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第4話 漆黒の覚醒は決死の同調から

洞窟の入り口から差し込んでいた僅かな光が完全に途絶え、濃密な闇が世界を塗り潰してから、どれほどの時間が経っただろうか。


外からは、草の葉を叩きつける冷たい雨音と、時折、大気を震わせるような正体不明の獣の遠吠えが聞こえてくる。

僕は冷え切った岩肌に背を預け、浅い呼吸を繰り返しながら、ただひたすらに「それ」が帰ってくるのを待っていた。


いつもなら、とっくに帰ってきているはずの時間だ。

胸の奥に、じわじわと嫌な焦燥感が広がり始める。

ここは、ビルほどもある巨大な金属の熊や百足が殺し合っていたような、理不尽でイカれた森だ。あんな小さな生き物が、単独で生き残れるような場所じゃない。

分かっている。分かっていて、僕は自分が生き延びるために、あいつが危険な外へ食料を探しに行くのを黙認していたのだ。


「……頼む。無事でいてくれ……」


祈るような言葉は、虚しく暗闇に吸い込まれる。

この数日間の、暗闇での泥臭い試行錯誤。僕は自身の身体に起きている未知の現象をコントロールし、確実な現象として再現するために、いくつかの『定義づけ(ラベリング)』を行っていた。

曖昧な感覚を、明確な『言葉』という箱に収めて整理する必要があったのだ。


例えば、空間に漂い、世界を構成している万能のエネルギー粒子。僕はこれを、地球のゲーム知識に当てはめて『魔素マナ』と呼ぶことにした。

そして、自分の体内に蓄積され、そのマナを動かして世界の法則に干渉し、ことわりを伝えるための内的リソース。これを『魔力』と名付けた。


干上がりかけていた体内の『魔力』は、この長い待ち時間のおかげで、もう一度だけ現象を構築できる程度には底に溜まっている。だが、少しばかり動けるようになったからといって、今の僕が暗闇の森へ探しに出たところで、何ができるというのか。


自分の無力さに吐き気がした、その時だった。


……ズルッ、……ズル。


雨音に混じって、洞窟の入り口付近から、泥の上を何か重いものを引きずるような微かな音が聞こえた。


「……っ!」


全身の産毛が総毛立つ。

危険な森の捕食獣か? 息を潜め、痛む身体を無理やり動かして入り口の方へ視線を凝らす。

真っ暗で何も見えない。だが、微かな鉄錆びた匂い――血の匂いが、冷たい風に乗って鼻を突いた。


僕は迷うことなく、自身の脳のスイッチを切り替えた。


これも、試行錯誤の中で僕が名付けた能力の一つ。脳のリミッターを外し、周囲のマナの流れや物理法則の高解像度な生データを一気に取り込む、ベースとなる知覚の加速状態。

僕はこれを、『知覚拡張オーバークロック』と定義している。


耳の奥でカチリと音が鳴り、視界が泥のように重いスローモーションへと移行する。

知覚の解像度が跳ね上がり、暗闇の奥で動く『熱源』と『マナの微弱な波』を捉えた。

同時に、僕は意識のレバーを慎重に操作した。


これまでの『知覚拡張』は、発動と同時に体感時間が極限まで引き延ばされる、調整不能な全力疾走のようなものだった。だが、この数日間の地獄のような検証を経て、僕は理解していた。

この加速には「倍率」がある。


知覚の処理能力(倍率)をあえて落とし、体感時間の引き延ばしを抑えることで、脳への致命的な負荷を軽減することができるのだ。

今の僕に必要なのは、脳を焼き切るような一瞬の閃きではなく、負荷を抑えた持続的な「観察」と「状況把握」だ。

僕は加速のギアを一段落とし、現実の時間がゆっくりと流れるのを感じながら、暗闇の奥にいる『何か』を確認した。


そこにいたのは、巨大な脅威などではなかった。


「お前……ッ!!」


思わず、引き攣った声が出た。

僕を助けてくれた、あの小さな黒猫だった。

だが、その姿はあまりにも凄惨だった。誇り高かったふさふさの黒い毛並みは赤黒い血でべっとりと固まり、脇腹には鋭利な何かでえぐり取られたような、骨まで達しようかという深い裂傷が口を開けている。

そして何より――彼の額に埋まっていた、透き通ったガラス玉のような美しい宝石。

彼らの認知機能と精神を結びつける中枢器官が、ハンマーで叩き割られたように無残に砕け散る寸前だったのだ。


「みゃ……あ……」


黒猫は僕の顔を認めると、限界だったのか、ずるりとその場に崩れ落ちた。

そして、口に咥えていた『赤い木の実』を、ぽろり、と僕の足元へ転がした。


自分が死にかけているのに。

腹を割かれ、認知の中枢を砕かれながらも、動けない僕にこのたった一つの実を届けるためだけに、泥にまみれて這ってきたというのか。


(……嫌だ。お願いだから、死なないでくれ……僕のために、命を投げ出すなんて……)


胸を締め付けるような激しい後悔と悲痛が、僕の脳髄を沸き立たせた。

僕は這うようにして黒猫に近づき、その小さな身体を両手で包み込んだ。

浅く、早い呼吸。異常な知覚が、彼の命の灯火が今にも消えようとしている生データを、残酷なまでに精細に僕の脳へ突きつけてくる。


まだ完治しきっていない胸の骨の鈍い痛みなど、もはや脳が認識していなかった。

僕はただ目の前の命を繋ぎ止めるためだけに、溜まっていたなけなしの魔力をすべて掻き集め、黒猫の額――ひび割れた透明な宝石へと意識を一点に集中させた。


全体を広く感じ取る『知覚拡張』状態から、さらに特定の対象だけに処理能力を限界まで絞り込み、その奥底にあるルールや構造を完全に解析・抽出する。

名付けるなら、『構造認知ディープスキャン』。


意識のピントが、ミクロの世界へと急激に落ち込んでいく。

僕は再び意識のギアを最高速まで跳ね上げた。現実の時間が完全に静止したかのような、永遠に近い静寂の空間。


僕は黒猫の宝石の内部構造を、神経を研ぎ澄ませて覗き込んだ。


そこは、崩壊の瀬戸際だった。

精神と魔力を繋ぐアンカーであるはずの宝石に物理的な亀裂が入ったことで、認知のネットワークがズタズタに寸断されている。

そして何より致命的なのは、本来であれば体内に留めておくべき彼の『生命力』が、無数のヒビから蒸気のように漏れ出し、大気中のマナへと還元されて急速に散逸し始めていることだった。


(……ただ肉体の傷を塞ぐだけじゃダメだ。この『認知の中枢』の崩壊を止めないと、生命力がすべてマナに還って死ぬ)


だが、どうやって?

相手はこの未知の森の生物だ。彼らの中枢器官の正しい「理」なんて、僕の地球の知識にあるはずがない。


僕はミクロの世界で、砕け散る寸前の宝石が放つ情報を知覚した。

精密な知覚を通して触れる対象の感触、質量、そして概念の塊。僕はその情報の質感・手触りのようなものを『感覚質クオリア』と名付けている。

黒猫の宝石の感覚質クオリアは、まるで極限まで張り詰めてからひび割れた、脆く儚い薄張りのガラス細工のように感じられた。


(……この薄張りのガラスの感覚質クオリアを、元の形に戻そうとしても無駄だ。構造自体が脆すぎる)


僕は加速する思考の海で、必死に論理の糸を手繰り寄せた。

強引に僕の理屈を押し付ければ、激しい反発を生んで、今度こそこの小さな命が砕け散ってしまう。


ならば――押し付けるのではなく、ただ『提示』する。


僕は自分の中に蓄積された『理』を、黒猫の砕けゆく宝石のすぐ傍にそっと置くようにイメージした。

炭素の結合。地球上で最も硬い鉱物の、絶対的な構造式。

僕が持っている論理的な思考、事象を組み立てるための極めて強固で安定した法則性の感覚質クオリアを、両手を添えて優しく共有するように、ただそこへ流し込む。


無理に同調させようとはしない。

「もしこの形が気に入ったなら、自由に使ってくれ」と、主張しすぎないように、あくまで選択肢の一つとして差し出す。


極限の集中。

その瞬間だった。


(……あ、)


意識の深い泥の底で、崩壊しかけていた黒猫の認知の核が、僕の提示した『理』にピクリと反応したのを、知覚が確かに捉えた。


それはまるで、溺れる者が差し出された浮き輪にすがりつくような、あるいは乾ききったスポンジが水を吸い込むような、貪欲で力強い反応だった。

黒猫の意思が、僕の論理的な思考の断片(構造式)を自ら吸い上げ始めたのだ。


砕け散る寸前だった透明な器が、僕の異質な『地球の理』を読み取り、自らの欠落を埋めるための設計図として採用していく。

だが、彼自身にはもう、その高度な再構成の演算をこなすだけの処理能力も、魔力も残っていなかった。


(……なるほど。構造を理解したのはいいけど、それを組み立てるための力が足りないのか)


黒猫の認知の中枢が、僕の思考回路と魔力へ、まるで助けを求めるようにリンクを繋いできた。

彼の中枢器官が、僕の脳の知覚処理能力を『外部リソース』として借り受け、自ら修復の計算を始めたのだ。


同時に、深く繋がったリンクを通して、黒猫の意思――言語化できない純粋な本能や、この世界のマナに対する根源的な感覚が、僕の脳へと静かに逆流してくる。

地球の数式や論理だけでは絶対に辿り着けなかった、マナという奔流の、あまりにも生々しい脈動の手触り。

未知の感覚質クオリアに脳が粟立つ。だが今は、それに感嘆している余裕などない。


(……持っていけ。僕の魔力も、処理領域も、好きなだけ使っていいから……絶対に、生き残れ……!)


僕は奥歯を噛み締め、黒猫が僕のリソースを吸い上げるのに任せた。

透き通っていた宝石の欠片が、僕の脳を酷使して導き出された極めて安定した論理構造の圧力によって結晶化し、深淵のような漆黒へと染まっていく。

暗闇の光すらも吸い込む、無傷の『ブラックダイヤモンド』のような、圧倒的な安定度を誇る中枢器官としての再構成。


だが、それは僕の脳にとって、致死領域に近い情報処理の負荷を意味していた。

自らの知覚を維持するだけでも限界だった脳の処理能力を、異種族の進化の演算のために100%以上酷使され続ける。

鼻の奥が不快な熱を持ち、赤い血がとめどなく垂れるのがわかった。


(……まだだ、まだ……)


僕はギリギリまで理の同調と魔力の供給に耐え続けた。

黒猫の額のブラックダイヤモンドが完全に定着し、生命力の漏出がピタリと止まるのを、霞む知覚で確認する。


(……よし、これで……)


限界だった。

僕の脳が焼き切れる寸前、自己防衛本能が『構造認知』と『知覚拡張』のリンクを強制的に切断・シャットダウンした。


現実の時間の流れが、暴力的な質量を持って押し寄せてくる。

拒絶やバグによるダメージではない。純粋に、処理能力を限界突破まで酷使された脳が悲鳴を上げ、痛覚野を激しくショートさせたのだ。


全身の神経が焼け焦げるような幻痛ファントムペイン

すべての魔力を吸い上げられたことによる、胃の腑が裏返るような激しい飢餓感。


僕は悲鳴を上げる気力もなく、岩肌に力なく倒れ込んだ。

だが、ぼやける視界の先で、黒猫の額に再構成された黒いダイヤモンドが漆黒の輝きを放ち、脇腹の裂傷が急速に塞がっていくのが見えた。


助かった。

黒猫が自らの意思で、僕の理を吸い上げ、生き延びたのだ。

張り詰めていた糸が切れ、深い気絶の淵へ意識が沈みかけた、その時だった。


――グルルルルルルルッ。


洞窟の入り口から、空気を凍らせるような、低く、重い唸り声が響いた。


(……なんだ……?)


重い瞼を微かに開ける。

入り口に、巨大な影が立っていた。

異常に発達した四肢と、刃物のように鋭く反り返った爪のシルエット。雨に紛れて、ひどく生臭い獣の臭いが漂ってくる。


血の匂いを追ってきた捕食者だ。

魔獣は、倒れ伏してピクリとも動けない僕たちを、明確な『餌』として認識し、喉の奥で嗤うように牙を鳴らした。


(……逃げろ、お前だけでも……)


声は出なかった。

魔力は完全に尽き、指一本、瞬き一つすら自力では動かせない。

絶望の中、僕は魔獣が大きく口を開け、こちらへ飛びかかろうとする姿を網膜に焼き付けながら、深い闇の中へと意識を落としていった。


【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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