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第1話 始まりは理不尽な落下から

『黒の救世主』のリメイク版になります。

内容は序盤から大きく違うので、完全な別作品としてお楽しみください。

首筋に纏わりつくような、蒸し暑い風と踏み固められた土の匂い。

そして、鼓膜を突き破るかのような蝉時雨。


県内でも有数の広さを誇る自然公園の奥深く。

僕、黒沢憂くろさわ ゆうは、鬱蒼と茂る木々の間をただ下を向いて歩いていた。


今日は全校生徒が参加する、秋の林間オリエンテーリング行事の日だ。


「ちょっと男子! 地図見てる!? そっち行ったらコース外れるってば!」


「うるせーな、俺の勘がこっちだっつってんの。ショートカットできるって絶対」


「はぁ!? バカじゃないの、迷子になったらどうすんのよ!」


数メートル前を歩く四人組が、配られたラミネート加工の地図を巡って言い争いをしている。


彼らはクラスの中でも特に声が大きく、目立つグループだ。

対して僕は、クラスで余った人間が自動的に放り込まれる『数合わせの五人目』でしかない。


(……足のつま先が全員、互いの方を向いていない。あんなに声を張り上げているのに、誰も本気で相手の意見を聞く気がないんだな)


彼らの視線や声のトーンから勝手にそんな情報を受信してしまい、僕はこめかみの奥がじんわりと痛むのを感じた。


一人でいるのは、別に好きじゃない。

周りから「あいつ友達いないんだな」と思われるのは普通に恥ずかしいし、惨めだ。だからこうして、はぐれないように適度な距離を保って付いて歩いている。


だが、他人の感情の機微や、集団の空気を読み取ろうと神経をすり減らしていると、息苦しくてひどく疲弊してしまうのも事実だった。


「おい、お前ら! あっちにすげーデカい蜂の巣あるぞ! 石投げてみようぜ!」


先頭を歩いていた男子の一人が、ルートから外れた茂みの奥を指差して笑い声を上げた。

女子たちが悲鳴を上げながらも、面白がってその後を追いかけていく。


班の連中が、完全に順路から外れていく。


(……嘘でしょ)


僕は立ち止まった。


あんな馬鹿騒ぎについて行って、万が一蜂に刺されたり、教師に見つかって怒られたりして悪目立ちするのは絶対に避けたい。


僕は彼らの背中を見送り、一人で本来の順路である細い山道へと足を踏み入れた。

あとで「トイレに行っている間にはぐれてしまった」とでも言えば、無難にやり過ごせるはずだ。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


クラスメイトの騒ぎ声が遠ざかり、森は静寂を取り戻した。


木漏れ日が落ちる山道を歩いていると、ふと、前方の切り株に『誰か』が座っているのが見えた。


全身を黒い衣服で包んだ、小学生か中学生くらいの少年だった。

黒髪の両側のこめかみから、一房ずつ白いメッシュが伸びている。


彼は僕と目が合うと、ひどく好奇心に満ちた、無邪気で感情豊かな笑顔を浮かべた。


「やあ! こんなところで一人なんて、奇遇だね」


「え、あ……こんにちは」


近所の子供だろうか。

だが、この奥深いコースに子供が一人でいるのは不自然だ。


関わって面倒なことになるのを避けるため、僕は会釈だけして足早に通り過ぎようとした。


「君、すごく『見てる』ね。でも、見えてるだけで、何も選んでないみたいだ」


「……え?」


背後から掛けられた言葉に、思わず振り返る。

少年は足をぶらぶらと揺らしながら、底抜けに明るい声で笑った。


「面白いから、ちょっとだけ期待してもいいかな?」


何を言っているのか全く分からなかった。

僕が眉をひそめて言葉を返そうとした、その瞬間――。


ふっ、と。

視界を覆っていた木漏れ日が、完全に消失した。


「……は?」


息を呑む。

振り返った先には、少年はおろか、切り株も、歩きやすく整備された山道もなかった。


空を覆い隠すほどの異様な巨木。毒々しい色をした巨大なシダ植物。

腐葉土の強烈な匂いと、生ぬるい血の匂い。


僕はなぜか、全く見知らぬ、不気味で暗い森のど真ん中に立っていた。


ズズンッ!! と、大地そのものが跳ね上がるような地響きが起きた。


「――――ルゥォォオオオオオオオオオッ!!」


鼓膜が破れそうな咆哮。


見上げると、数十メートル先で、ビルほどもある巨大な獣が二体、血みどろの殺し合いをしていた。

一方は、全身が鈍色の金属質な装甲で覆われた巨大な熊。もう一方は、無数の刃のような脚を持つ、巨大な百足の化け物だ。


(……っ!? な、なんだ、これ……どうなって……!)


パニックで喉が引き攣り、声が出ない。

腰が抜け、後ずさろうとした足が木の根に引っかかった。


その直後、金属の熊が百足に向かって巨大な腕を振り下ろした。


衝突。


常識を無視したような凄まじい衝撃波が、木々をへし折りながらこちらへ殺到してくる。


「っ――!」


突風に巻き上げられた巨木の一部が、僕の身体に直撃した。


視界が反転する。

自分が宙を舞っていることに気づいた時、目の前には、深く口を開ける断崖絶壁が迫っていた。


僕は暗い崖の下へと投げ出された。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


落ちる。落ちていく。

風を切る音だけが耳元で轟き、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。


(死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!)


恐怖で脳が沸騰しそうになった時――不意に、世界が泥のように重くなった。


タキサイキア現象。

極限の恐怖と命の危機に直面した脳が、生存の糸口を探るために思考速度を異常加速させ、体感時間を極端に引き延ばす現象。


落下する僕のすぐ横を、一緒に巻き上げられた土塊が、まるで静止しているかのようにゆっくりと落ちていくのが見えた。


(なんだ……これ。ゆっくり、見え……)


ガンッ!!


背中に激突した岩肌の感触で、一瞬だけ現実の時間が引き戻される。


「あ、がっ……!?」


背骨が砕けるような激痛。

肺から空気が搾り出され、再び虚空へ投げ出される。


痛い。息ができない。助けて。

絶望とパニックの中で、再び世界がスローモーションに切り替わる。


(痛い……っ、嫌だ、死にたくない……!)


思考だけが異常な速度で回転を続ける。

二度目のタキサイキア現象の中で、僕の脳は、生存のために周囲の情報を極限まで拾い上げようと暴走を始めていた。


明滅する視界。

その中で、大気中に満ちている『何か』が、異常なほどの情報量となって脳内に流れ込んできた。


光の粒子のようなもの。空間の歪み。温度のムラ。

今まで生きてきて一度も感じたことのない、未知のエネルギーの波だ。


脳を焼き切られるのではないかと思えるほどの、致死量のノイズ。


(あ、あああぁぁ……!?)


発狂しそうなほどの情報過多。

だが、スローモーションの世界で僕は叫ぶことすらできない。


ドッ、ガァン!!


再び現実。斜面の木々に身体が激突し、枝が皮膚を引き裂く。

血が飛び散り、回転しながらさらに深い闇へと落ちていく。


そして三度目のタキサイキア。


(あああっ、あ……情報が、多すぎる……!)


痛覚、風の音、そして大気中の未知のノイズ。

それらが混ざり合い、脳の許容量を完全に突破しようとしていた。


僕は狂いそうな意識の中で、ただ必死に、日常的に他人の顔色や空気を読もうとしていた時のように、入ってくる情報を自分なりに整理しようと足掻いた。


(これは風。これは痛み。……じゃあ、この纏わりつくようなエネルギーはなんだ……? 分からない、でも、何か法則みたいな波がある……)


生き延びるために、目の前の異常な感覚を必死に理解しようと思考を回す。


現実の激痛と、引き延ばされた時間の中での情報の洪水。

それを交互に繰り返すうちに、僕の脳は、その未知のエネルギーを受信し、処理する『コツ』のようなものを強引に掴み始めていた。


ドンッ!!


最後に、柔らかい腐葉土と泥の匂いが全身を包み込んだ。

崖の底。


「が、はっ……あ……」


全身の骨が折れ、ピクリとも動かない。

血反吐を吐きながら、薄れゆく意識の中で、僕はまだあのエネルギーの波を感じ取っていた。


(……なんだか、不思議な感覚だ。さっきよりも、情報が……整理されて……)


それが、僕の脳がこの世界の未知のエネルギーに適応した瞬間だった。


だが、限界を優に超えた処理を強いられた脳が、それ以上の活動を拒絶した。

ぷつん、と。


命を守るための防衛本能が働き、僕の意識は深い泥の底へと沈んでいった。




【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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