第17話 王道を求める市民は道連れの約束を交わす
街道を赤く染め上げていた夕日が地平線の向こうへと沈みかけ、空が深い群青色に沈み始めた頃。
僕とノエル、そして影に潜むシャノワールの二人と一匹は、関所から数時間歩いた先にある宿場町へとたどり着いた。
高い防壁こそないものの、街道沿いに丸太の柵が組まれ、木造の建物が身を寄せ合うように立ち並んでいる。
町の入り口をくぐった瞬間、懐かしく温かい気配が全身を包み込んだ。
どこかの煙突から立ち上る、薪が爆ぜるパチパチという音と、目に染みるような煙の匂い。
すれ違う馬車の車輪が土を削る音。
鍛冶屋が鉄を打つ、規則正しい槌音。
そして何より、通り沿いの酒場から漂ってくる、肉の脂が焦げる匂いと、香ばしく煮込まれたニンニクの香り。
「…………っ」
僕の腹の虫が、これまでにないほど盛大に、そして悲痛な音を立てて鳴り響いた。
隣を歩いていたノエルが、呆れたようにため息をつく。
「……まずは宿だな。腹の音が町中に響いてるぞ」
「お言葉ですがノエル。人間の三大欲求を前にして理性を保てというのは、物理法則を無視しろと言っているのと同じです。僕の胃袋は今、高次空間のブラックホールと化しています」
「よく分からんが、要するに限界ってことだな。来い、手頃な宿を見つける」
案内されたのは、一階が酒場と食堂を兼ねている、いかにも冒険者御用達といった風情の木造の宿屋だった。
扉を押し開けると、むわっとした熱気と、エール酒のツンとしたアルコール臭、そして大勢の人間の喧騒が鼓膜を揺らす。
天井から吊るされたランプの暖かなオレンジ色の光が、薄暗い樹海で過ごしてきた僕の目にはひどく眩しく、そしてひどく優しく感じられた。
ノエルがカウンターで手早く交渉を済ませ、部屋の鍵を受け取ると、そのまま一階の空きテーブルへと腰を下ろす。
やがて、恰幅の良い女将が湯気を立てる木のお盆を運んできた。
「はいよ! うちの自慢のオーク肉の香草焼きと、近所の農家から仕入れたばかりの野菜の盛り合わせだ。たっぷりお食べ!」
ドンッ、と置かれた皿を見た瞬間。
僕の視線は、ジュージューと肉汁を滴らせる分厚い肉ではなく、その横に山盛りにされた『緑色の葉物野菜と、真っ赤なトマトのような果実』に釘付けになった。
「あ……」
ごくりと、喉が鳴る。
思えば魔の樹海でのサバイバル初期こそ、シャノワールが採ってきてくれた果実が主食だったが、魔獣を安定して狩れるようになってからはひたすら肉ばかりの生活だった。
森に自生している植物はどれもこれも毒々しく、安全な食用野菜との見分けなどつくはずもない。だからこそ、こうして純粋で瑞々しい『緑色の葉っぱ』を見るのは、こちらに転移してきてから本当に初めてのことだった。
「どうした、ユウ。食べないのか?」
ノエルが不思議そうに首を傾げるのをよそに、僕は震える手で木製のフォークを握りしめ、葉物野菜を一枚突き刺すと、祈るように口へと運んだ。
シャキッ。
小気味良い音が、脳髄に響き渡る。
少し酸味のあるドレッシングの風味。噛み締めるほどに溢れ出す、冷たくて甘い大地の水分。
口の中に広がる、圧倒的な『清涼感』。
「…………美味いっ」
あまりの美味さに、僕はただの腹を空かせた少年の顔に戻って葉っぱを貪り食った。
足元の影から顔を出したシャノワールが「みゃっ?」と僕に倣って野菜を齧ろうとしたが、すぐに苦そうな顔をしてペッペと吐き出し、そそくさとオーク肉の方へとかぶりついている。
「おいおい……お前、なんで肉じゃなくて葉っぱでそんなに感動してるんだ?」
「ノエル、あなたにはこの感動が分からないんです。樹海の植物を口にするのは、常に致死率とのロシアンルーレットでしたから。安全が保証された、水気をたっぷりと含んだ緑の葉っぱ……これは、奇跡です」
「……まあ、食える時に食っておけ。お前のその食べっぷりを見れば、あの森がどれだけ過酷だったか嫌でも分かるよ」
ノエルは毒気を抜かれたように苦笑し、エールが入った木の実のジョッキを傾けた。
酒場の賑やかな喧騒の中、僕たちは無心で食事を進めた。
時折、ジョッキを置くノエルの視線が、ふと宙を彷徨うように伏せられる。その瞳の奥に、この場の空気に似合わない冷たい焦燥の色が沈んでいるのを、僕は野菜を咀嚼しながらもしっかりと観察していた。
◆ ◇ ◆
食事を終えた僕たちは、宿屋の裏手にある共同浴場へと足を運んだ。
脱衣所のひんやりとした板張りの床に、ボロボロになった衣服を脱ぎ捨てる。
湯気で白く霞んだ浴室の重い木扉を開けると、そこには大人数人が足を伸ばして入れるほどの、大きな石造りの湯船があった。
底に沈められた熱源の魔石が、かすかに赤い光を放ちながらお湯を適温に保っている。
「ふぁぁぁ…………生き返る…………」
掛け湯をしてから肩までお湯に浸かった瞬間、僕の口からだらしない声が漏れた。
全身の毛穴が開き、皮膚にこびりついていた泥や魔獣の返り血、そして何より『常に死と隣り合わせだった緊張感』が、お湯の中へとじわじわと溶け出していく感覚。
手作りの香草石鹸の素朴な匂いが、鼻腔をくすぐる。
温かいお湯が、樹海で作った無数の細かい擦り傷に少しだけチクチクと染みた。
ちゃぷん、と隣でお湯に身を沈めたノエルの水音が、やけに心地よく響く。
僕は濡れた前髪をかき上げ、深く息を吐き出してから、隣の彼に視線を向けた。
「ノエル、眉間にお湯のシワが寄ってますよ。関所を抜けてからずっと、見えない敵を睨みつけているような顔をしてます」
「……そう見えるか?」
ノエルは湯船の縁に置いたタオルをギュッと握りしめ、揺れる水面を見つめている。
何かを言い淀むような、重い沈黙が浴室に落ちた。
僕はそれ以上は追及せず、ただ熱いお湯の感触に身を委ねて目を閉じた。
◆ ◇ ◆
風呂を上がり、僕たちは二階の客室へと戻った。
質素だが、清潔なシーツが敷かれた二つのベッド。
窓からは、夜の帳が下りた宿場町のオレンジ色の明かりと、かすかな馬のいななきが聞こえてくる。
シャノワールは早々に僕のベッドのど真ん中を占拠し、丸くなって幸せそうに寝息を立てていた。
ランプの芯を絞り、部屋が薄暗くなったその時。
窓際の丸椅子に腰掛けていたノエルが、不意に静かな、しかしひどく真剣な声で沈黙を破った。
「……ユウ。明日、この町を出たら、別行動にしよう」
その言葉は、冷や水を浴びせるように部屋の空気を重くした。
僕はシーツを撫でていた手を止め、ノエルの顔を見る。
「……急ですね。何か理由でも?」
「関所でのやり取りで、少しは察したかもしれないが……俺は今、厄介事に巻き込まれているらしい。これ以上、お前たちを巻き込むわけにはいかない」
ノエルは慎重に言葉を選びながら、そう告げた。
自分が傍にいれば、この少年にまで火の粉が降りかかるかもしれない。そんなノエルなりの切実な気遣いだった。
だが、ここで別れるとなれば、現実的な問題がある。
「別れるのは構いませんけど、魔の樹海で狩った魔獣の素材も、採取した薬草も、まだほとんどシャノワールの影の中に収納されたままですよ? 分配も終わってません」
「……影に収納してある未分配の素材も薬草も、全部お前が持っていけ」
ノエルは躊躇いなく言い切った。
「すでに分配済みの、洞窟で見つけた遺産や金貨もあるだろう。それだけの路銀とお前の力があれば、どこかの街で不自由なく安全に暮らせるはずだ」
それは、自分自身の取り分をすべて放棄してでも、僕を遠ざけようとする確固たる意志だった。
窓から差し込む月明かりに照らされた彼の横顔は、ひどく頑なで、どこか痛々しい。
(――なるほどね)
僕は心中で静かに息を吐いた。
辺境伯の毒殺未遂。逃亡中の容疑者。そして、関所で身分証を出せなかった相棒。
詳しい事情は分からないが、ファンタジー好きの僕の勘が告げている。これは間違いなく、国を揺るがすような巨大な事件だ。
そんな波乱の物語を前にして、安全な街で一人、金貨を数えながら平和に暮らす。
……そんなの、あまりにも味気ないじゃないか。
それに、ここで彼を一人で行かせたら、この真面目で責任感の強い相棒は、全部一人で抱え込んでどうにかなってしまいそうな気がした。
僕はベッドからゆっくりと立ち上がり、ノエルを見据えた。
「あのですね、ノエル。この国の情勢もよく分かっていない幼気で善良な市民を、こんな辺境の町に置いていく気ですか? 悪徳商人に騙されて奴隷にされたり、悪徳貴族に言いがかりをつけられて打ち首にされたりしたらどうするんですか。そういうのがラノベの王道展開って決まってるんですよ」
「……ラノベ? 何を言ってるんだお前は。そもそも、お前を奴隷にできる商人なんているわけがないだろう。……いや、それより俺の抱えている問題の方が間違いなく大事になるんだが」
「それはどうですかね。それに、そんな面白そ……いえ、心配だからついて行きます!」
わざとらしく言い直して宣言した僕に、ノエルは目を丸くした。
「……お前なぁ」
ノエルが呆れたように額を押さえる。
僕の言葉の端々に漏れていた『面白そう』という本音は、とうに見透かされているのだろう。
だが同時に、その見え透いたふざけた言い訳の裏にある、僕なりの『放っておけない』という優しさも、彼にはしっかりと伝わっているはずだ。
長い沈黙の後。
ノエルは耐えきれなくなったように肩を震わせ、やがて小さく吹き出した。
「くっ……ははっ! あー……駄目だ。厄介事のど真ん中に突っ込もうとしている相手に、そんな見え透いた嘘をつく奴、世界中探したってお前くらいだぞ」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます」
「……はあ。勝手にしろ。だが、本当に命の保証はしないからな」
呆れ返りながらも、ノエルの顔からは先程までの張り詰めた焦燥感が幾分か抜け落ちていた。
肩の荷が下りたような、頼もしい悪友を得たような、そんな柔らかい表情だった。
「仕方ない。……明日、早起きしろよ。デュグラスの街まで急ぐぞ」
「了解です。……ああ、でもその前に、明日の朝ご飯に野菜のスープは追加できますか?」
「……お前、まだ葉っぱを食う気か。その底なしの胃袋、どうなってんだ」
「サバイバル明けの体には、緑黄色野菜が必須なんですよ」
気の置けない軽口の応酬が、夜の静寂に溶けていく。
ベッドの上では、シャノワールが「みゃお……」と寝言を漏らし、尻尾をパタパタと揺らしていた。
かくして、波乱の予感と浪漫の香りを漂わせた僕たちの夜は、穏やかな月明かりの下で更けていくのだった。
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