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第5話 双翼は託されし理より顕現する

(Side黒猫)


いたい。

つめたい。


どろが、毛に、へばりつく。

あなからあふれる赤い水が、じめんを、ぬらしていく。

息を、はく。ひゅー、ひゅー、と、へんなおとが鳴る。


もりのなか。あめのにおい。

おおきな爪が、ぼくの腹を、ひきさいた。

あたまのなかの、たいせつな「いし」が、パチンと、われた。

いのちが、ポタポタと、こぼれおちていく。


かえらないと。

口のなかにある、すっぱい、赤い実。

これだけは、おとさない。

これを、はこばないと。


あの、くらい穴。

とおくのせかいからおちてきた、ふしぎなにおいの、よわい生き物。

つめたくて、こわれていたから。ぼくの熱と水を、あげた。

この実をたべさせないと、あの生き物は、動かなくなってしまう。


ズルッ。

前足に、ちからを入れる。

爪が、泥をかく。

いたい。目のまえが、まっくらになる。


でも、はこぶんだ。

あの、あたたかい、ちいさな、ねむりのばしょへ。


◆ ◇ ◆


――ズルッ、ズル。


冷たい、石のにおい。あなについた。

よわい生き物が、そこにいた。

ぼくの血のにおいをかいで、ひきつった、かなしい音を出した。


口から、赤い実を、ころがす。

たべて。

ぼくの「いし」は、もう、粉々だから。


ちいさくて、よわい生き物が、はうように近づいてきた。

あたたかい手が、ぼくの体を、つつみこむ。

彼の震える指先が、ぼくの割れたあたまの「いし」に、そっと触れた。


……ドクン。


その瞬間。

熱じゃない。水でもない。

もっと、べつの、何かが流れ込んでくる感触があった。


それは、音のない落雷のようだった。

ひび割れて、今にも消えそうだったぼくの「いし」のすき間に、見えない『極細の糸』が無数に入り込んでくる。


カチッ。カチ、カチッ。


それは、透明で、硬くて、絶対に折れない、幾何学的な『網の目』。

ぼくの壊れた器の隙間を縫うように、規則正しい形が組み上がっていく。

ぼくは、必死にそれを飲み込んだ。

この、強くて、綺麗な「かたち」を、こぼれ落ちていく命の代わりに、すいこんでいく。


視界が、急激にクリアになった。

雨の音。風の温度。彼の速い心音。

それらすべてが、ただの「感じ」ではなく、明確な「情報」として脳裏で処理されていく。


ああ、そうか。

これが、「理由」なんだ。


なぜ、水は高いところから低いところへ落ちるのか。

なぜ、熱は空気を揺らすのか。

原因があって、結果がある。

世界を繋ぎ合わせるための、絶対的な、理由。


彼ら(にんげん)は、これを『ことわり』って呼ぶんだね。


ぼくのひび割れた認知の中枢に、彼が持っていた論理的な思考の網の目が、寸分の狂いもなく重なり合う。

透明だったぼくのガラスの器が、彼から流れ込んできた『記録』――地球という異世界で磨き上げられた、最も安定した炭素結合の概念を吸い上げ、別の物質へと再構成されていくのが分かった。


視界の端で、ぼくの額が鈍く光る。

光を反射するだけの透明な器じゃない。

周囲のわずかな光すらも吸収し、すべてを内包する、絶対的な漆黒。

『黒いダイヤモンド』。

それが、今のぼくの額で脈打つ、新しい認知の核。


彼の魔力と、彼の思考領域リソースを限界まで借り受けたことで、ぼくの命は繋ぎ止められた。

それどころか、ただ本能のままに魔力を振り回していただけのぼくの意識は、今や、大気中に漂う『魔素マナ』の流れを、目に見える光の粒子として捉えられるほどに澄み切っていた。


ドサッ。


重い音がして、彼が冷たい岩肌へと倒れ伏した。

ぼくの再構成のために、すべてを搾り取られたんだ。

彼からぼくへ流れ込んできた、記憶の残滓。彼が暗闇の中で、鼻血を出して、幻痛にのたうち回りながらも、必死に世界の法則を解き明かそうと足掻いていた日々の『成果』と『記録』。

それを、自分の命を投げ打ってでも、ぼくにくれたんだ。


――ドスンッ!!!


突然、洞窟の入り口を塞ぐように、巨大な質量が降り立った。


外の冷たい雨風が遮断され、代わりに、腐肉と血の混じった、吐き気を催すようなひどく生臭い息が洞窟内に充満する。

ぼくの全身の毛が、本能的な恐怖で逆立った。


見えなくても分かる。

異常に発達した四肢。刃物のように鋭い爪。

森でぼくを襲い、ぼくの腹を裂き、殺しかけた魔獣だ。


『グルルルルル……』


地響きのような唸り声。

暗闇に光る、黄色く濁った双眸。

血の匂いを追ってきた獣は、冷たい岩肌でピクリとも動かなくなった彼を見て、下劣な食欲のままに牙から粘着質な涎を垂らした。


魔獣が一歩、洞窟の中へ踏み入る。

岩が砕ける嫌な音がした。

奴は、ぼくには目もくれていない。完全に無力化した『彼』を、最も食べやすい極上の肉として認識し、無防備なその首筋へと巨大な顎を開いて顔を近づけた。


(……やめろ)


静かな、ひどく冷たい怒りが、ぼくの腹の底で爆発した。

かつてのぼくなら、恐怖ですくみ上がり、逃げることしかできなかっただろう。

でも、今のぼくは違う。


ぼくは、跳ね起きた。

額の黒いダイヤモンドが、ぼくの殺意に呼応して、深淵のような漆黒の光を激しく明滅させる。


魔獣が、邪魔に入ったぼくを鬱陶しそうに一瞥し、太い丸太のような前足を無造作に振り上げた。

空気を引き裂く爪の音が鳴る。当たれば、今度こそぼくの体は挽肉になる。


(……遅い)


ぼくの視界の中で、世界が泥のように重く、ゆっくりとしたスローモーションに切り替わった。

彼から受け継いだ、知覚の加速。


大気中のマナが、ぼくの足元へと凄まじい引力で吸い込まれていく。

ぼくは元々、森の影に隠れて生きる弱い生き物だった。だからこそ、暗闇の使い方は誰よりも知っている。


ぼくは、足元に色濃く落ちる自分の影に、彼から共有された『鳥の翼の揚力構造』と『刃物の鋭角な概念』という、二つの理の記録を叩き込んだ。


ズルリ、と。

ぼくの足元の影が、まるで意思を持ったコールタールのように這い上がり、背中で一対の巨大な『影の翼』として爆発的に実体化する。

バサァッ!! と空気を力強く叩く音。

寸分の無駄もない、極めて鋭利で美しき漆黒の双翼。


「――みゃあぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


ぼくの咆哮と共に、振り下ろされようとしていた魔獣の巨大な腕に向かって、影の翼が自律的に動き、鋭い羽の一枚を射出した。


ズガァンッ!!!


「ギ、ガァッ!?」


弾丸のように放たれた影の刃は、魔獣の分厚い腕の筋肉と骨を、何の抵抗もなく根元から切断した。

遅れて噴き出す大量の血。

魔獣が、信じられないものを見たというように、自身の無くなった右腕とぼくを交互に見る。


彼から学んだ「最も物質を分断しやすい角度と圧力」。

それに、ぼくの野生の狩猟本能が合わさる。

今のぼくの目には、痛みに悶え、体勢を崩した魔獣の体の断層が、『光る線』という形の感覚質クオリアとしてはっきりと捉えられていた。

骨の隙間、肉の最も柔らかい場所。命を断ち切るための、最適解のルート。


魔獣が、激痛と怒りで我を忘れ、残った左腕と巨大な顎でぼくを食い殺そうと突進してくる。

迫り来る、死の質量。

だが、ぼくの心は完璧に冷え切っていた。


(……ぼくの『理』の前に、ひれ伏せ)


ぼくは影の双翼を大きく広げ、獲物の死のルート(光る線)に向かって、雨霰の如く影の刃を一斉に射出した。


ヒュンヒュンヒュンヒュンッ!!!


風を切り裂き、空間そのものを分断するような鋭い破擦音の連続。

空中に飛び上がった魔獣の巨大な体は、分厚い毛皮も、鋼のような筋肉も、強固な骨格も一切の無意味と化し、一瞬にして数十の肉片へと解体された。


「…………」


断末魔の悲鳴すら上げる暇はなかった。

魔獣は、自分が切り刻まれたことすら理解できないまま、ただの肉の塊となって洞窟の泥の上へとボトボトと墜落した。

ドサァッ、と生臭い血と内臓の雨が降る。


でも、ぼくの影の翼が傘のように大きく展開してそれを防ぎ、背後で眠る彼の寝顔を汚すことは、一滴たりとも許さなかった。


圧倒的で、無駄のない暴力。

これが、彼が命懸けで組み立てた『理』と、ぼくの『魔力』が合わさった結果なんだ。


ぼくは背中の翼をスッと消して、ただの影に戻した。

洞窟には再び、静かな雨音だけが響くようになった。

ぼくは、冷たい岩肌で意識を失っている彼の顔の横に寄り添い、ぽすんと丸くなった。


彼の呼吸は浅いけれど、確かに命の音は続いている。

ぼくのこの命は、彼が痛みに耐えて、その身を削って繋ぎ止めてくれたものだ。


ぼくの額で、黒いダイヤモンドが静かに脈打つ。

言葉は通じなくてもいい。

ぼくが、守る。この命を懸けて、ずっと。


ぼくはザラザラとした舌で彼の冷たい頬を一度だけ舐めると、入り口の血の匂いを警戒しながら、彼を温めるために静かに目を閉じた。



【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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