第8話 交わらぬ言葉と交わる運命
あの赤黒い蟷螂の魔獣を討伐した翌朝。
僕とシャノワールは、いつものように鬱蒼と生い茂る森の探索に出ていた。
ただし、今日はいつもと空気が違う。
僕たちの匂いが染み付いた「安全な生活圏」の境界を越え、いよいよ未知の領域へと足を踏み出していた。
「みゃおーっ」
境界を越えてしばらく進んだ頃、上空から特徴的な鳴き声が降ってきた。
見上げると、自身の足元の影を『一対の漆黒の翼』に変形させたシャノワールが、木々の隙間を縫うようにして滑空してくる。彼が独自に編み出した空中偵察だ。
ふわりと僕の目の前に着地したシャノワールは、翼をシュルリと元の影に戻すと、ただならぬ様子で僕のローブの裾を咥え、グイグイと森の奥へ引っ張り始めた。
「どうした、シャノワール。何か見つけたのか?」
尋ねながらも、僕は腰に差した鉈鎌の柄に手を当てて警戒レベルを引き上げる。
シャノワールに案内されるまま、太いシダ植物の群生地を抜けた先。巨大な倒木の陰に、それは横たわっていた。
「……人間?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れた。
この異世界に落ちてきて半年、初めて見る「自分以外の人間」だった。
倒れていたのは、同年代くらいの青年だった。泥と血にまみれてはいるが、月明かりのように美しい白髪と、細身でありながらも無駄な贅肉が一切ない、しなやかで強靭な筋肉を持った体つきをしている。
背中には革の鞘が括り付けられているが、中身は空だ。彼の右手には、立派な『長剣』が死後硬直のように固く握りしめられていた。直前まで、何者かと最後まで戦い抜こうとしていた痕跡だ。
「ひどい傷だ……」
僕は駆け寄り、片膝をついて青年の状態を確認した。
『知覚拡張』と『構造認知』を微弱に発動させ、彼の肉体を視る。
「深い裂傷がいくつもある。それに、打撃による肋骨の複数骨折と、内臓の損傷……魔力中枢の脈動もひどく乱れてるな」
単純な魔獣の攻撃とは思えない。刃物のような鋭利な斬撃と、凄まじい衝撃を伴う重い一撃を立て続けに浴び、さらに何らかの強烈な魔法的負荷を内側から受けたような痕跡だ。
おそらく、どこか別の場所で強敵から致命的な攻撃を受け、最後の力を振り絞ってこの場所まで逃げ延び、力尽きたのだろう。
僕の生活圏のすぐ外側というギリギリの場所だったため、僕やシャノワールたちの強力な匂いを警戒して他の魔獣が寄り付かず、運良く食われずに済んだらしい。
だが、運が良かったのはそこまでだ。
この出血量と内臓の損傷は、放っておけば確実に死ぬ。
「シャノワール、周囲の警戒を頼む。大がかりな治療をする」
「みゃお!」
頼れる家族が周囲の影に溶け込んだのを確認し、僕は青年の胸元に両手をかざした。
すでに術式化し、記憶にタグ付けしてある三つの魔法のうちの一つ。対象の細胞分裂を強制加速させ、組織を精密に接合する回復魔法だ。
「――治癒の礎」
僕の魔力を支払うことで、世界の意思がマナを集め、青年の体内で現象化していく。
折れた肋骨をあるべき位置へ戻して繋ぎ合わせ、損傷した血管や筋肉繊維を精密な操作で縫合していく。複雑な神経網の修復には、術式に組み込まれた自動使用関数のバックグラウンド演算がフル回転し、僕の魔力をものすごい勢いで食い荒らしていった。
「ふぅ……よし、終わった」
青年の顔に赤みが戻り、穏やかな寝息を立て始めたのを確認して、僕が魔法を解除した、まさにその瞬間だった。
「……っ、ぐぇええええ」
変な咳き込みと共に、僕の胃袋が裏返るような強烈な感覚に襲われた。
腹の底にブラックホールが開いたかのような、致死的な飢餓感。
僕の魔力中枢器官は消化器系と強く結びついているため、自動演算が組み込まれた大食らいの魔法を使うと、消費した魔力が『莫大なカロリー消費』としてダイレクトに肉体へ跳ね返ってくるのだ。
「シャ、シャノワール……肉。早く、肉を焼いてくれ……餓死する……」
僕が泥の地面にうつ伏せに倒れ込み、ゾンビのように手を伸ばして呻くと、呆れたようにため息をつく気配がした。
シャノワールが影の中から、以前狩ってストックしておいた獣型魔獣の分厚い赤身肉を取り出し、影の刃を打ち合わせて火起こしをしてくれる。
ジュワァァァァァッ……!
焚き火に炙られた肉から、暴力的なまでに香ばしい脂の匂いが漂い始めた。
「焼けたみゃお」とばかりにシャノワールが肉をひっくり返した瞬間、僕はもう我慢できずに串を引ったくり、表面に火が通っただけの巨大な肉塊にガブリとかぶりついた。
「はぐっ、むぐ……っ! 美味い! カロリーが細胞に染み渡る……!」
火傷しそうな熱さも気にせず、肉汁を口の周りに滴らせながら、僕は一心不乱に肉を胃袋へと詰め込んだ。
「――っ!?」
不意に、背後で布が擦れるような音がした。
振り返ると、目を覚ました青年が、上体を起こしてこちらを凝視していた。
チャコールグレーの理知的な瞳が、極度の混乱に見開かれている。彼はハッとして右手の長剣を構えようとし――自分の胸や腹をさすり、致命傷だったはずの傷が完全に消え去っていることに気づいて、呆然と固まった。
「あ……。ええと、気がつきましたか?」
僕は口の周りの脂をローブの袖で拭い、外行きの丁寧な日本語で話しかけた。
青年はビクッと肩を揺らし、僕とシャノワール、そして僕が手に持っている半分食べかけの巨大な肉串を交互に見る。
「…………」
彼はおそらく、「自分はどこにいるのか」「なぜ生きているのか」、そして「この腹を空かせた謎の少年は何者なのか」と、処理しきれない情報量に頭を抱えているのだろう。
無理もない。死にかけで意識を失い、目覚めたら傷が完治していて、目の前で少年がものすごい勢いで肉を食い散らかしているのだから。
グゥルルルルル……。
突然、焚き火の爆ぜる音よりも大きな音が鳴り響いた。
青年の腹の虫だ。
彼は顔を真っ赤にして口元を覆い、バツが悪そうに視線を逸らした。考えてみれば、彼も重傷を負ってここまで逃げてきたのだ。腹が減っていないわけがない。
僕は新しく串に刺した肉を焚き火でこんがりと焼き上げると、それを青年の目の前へと差し出した。
「食べますか? 毒とかは入ってませんから」
言葉は通じなくても、身振り手振りと「食べ物の匂い」は万国共通だ。
青年は少しの間だけ警戒するように僕の目を見たが、その暴力的な肉の香りに抗えなかったのか、長剣を手放して恐る恐る串を受け取った。
そして一口かじった瞬間、チャコールグレーの瞳がパァッと輝き、僕と同じように猛烈な勢いで肉を頬張り始めた。
「ふふ、よく食べますね。僕はユウと言います。あなたは?」
僕が笑顔で話しかけると、青年は口の中の肉を飲み込み、姿勢を正して口を開いた。
「―、――……ノエル、―――」
滑らかで心地よい響きだが、まったく聞き取れない未知の言語だった。発音の構造が、地球のどの言語とも根本的に違う。
ただ、胸に手を当てて「ノエル」と言ったことだけは分かった。おそらく彼の名前だろう。
(やはり、言葉の壁があるか)
僕が困ったように眉を下げると、ノエルもそれを察したのか、少し思案する仕草を見せた。
そして、彼は腰のポーチを探り、羊皮紙で作られた一枚の「地図」と、分厚い「魔物図鑑」を取り出した。
ノエルはまず地図を広げ、現在地を確認しようと僕に現在地を指差すようにジェスチャーをしてきた。
しかし、僕が「わからない」というように首を振ると、彼は小さく息を吐き、今度は作戦を変えたようだ。
この森の生態系、つまり「どんな魔物が生息しているか」を割り出すことで、地図上の危険地帯と照らし合わせて現在地を特定しようとしているらしい。
彼は図鑑をパラパラとめくり、中級クラスと思われる一般的な獣の魔物を指差した。
「こういうのはいないか?」という視線に、僕は首を横に振る。
ノエルは少し表情を険しくし、さらにページを進める。
そして、あるページを開いて僕に見せた。そこには、僕が昨日討伐したばかりの、あの赤黒い蟷螂の絵が描かれている。
「ああ、こいつなら見ましたよ」
僕は腰に差していた、昨日の戦利品である「美しい鉈鎌」をスッと抜き、ノエルの目の前に差し出して見せた。
「ほら、これです」
「――っ!?」
ノエルの目が、限界まで見開かれた。
彼は図鑑の絵と、僕が見せた鉈鎌を交互に見比べ、顔を引きつらせて何事かを呟いている。
言葉が通じないため、彼が「お前が倒したのか」と驚いているのか、それとも「こんな凶悪な魔獣の残骸から武器を拾うなんて命知らずな奴だ」と呆れているのか、僕には彼の真意がまったく分からなかった。
ただ、ノエルは少し震える手でさらにページをめくり、今度は「女性の上半身を持つ、白い蜘蛛の魔獣」のページを指差した。
「ああ、その蜘蛛の魔獣も出会いましたよ。ただ……」
僕は自分が今着ているローブコートの裾を軽くつまんで見せ、さらにポケットから、予備として持っていた『真っ黒で強靭な糸の束』を取り出して見せた。
「僕が見つけた個体は、白い糸じゃなくて、こんな真っ黒い糸を出してましたけどね」
「…………ッ!!!」
ノエルは図鑑を持ったまま、ワナワナと震え出した。
彼が手元の地図と図鑑の記述、そして僕が見せた素材をどう結びつけ、何を考えているのかは分からない。ただ、この証拠の品々が彼の想定をはるかに超える凶悪な生態系を示しており、「こんな場所で生きていられる奴らがいるのか」とでも言いたげな、驚愕と混乱が入り混じった眼差しをこちらに向けていることだけは伝わってきた。
(これじゃあ、らちが明かないな)
僕は小さくため息をつき、ノエルと図鑑に視線を向けた。
この状況を打破し、現在地や街の方向を知るためには、まずはこの世界の言葉と常識を、僕の中に組み込む必要がある。
(他人の認知の中枢に干渉して、言語の構造と感覚質を読み取る……。もちろん初めての試みだし、相応の知恵熱や脳への強烈な過負荷といったリスクはある)
それでも、言葉が通じない相手とこの危険な森を共に歩くリスクに比べれば、はるかにマシな投資だった。
僕は『構造認知』のスイッチに手をかけ、未知の言語という新たな「理」の解析に向けて、静かに意識を研ぎ澄ませた。
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