ色の光に照らされながら、満身創痍の少年と、漆黒のダイヤを持つ青い目の黒猫が、顔を見合わせてただひたすらに肉を喰らう。


数時間前まで死の淵にいたとは思えない、不思議で、ひどく平和な時間。

この頼もしく新しい小さな家族と一緒なら、この理不尽で危険な森でも、明日を生き延びることができるかもしれない。


僕は満たされていく魔力と胃袋の心地よさを感じながら、家族となった漆黒のシャノワールと共に、骨の髄まで魔獣の肉を味わい尽くした。

【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

もしよろしければ、ページ下部にある星マーク(☆☆☆☆☆)から評価をつけていただいたり、ブックマークで応援していただけると本当に嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ