第3話 心の支えは小さな体温
自身の身体を修復する『理』を構築し、初めて現象を定着させてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
奇跡の完全復活――なんて、現実はそんなに甘くはなかった。
「……痛っ、あ……」
少しでも身体をよじると、不自然に癒着した肋骨がギシギシと軋み、周囲の炎症を起こした肉が悲鳴を上げる。
初めて構築した回復の理は、確かに僕の命を繋ぎ止めた。だが、それはあくまで「内臓に刺さりかけていた骨を強引にくっつけ、致命的な出血を止めた」程度の、極めて微弱なものだった。
原因は分かっている。僕が思い描いた理と、この世界の理との間にある『ズレ』だ。
その矛盾を押し通して強引に現象を成立させた結果、体内の『何か』を一発で完全にすり減らしてしまったのだ。
ゲームやアニメの知識に当てはめるなら、魔力(MP)やスタミナとでも呼ぶべき内的リソース。
それが今は完全にすっからかんで、指先一つ動かすだけで胃の腑が裏返りそうになるほどの虚脱感に支配されている。
呼吸をするたび、干上がった川底のようにカラカラになった体内の感覚が分かる。
どれくらい待てば、このリソースが再び回復するのか。その見当すら全くつかない。ただ、洞窟の入り口から差し込む光の角度が変わっていくのをじっと見つめながら、一滴、また一滴と、湧き水が溜まるような気の遠くなるペースで体内の『何か』が戻ってくるのを待つしかなかった。
焦燥感と飢餓感に苛まれながら冷たい岩肌に寝転がっていると。
……ズルッ、ズルッ。
不意に、洞窟の入り口の方から、泥の上を何か重いものを引きずるような微かな音が聞こえた。
(……化け物、か……?)
全身を強張らせ、痛みに耐えながら薄目を開けてそちらへ視線を向ける。
そこにいたのは、自身の身体の半分ほどもある大きな葉っぱを一生懸命に咥え、後ろずさるようにして必死に引っ張っている『小さな黒い毛玉』だった。
僕を助けてくれた、あの小さな黒猫だ。
僕が目を覚ましたことに気づくと、黒猫は葉っぱを僕の顔のすぐ横まで引きずってきて、ぽふっ、とその場に座り込んだ。
そして、額の宝石を淡く光らせて空中に水滴を作り、僕のひび割れた唇に落としてくれた。
「……ごくっ……」
渇きが少しだけ癒え、改めて目の前の葉っぱに視線を落とす。
そこには、森で採れたと思われる赤い木の実や、水気を含んだ苔のようなものがいくつか乗っていた。
「お前……これ、僕の分……?」
かすれた声で尋ねると、黒猫は「みゃお」と短く鳴いて、鼻先で葉っぱをぐいっと僕の方へ押しやってきた。
動けない僕に食べさせるために。僕が泥のように眠っている間、わざわざあの危険な外の森へ食料を探しに行ってくれていたのだ。
「……ありがと、う……」
震える手を伸ばし、木の実を口に含む。
顎を動かすだけで首の筋肉や骨が軋んで痛むが、無理やりすり潰して飲み込んだ。
強い酸味と渋みが広がる。極度の水分不足と飢餓状態のせいか、ここに来てから便意や尿意といった生理現象すら完全に沈黙していた。この実が、今の僕の命を繋ぐ唯一のカロリー源だ。
僕が飲み込むのを見届けると、黒猫は安心したように丸くなり、宝石を赤く光らせて僕の冷え切った身体を温め始めた。
「……グルルルルォォォッ!!」
突然、洞窟の外から大気を震わせるような獣の咆哮が響いた。
ズシン、ズシンと、重い足音が遠くの地面を揺らす。
地響きが鳴るたび、黒猫は全身の毛を逆立てて威嚇するように喉を鳴らし、僕の身体を隠すようにぴったりと寄り添ってくれた。
この暗闇の中で、この小さな命の体温だけが、僕の正気をギリギリで繋ぎ止めていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから、暗い穴ぐらでひたすら己の回復を待つ時間が続いた。
洞窟の入り口から差し込む光が一度完全に失われ、再び白み始めた頃――干上がっていた体内のリソースが、ほんの少しだけ底に溜まった感覚があった。
(……よし。もう一度だけ、試せる)
だが、前回と同じように闇雲に理を構築しても、また矛盾が生じて不自然に骨が癒着するだけだ。
僕は横たわったまま、隣で毛づくろいをしている黒猫に声をかけた。
「ごめん、少しだけ……また身体を、温めてくれないか?」
僕の意図は分からないだろうが、黒猫は「みゃ」と鳴いて僕の胸元に丸まると、額の宝石を赤く光らせて熱を放ち始めた。
その瞬間、僕は浅く早い呼吸を繰り返し、意識を泥の底へ沈める。
カチリ、と耳の奥で血液が逆流するような音が鳴った。
――視界が、泥のように重く、ゆっくりとしたスローモーションに切り替わる。
極限まで引き上げられた知覚。
僕は異常に加速した思考の中で、熱を放っている黒猫の額――その『宝石』の奥深くへと意識の焦点を合わせた。
大気中のエネルギーが、宝石の中へと吸い込まれていく。
極限の知覚でその成り立ちを覗き込むと、宝石は物理的な器官というよりも、精神やエネルギーを統括する『第三の目』――あるいは東洋医学でいう『チャクラ』のような、見えない機能の中心点として働いていることが直感的に理解できた。
エネルギーはその認知の中心を通過する際、決して力任せに変換されているわけではない。
黒猫の『温めたい』という意思とエネルギーが完全に同調し、反発を生むことなく、極めて自然な流れとして熱に変わっているのだ。
(対して、僕の最初の魔法はどうだったか……足りない医学知識を補おうと、無理やり地球の理屈を押し付けたせいで、エネルギーの流れがひどく歪で、周囲の法則と激しく衝突していたんだ)
今の僕に、これ以上の専門知識を付け足すことは不可能だ。
なら――知識で矛盾を埋めるのではなく、この『反発しない自然な流れ』の感覚を真似ればいい。
僕はスローモーションの体感時間の中で、自分の頭の中のイメージにエネルギーを這わせてみる。
少しでも違和感や、法則と反発するようなギザギザとしたノイズを感じたら、イメージの形を微調整する。
黒猫が見せた『正しい流れ方』と、僕の『強引な流し方』の知覚の違い。その感覚的なズレを頼りに、水が最もスムーズに流れるような道筋を探り当てていく。
現実の時間は、まだ黒猫が一つ欠伸をする程度しか経っていない。
だが僕の脳内では、何百回という緻密な感覚のすり合わせの末に、新しい理の構築が完了しようとしていた。
最後に、体内のリソースをほんの少しだけ流し込む。
「――っ、あ」
タキサイキア現象が解除され、現実の時間の流れが急激に押し寄せる。
途端に、強烈な情報処理の反動で鼻の奥が熱くなり、ツー、と赤い血が垂れた。
だが、前回のような発狂しそうな幻痛はない。
じんわりと。
不自然に癒着していた肋骨のあたりが、温泉に浸かったような心地よい熱を持ち始めた。
骨の軋みが微かに和らぎ、呼吸が昨日よりも明らかに楽になっている。
「……みゃ?」
僕が鼻血を出して荒い息を吐いているのを見て、黒猫が心配そうに顔を近づけてきた。
ざらざらとした小さな舌で、僕の鼻血をペロペロと舐め取ってくれる。
「大丈夫……成功だ。少しだけ、分かってきた気がする……」
僕が力なく微笑むと、黒猫は「きゅる」と喉を鳴らし、僕の熱を持った患部の上にぽすんと丸まって目を閉じた。
その重みと体温が、今はひどく心地よかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それからの数日間は、その繰り返しだった。
体内のリソースが溜まるのを待ち、黒猫の現象を観察して『自然な流れ』の感覚を掴んでは、引き延ばされた体感時間の中でひたすら脳内の理を洗練させていく。
感覚のすり合わせを誤り、理の矛盾による強烈なノイズが知覚拡張中の脳を直撃し、そのショックで現実の時間へ弾き出された後も、ショートした痛覚が焼き付くような幻痛を引き起こしてのたうち回る日もあった。
そんな時は、黒猫がずっと寄り添って体温を分けてくれた。
逆に、何かがぴたりとかち合うような感覚と共に、傷口が目に見えて塞がっていく日もあった。
少しだけ上体を起こせるようになった時は、僕の膝の上に乗って誇らしげに鳴いた。
洞窟の入り口から差し込む光の明暗でしか時間の区別がつかなくなり、全身に泥と血の匂いがこびりついていく。
それでも、僕とこの小さな生き物の間には、理不尽な森の暗闇を共有する、確かな絆が芽生えていた。
そして、幾度目かの朝の光が差し込んだ時のこと。
僕の身体は、毎日の理のアップデートの甲斐もあって、ようやく壁に手をついてゆっくりと立ち上がれるまでになっていた。
まだひどい倦怠感はあるが、日常的な動作ならどうにかこなせる。
(……長かった。でも、やっと動ける)
壁に手をつき、安堵の息を吐いた時だった。
「みゃお」
黒猫が、いつものように短く鳴いて洞窟の入り口へと向かった。
今日も僕のために、食料を探しに行くつもりらしい。
「あ、待って。今日は僕も……」
一緒に行く、と声をかけようとしたが、黒猫は小さく尻尾を振り、ひらりと外の茂みへと消えていった。
僕は岩肌に寄りかかりながら、外の光を見つめた。
身体が治ったら、まずはあいつと一緒に水場を探そう。泥だらけの身体を洗って、何か少しでも美味しいものを探すんだ。
そんな、ささやかな現実逃避をしながら帰りを待つ。
だが――。
入り口から差し込む光が朱色に染まり、やがて完全な闇に落ちても。
いつもならすぐに戻ってくるはずの黒猫が、帰ってくる気配はなかった。
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