第2話 生存の理は激痛の果てに
泥のような深い闇から僕の意識を引きずり起こしたのは、全身の神経を苛む、焼け焦げるような激痛だった。
「……あ、ぐ……っ、は……」
目を開けようとしても、瞼の上に重い鉛が乗っているかのように動かない。
指先をほんの数ミリ動かそうとしただけで、背骨から脳天へ向かって高圧電流のような痛みが走り、肺の奥からヒュー、と情けない空気が漏れた。
生きている。
あの致死的な高さの崖から落下して、なぜ僕は肉片になっていないんだ。
血の塊で張り付いた睫毛を無理やりこじ開け、薄目を開く。
視界に広がったのは、冷たくて硬い岩肌。どうやら、どこかの薄暗い洞窟の中らしい。
崖下の泥濘の中ではない。それに、僕の身体が横たわる乾いた土には、何かを引きずったような不自然な跡が、入り口の方からずっと続いているのが見えた。
(木の枝に引っかかって即死を免れた……? いや、それにしたって、誰が、あるいは『何』が僕をこの洞窟まで運んだんだ……?)
思考を回そうとするが、呼吸をするたびに折れた肋骨が内臓に突き刺さるような激痛が走り、意識が何度も白く飛びそうになる。
口の中は砂を噛んだようにカラカラに乾ききっており、鼻の奥には自分の血の鉄錆びた匂いがべったりとこびりついていた。
動けない。助けも来ない。
このまま誰にも知られず、冷たい石の上で干からびて死ぬ。
そんな暗い絶望が頭をよぎった、その時だ。
「……みゃあ」
耳元で、ひどく小さく、愛らしい鳴き声がした。
同時に、鼻先をふさふさとした柔らかな毛がそっと撫でる。
濁った視界の端に映ったのは、『黒い毛玉』のような小獣だった。
小さな黒猫に似ている。だが、その額には、光の届かない薄暗い洞窟の中でも微かに淡い光を放つ、透き通ったガラス玉のような『宝石』が埋まり込んでいた。
(額に宝石がある猫……。さっきの巨大な金属の熊や百足。……認めたくはないけど、ここは地球の常識が通じる場所じゃない)
警戒して身体を縮める余裕すら、今の僕にはない。
ピクリとも動けない僕の顔を覗き込むと、黒猫は「きゅる」と喉を鳴らし、額の宝石をチカチカと明滅させた。
直後、僕の乾ききった唇に、ぽたり、と冷たい液体が落ちてきた。
水だ。
上にある鍾乳石から落ちてきたわけじゃない。宝石が光った直後、黒猫の鼻先の空中の水分が、急激に結露したように集まって水滴を形成したのが、この目ではっきりと見えた。
「……っ、あ……」
むせ返り、喉の奥に激痛を走らせながらも、僕はその命の水を無我夢中で飲み込んだ。
水だけではない。
黒猫は僕の顔のすぐ横に丸まると、再び宝石を微かに赤く光らせた。
毛皮の体温じゃない。宝石の周囲の空気が、まるで冬場のストーブの熱源のように陽炎を作って揺らいでいる。
この小さな生き物が、瀕死の僕を洞窟の奥まで引きずり、こうしてずっと看病してくれているのは間違いなかった。
(……ただの自然現象じゃない。宝石が光ると、何もない空間から水や熱が発生する……?)
その光景を見た瞬間、僕の脳裏に、あの崖から落下した時に極限状態で感じ取った『大気中のエネルギーの波』の記憶が蘇った。
もしあの未知のエネルギーが、何かを物理現象に変換するための『動力源』だとしたら。
僕はそれを確かめるため、周囲の情報を極限まで拾い上げる異常な脳の処理状態を、意図的に引き起こそうと試みた。
(あの落下中、岩肌にぶつかる現実の痛みと、景色が止まるようなスローモーションの感覚が何度も交互に切り替わった……。あの、強制的に脳を加速させられる感覚が焼き付いている今のうちなら、あるいは……)
浅く早い呼吸を繰り返し、意識を泥の底へ深く沈める。
あの落下の恐怖と、身体が砕ける直前の絶望感を、脳内で強引にフラッシュバックさせる。
心臓が早鐘を打ち、全身から冷たい脂汗が吹き出した。
何度も視界がぐにゃりと歪み、胃液を吐き出しそうなほどの悪心に襲われながらも、落下の記憶を頼りに神経を極限まで尖らせていく。
カチリ、と。
耳の奥で、血液が逆流するような奇妙な音が鳴った。
視界が、ゆっくりとスローモーションに切り替わる。
(……見えた。いや、見えるだけじゃない。肌を刺す微細な温度の変化、大気の震える音……匂いすらも……)
視覚だけでなく、聴覚、触覚、嗅覚、あらゆる知覚の解像度が異常に引き上げられる。
大気中に漂う『未知のエネルギー』が、光の粒子と熱の波のうねりとなって、凄まじい情報量で脳内に流れ込んでくる。
情報が多すぎて、脳の血管が千切れそうだった。
黒猫が額の宝石を光らせる。
僕は頭が割れるような痛みに耐えながら、その現象の成り立ちだけに意識を一点集中させた。
大気中のエネルギーが宝石に吸い込まれる。
極限の知覚でその内部を覗き込むと、宝石の中には目に見えない『回路』のような、複雑な物理的構造が存在しているように見えた。
エネルギーはその機械的なフィルターを通過した瞬間に波長を変化させ、『水分子の結合』や『熱振動』という明確な結果に変換されているのだ。
(なるほど……。あの宝石が『フィルター』になって、エネルギーに法則を与えているのか)
だとしたら。
僕にはあの宝石がない。だが、この膨大なエネルギーを受信し、認識できる『脳』がある。
僕の脳を直接フィルターにして、現象の設計図を思い描けば、同じことができるのではないか?
(……やるしかない。このままじゃ、確実に死ぬ)
僕が一番望んでいるのは、ただ生き延びることだ。
そしてもし生き延びられたら、こんな血生臭くて冷たい石の上じゃなく、温かいお風呂に入って、ふかふかのベッドで眠りたい。
発狂しそうな全身の痛みを紛らわすための、そんなすがりつくような希望だけを命綱にして、僕は脳内で『自分の身体を治す理』の構築を始めた。
(僕は医者じゃない。専門的な医療行為なんて分からない。高校の生物レベルの知識でいい……血小板を集めて血を止める。細胞分裂を促すために患部に熱を集めて、カルシウムを接着剤にするイメージ……)
想像した設計図と、実際のエネルギーの波長をすり合わせる。
異常に加速した脳の処理速度によって、体感では数十分も考え込んでいるつもりでも、現実の肉体はほんの数秒しか経っていない。
思考は高速で回るのに、呼吸すらまともにできない肉体が置いてけぼりになる。その激しい認識のズレが、強烈な車酔いのような吐き気を引き起こす。
(波長を合わせて、エネルギーを、こう、流して……)
「……がっ、あぁ……ッ!」
失敗。
僕が頭の中で組み上げた細胞分裂の設計図と、この世界が持つ本来の理との間に、ほんのわずかな『ズレ』があったらしい。
構築した理屈が破綻した瞬間、異常に研ぎ澄まされた知覚で世界と直接繋がっている僕の脳に、強烈な不協和音が逆流してきた。
致死量のノイズを被弾した脳が、自己防衛のために異常な知覚状態を強制シャットダウンする。 だが、現実の時間へ弾き出された後も、ショートを起こした痛覚野は強烈な光を見た後の残像のようにバグを起こし続けた。
肉体に新たなダメージは一切ないはずなのに、折れた肋骨の痛みが本物の激痛として数倍に増幅して襲いかかってくる。
「あ……あぁっ……!」
ありもしない幻痛に脳が錯乱し、鼻の奥が不快な熱を持って、ツー、と赤い鼻血が垂れた。
限界を超えた情報処理と、矛盾の衝撃を直に受けた脳が、熱暴走を起こしているのだ。
おまけに、破綻した理屈をどうにか成立させようと無意識に足掻いたせいか、体内の『何か』が猛烈な勢いで吸い取られ、胃の腑を直接鷲掴みにされたような、飢餓感にも似た強烈な虚脱感に襲われる。
(痛い……吐きそう……。設計図の整合性が甘い。もっと矛盾をなくして、完璧な理屈に……!)
失敗して強制解除され、鼻血を出し、激痛に耐えかねてのたうち回る。
現実の時間でどれくらい経っただろうか。黒猫は僕のそばから離れず、時折その宝石から生み出される澄んだ水滴を僕の口に運び、体温を分け与え続けてくれた。
空っぽの胃を水だけで強引にごまかしながら、僕は再び意識を沈め、引き延ばされた体感時間の中で何度も何度も仮説と検証を繰り返した。
血反吐を吐き、意識が何度も途切れそうになる中での、泥臭い足掻き。
いつしか洞窟の外から、ざあざあと草木を打つ冷たい雨音が聞こえ始めた頃。
(……ここだ。この波長に合わせて……設計図を、固定しろ……!)
限界を迎えた意識の底で、最後に研ぎ澄ませた想像をエネルギーの波へと乗せる。
だが、どれだけ理屈をこね回しても、僕の乏しい知識では世界の理とのズレを完全に無くすことはできなかった。
ならば。
(足りない整合性は、強引にねじ伏せる……結べッ!!)
僕は、自分の体内にある『何か』――未知のエネルギーを動かすための内的リソースを、ダムを決壊させるようにすべて放出・燃焼させ、不完全な理を強引に世界へ押し通した。
じんわりと。
折れた肋骨と、千切れた筋肉のあたりが、温泉に浸かったような急激な熱を持ち始めた。
皮膚の下で肉の繊維が無理やり繋ぎ合わされるような、ひどく痒くて気持ちの悪い感覚。
だが、息を吸うだけで肺を刺していたあの鋭い激痛が、ほんの少しだけ、確かに引いていく感覚があった。
「……あ……」
ひび割れた唇から、かすれた声が漏れる。
(……嘘だろ。本当に、現象が起きた……)
極限の飢餓と疲労、そして全身を覆う知恵熱の熱さの中で。
代償として体内のリソースを完全に空っぽにしながらも、僕は自身の身体を修復する未知の現象――自分専用の『魔法』の構築に、ついに成功していた。
【読者の皆様へ】
誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。
もしよろしければ、ページ下部にある星マーク(☆☆☆☆☆)から評価をつけていただいたり、ブックマークで応援していただけると本当に嬉しいです!




