第16話 波乱の予感は浪漫の香りを漂わせる
「――というわけで。新たな理を手に入れた僕にとって、この森はもはや広めの裏庭も同然。行く手を阻む哀れな魔獣たちは超音速の神弾の前に次々と沈み、僕たちはあっという間に森を抜け、文明の道へと到達するのであった。まる」
鬱蒼と生い茂っていた常緑樹の天蓋が途切れ、久方ぶりに眩しい陽光が網膜を焼いた。
一歩足を踏み出すごとに、腐葉土と濃密なマナが入り混じった森特有のむせ返るような匂いが薄れていく。
代わりに肺を満たしたのは、乾いた土と、遠くから風に乗って運ばれてくる微かな焚き火の匂い――紛れもない、人間の生活の匂いだった。
「……おい。お前、さっきから誰に向けて喋ってるんだ」
呆れ果てたような声と共に、ノエルが横からジト目を向けてくる。
彼のブーツが踏みしめているのは、もはや絡みつくような苔や泥ではない。
人の手によって固く踏みならされ、轍の跡すら残る一本の土の道、『街道』だった。
「僕の心の中にいる、浪漫を愛するもう一人の僕です」
「凄まじい魔法で道を切り開いてくれるのはありがたいが、そのふざけた実況はやめろ。気が抜ける」
「みゃお!」
ノエルの溜息をよそに、ユウの肩へ身軽に飛び乗ったシャノワールが、前足をピンと伸ばして得意げに胸を張った。
柔らかい黒毛が太陽の光を吸い込んで艶やかに光る。
しっぽをパタパタと振りながらユウの頬を小突くその仕草は、どうやら『僕の活躍もちゃんと実況しろ』と要求しているらしい。
ユウが喉元を撫でてやると、ゴロゴロと満足げな音を立てた。
「お前もノるな、シャノワール……」
ノエルは肩をすくめると、腰のベルトに挟んでいた革袋から水筒を取り出し、乾いた喉を潤した。
ゴクリと喉仏が動く音が、やけに静かな街道に響く。
「しかし、よく生きて抜け出せたもんだ。現役の冒険者である俺でさえ、一度も足を踏み入れたことがなかったからな」
「そうなんですか? 確かに、色々と規格外の生き物は多かったですけど」
「お前、本当に何も知らずにサバイバルしてたのか……?」
ノエルは信じられないものを見るような目でユウを見つめ、やがて懐から年季の入った羊皮紙の地図を取り出して広げた。
指先が、大陸の端に描かれた黒い空白地帯をトントンと叩く。
「ここはカルディア王国、ベルスター辺境伯領。そして今、俺たちが背にしてきたその森は、死の危険性すらある『魔の樹海』だ。どの国も管理を放棄した、大陸でも有数の危険地帯だぞ。……まあ、お前のあのデタラメな魔法があれば、確かに広めの裏庭かもしれないがな」
(――えっ、マジか。僕たちそんなヤバい所にいたのかよ! 一歩間違えたら普通に死んでたじゃん!)
涼しい顔でノエルの説明を聞いていたユウだったが、内心では特大のパニックを起こしていた。
生還できたのは本当に運が良かっただけだ。
もしあの洞窟で先人の遺産を見つけていなかったら、もしシャノワールが助けてくれていなかったら。
そう想像しただけで、背筋をゾワリと冷たいものが駆け抜け、額からダラダラと滝のような冷や汗が吹き出してきた。
だが、ここで「知らなかった、怖い」と狼狽えるのは、あまりにも格好が悪い。
ユウは努めて平坦な、余裕のある声を作った。
「へ、へえ……さすが魔の樹海。浪漫があるね」
「……なら、まずその滝のように流れてる冷や汗を拭いてから言え。声も上ずってるぞ」
「自律神経のバグです」
「はいはい、そういうことにしておいてやるよ」
そんな気の置けない軽口を叩きながら、二人は街道を歩き続けた。
やがて、なだらかな丘を越えた瞬間、視界が完全に開けた。
「あれが……」
思わずユウが声を漏らす。
街道の先、数百メートルほど離れた平野の中央に、堅牢な石造りの巨大な防壁がそびえ立っていた。
壁の所々には見張り塔が設けられ、青と黄色を基調としたカルディア王国の旗が風にはためいている。
門の周辺には物々しいバリケードが築かれ、兜を被った兵士たちが蟻のように動き回る姿が見えた。
「あれが関所ですね。ようやく文明の匂いがしてきました」
「ああ。……だが、妙だな」
ノエルが目を細め、歩みを少しだけ遅くした。彼の声音から、先程までの余裕がスッと消え失せる。
ユウも改めて視線を向けると、確かに砦の様子がおかしかった。辺境の長閑な関所という雰囲気ではない。
門に向かおうとする数組の商人や旅人たちが、兵士たちによって強引に足止めされ、荷車の中身をひっくり返さんばかりの厳しい検問を受けている。
遠目からでも、兵士たちの怒号と旅人たちの困惑する声が聞こえてくるほどだ。
「なんか、すごくピリピリしてませんか? まるであの砦全体が、大きな棘を逆立てたハリネズミみたいだ」
「……ああ、尋常じゃない警戒態勢だ。気を引き締めろ、ユウ」
ただならぬ殺気と鉄の匂いを感じ取ったのか、ユウの肩に乗っていたシャノワールが「にゃぅ……」と低く微かな喉を鳴らした。
そして、自らスルリとユウの足元の影の中へ、文字通り液体のように溶け込んで身を隠す。
ただの猫とは思えない、賢く鋭敏な判断だった。
二人が検問の列の最後尾に近づこうとした、その時である。
「おい、そこの二人組! 止まれ!!」
怒声を上げながら、防壁の陰から数名の兵士が飛び出してきた。
先頭を歩くのは、顔に古い切り傷を持つ、くたびれた様子の初老の部隊長。
その後ろには、まだ頬に幼さの残る若い新兵が数名、緊張で顔を強張らせながら槍を構えて続いている。
彼らはユウたちを見るなり、一斉に武器の穂先を向け、半円状に包囲陣を敷いた。チャキリ、と金属の擦れる冷たい音が響く。
「何用でしょうか」
ユウはあくまで冷静に、両手を軽く上げて敵意がないことを示した。
隣のノエルもまた、手は武器に掛けず、静かに兵士たちを見据えている。
「何用だ、だと? とぼけるな。貴様ら、見ない顔だな」
初老の部隊長が、鋭い鷹のような目で二人を値踏みする。
その目には、得体の知れない者への警戒と、長きにわたる不眠から来るであろう濃い疲労の色が滲んでいた。
「服装はボロボロ、だが身のこなしは素人ではない。おまけに、貴様らが歩いてきたのは『魔の樹海』の方角からだ。あんな所から無傷で歩いてくる人間などいない。……まさかとは思うが、森の境界の監視の目を掻い潜って密入国でも企てたか?」
「俺たちはただの旅の者だ。道に迷って、少し森の浅い部分に立ち入ってしまっただけのこと。密入国などという大層な意図はない」
ノエルが低く、落ち着いた声で返答する。それは歴戦の冒険者らしい、威圧感のある堂々とした態度だった。
だが、その冷静すぎる態度が、逆に若い新兵たちの神経を逆撫でしたらしい。
後ろで槍を構えていた若い兵士の一人が、恐怖と使命感が入り混じったような顔で、甲高い声を張り上げた。
「隊長! こいつら怪しいです! こんな辺境に、しかもあの森の傍に急に現れるなんて不自然すぎます! まさかこいつら、例の『毒殺事件』の逃亡犯なんじゃ……!」
「馬鹿野郎、口を慎めリック! 一般人の前で余計なことを――」
部隊長が慌てて部下を怒鳴りつけたが、遅かった。
若き新兵リックは、極度の緊張からすっかり冷静さを失っており、半ばパニックのように言葉を吐き出し続けた。
「だ、だってそうでしょう! 三日前にデュグラスの街でベルスター辺境伯様に毒が盛られたんです! 容疑者の王女様は拘束されましたが、その『王女の護衛』の冒険者どもは街から逃走したままなんですよ! こいつら、その残党に違いありません! 追手を撒くために、わざと森の近くを迂回して逃げてきたんだ!」
(――出たあああああ!! 若手兵士のやらかし!! 聞いてもいないのに、事件の発生日時と場所から現在状況まで、必要な情報を全部ペラペラと喋ってくれる親切なモブ兵士!! やばい、めっちゃラノベの王道展開じゃん!!)
予期せぬ情報提供に、ユウの内心の隠れオタクが歓喜の声を上げる。
だが次の瞬間、ユウは隣の異変に気がついた。
新兵の言葉が響き渡った瞬間。ユウの隣に立っていたノエルの全身が、石のように硬直していたのだ。
ノエルの顔からはスッと血の気が引き、瞳孔がわずかに収縮している。呼吸すらも一瞬止まり、身分を証明するはずのライセンスを取り出そうとしていた指先が、革袋の上で不自然に凍りついていた。
否定の言葉も出ない。ただ、ギリッと微かに奥歯を噛み締める音だけが、ユウの耳に届いた。
(あれ? 身分証明書を出さないのか。言い返しもしない……なるほど、完全に『ワケアリ』の反応だ。いいぞ、ファンタジー特有のドロドロした王家の陰謀。これぞ異世界、ロマンの香りがプンプンするぞ!)
「おい、どうした。何も言い返せないのか?」
部隊長が、沈黙したノエルを見てさらに目を細める。彼の手が、腰の剣の柄へとかけられた。
周囲の空気が一気に張り詰め、今にも血の雨が降りそうなほどの緊張感が満ちる。
内心で特大のガッツポーズを決めつつ、ユウはノエルを庇うように一歩前へと進み出た。
外面はあくまで丁寧で、ひんやりとした涼しい顔を崩さずに。
「お言葉ですが、兵隊さん。少し冷静に計算してみませんか」
よく通る、理知的な声。
そのあまりに堂々とした態度に、剣を抜こうとしていた部隊長が動きを止めた。
「今、そちらの彼がおっしゃった通り、事件が起きたのは三日前、デュグラスの街ですよね。デュグラスがここから正確に何キロ離れているかは存じませんが、少なくとも数時間で歩いてこられる距離ではないはずだ。違いますか?」
「……馬車を飛ばしても丸三日はかかる距離だ。それがどうした」
「でしたら、なおさらおかしい。馬で三日かかる距離を『徒歩』で逃げながら、あえて死の危険性すらある『魔の樹海』の境界に足を踏み入れ、そこからまた事件の起きたデュグラスの方向(関所)へ向かって戻ってくる暗殺者がいますか? もし逃亡犯なら、普通は一目散に逆方向へ逃げて遠くへ離れるはずです。逃走経路として、移動速度と距離、そしてリスクの計算が完全に破綻しています」
淡々と、数式を解くように事実を突きつけるユウ。
その完璧な正論に、先程まで喚いていた新兵のリックがハッとして口をつぐみ、部隊長も「む……」と眉間に皺を寄せた。
さらにユウは図太く畳み掛ける。
「それに、僕たちは身分を証明できるものを一切持っていません。ただの迷い人です。もしどうしても怪しいと言うなら、僕たちを捕縛して護送馬車で街まで送ってくれませんか? 正直、歩き疲れていたので無料の馬車は大歓迎なんですけど」
「なっ……き、貴様、ふざけているのか!」
自ら捕まろうとする異常な図太さに、兵士たちが完全に気圧される。
暗殺者や逃亡犯であれば、絶対にこんな要求はしない。部隊長は苛立たしげに舌打ちをした。
「……チッ。護送に割く人員なんざいるか! 貴様らみたいな間抜けな暗殺者がいてたまるか。ええい、ただでさえ辺境伯様を救うための『幻の霊薬』探しで国中が殺気立っているというのに、くだらん手間に時間を取らせおって!」
部隊長はそう吐き捨てると、部下たちに顎でしゃくり、厄介払いするように包囲を解かせた。
「とっとと行け! だが現在、領内は厳戒態勢だ。妙な真似をすればすぐに縛り首になると思え!」
兵士たちの間を抜け、関所の重い木門をくぐり抜けた途端。
ノエルは「……急ぐぞ」とだけ低く呟き、尋常ではない早足で進み始めた。
その背中からは、先程までの余裕が消え去り、焦燥と使命感が入り混じったような重い空気が漂っていた。
(あの異常な焦りよう。何か裏があるのは間違いない。これは相当込み入った事情に首を突っ込んでしまったかもしれないな)
ユウは急ぐ彼の背中を見ながら冷静に推測しつつも、やはり内心はどこまでも呑気だった。
(それにしても、幻の霊薬かぁ。世界のどこにあるか分からないなら、見つけたら一攫千金だったのになあ。……まあ、僕のバッグには生活費の足しに乱獲した『悲鳴を上げる雑草』くらいしか入ってないけど。まずは早くどこかの街に着いて、美味しいお肉とお風呂だな!)
かくして異邦の迷い人は、巨大な陰謀が渦巻く辺境都市デュグラスへ向けて、関所からの新たな旅路への一歩を踏み出すのであった。
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