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第15話 新生する世界と雷霆の軌跡

隠し洞窟の中、パチパチと微かな音を立てていた焚き火が、静かに赤い灰へと変わろうとしていた。

冷え込み始めた空気の中で、僕は岩壁に背を預け、膝の上に広げた分厚い魔導書をそっと撫でた。


表紙には『高次マナ空間における物理法則の適用と、魔法術式への最適化理論』と記されている。

同郷の先人が遺した、この異世界の「魔法の真理」に迫る日本語の書物。

昨夜、一睡もせずに読み耽ったものの、内容が僕の想像を絶するほど深淵かつ難解であったため、理解できたのは序章にあたる基礎理論の入り口部分だけだった。残りのページは、これからの旅の中で少しずつ時間をかけて読み解いていくしかないだろう。


だが、それでも。

この序章に記されていた理論の基礎だけでも、僕の内的世界を劇的に書き換えるには十分すぎるほどの衝撃だった。


(魔法とは、下から上へ現象を積み上げるものではない。上から下へ、世界の定義を書き換えるものだったんだ)


本にはこう記されていた。

世界には、目に見える『物理空間』の上に、目に見えない情報の海である『高次マナ空間』が存在する、と。

これまでの僕は、物理空間の中で「電気を発生させる」「磁場を作る」といった具体的な現象を、魔力というリソースを過剰に消費して力技で起こそうとしていた。具体的な数式や物理法則にこだわればこだわるほど、意識の焦点は「重く、固定された低次元(物理空間)」に引きずり下ろされ、結果的に膨大なエネルギーのロスを生んでいたのだ。


高次元の空間において、意味や論理は具体的すぎる不純物になる。必要なのは、自分の意図を極限まで抽象化した……『内的感覚』だ。

先人の魔導書では、その感覚を言語化できない直感的な質感として記述していた。それはまさに、僕がこれまで独自の魔法理論の中で名付けていた『感覚質(クオリア)』という概念と、定義的にほぼ完全に一致するものだった。


言葉や数式じゃない。僕が思い描く『内的感覚(クオリア)』を、そのまま高次マナ空間へと還せばよかったのだ。


例えば、あの『電磁砲弾(レールガン)』を撃ち出す時。

これまでは、己の未熟な知識の穴を強引な魔力で埋め合わせ、力の指向性などの複雑な演算は『構造認知(ディープスキャン)』のバックグラウンド処理に丸投げしていた。

しかしこれからは違う。「空間から一切の摩擦が消え去る静謐さ」や「極限まで圧縮された力が一点に収束する鋭い緊張感」といった、抽象的な内的感覚(クオリア)そのものに意識を向ける。


僕一人の高校レベルの物理知識で、この世界の事象を完璧な科学的アプローチで再現するなど、元より不可能な話だったのだ。

だが、その抽象的な内的感覚(クオリア)を高次マナ空間へと還した時、僕の脳内に蓄積された不完全な物理法則や科学知識、そして周囲の環境条件が、無意識下でパズルのように噛み合っていく。知識は魔法の主役ではなく、僕の描く内的感覚(クオリア)の解像度を高め、明確に照らし出すための「照明」として機能するのだ。


そして、高次空間にて示されたその内的感覚(クオリア)を現実にするため、最小単位の素粒子であるマナが集まり、形を成す。それが低次元の物理空間へと降りてくることで、安定した物質や現象へと強制的に収束していく。

不足している知識や理屈は、マナの収束過程で自然の摂理が勝手に補い、最適化してくれるのだ。


「……ふふっ。難しく考えすぎていたな」


僕はパタン、と魔導書を閉じ、シャノワールの影へと大切に収納した。

徹夜明けだというのに、不思議と肉体的な疲労は感じない。むしろ、これまでにないほど視界がクリアで、思考が澄み渡っている。


「……おい、お前。まさか一睡もしてないのか?」


毛布の擦れる音と共に、ノエルが身を起こした。

その顔には、呆れと少しばかりの心配が混ざっている。


僕はゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをしてから彼に向き直った。

「おはようございます、ノエル。ええ、少し夢中になりすぎてしまって。でも、大丈夫ですよ。むしろ頭の中がすっきりと整理されて、調子がいいくらいです」


僕の言葉を聞いた瞬間、ノエルが目を丸くして固まった。

彼が驚くのも無理はない。僕自身、口から出た言葉のあまりの滑らかさに、内心で少し驚いていたからだ。


「……お前、なんか喋り方が普通になってないか? 今までみたいに、頭の中で一語ずつ不自然に組み立ててるような違和感が、すっかり消えてるぞ」

「ああ……。ええ、そうですね。ようやく言葉の扱い方に余裕が出てきたんです」


僕は小さく微笑みながら答えた。

これまでは、現地語を聞き取り、頭の中で意味を翻訳し、慣れない発音で出力するという作業に必死で、定型文のようなロボットじみた口調でしか話す余裕がなかった。

だが、内的世界が劇的にアップデートされたことで、言語という「音」に囚われる必要がなくなったのだ。伝えたい意志を内的感覚(クオリア)へと変換すれば、あとは口が勝手に最適な言葉として出力してくれる。複雑な言い回しも、発音の微細な調整も、今の僕には造作もないことだった。


「それに、これまでは必死に言葉を紡ぐので手一杯で『私』と名乗っていましたが、これからは『僕』と呼ばせてください。本当は、そっちの方が話しやすかったんですよ」

「……僕、ねえ」

ノエルは新しいマフラーの端を弄りながら、小さく息を吐いた。

「まあ、そっちの方が年齢相応な感じがして自然でいいな。ただ、言葉が普通に出てくるようになったんなら、その堅苦しい敬語もやめにしないか? もう気を使うような間柄でもないだろ」


ノエルの気遣いは嬉しかったが、僕は静かに首を横に振った。

「いえ、この言葉遣いは僕にとって、相手への礼節であり、同時に自分自身の心を適切な距離感で保つためのものなんです。……それに、誰に対しても敬語にしておけば無難で角が立ちませんからね。日本人としての染み付いた癖のようなものです」

「ニホンジン……? なんだそりゃ。まあいい、お前がそれが一番落ち着くって言うなら、好きにしろ」


ノエルは肩をすくめ、手早く野営の片付けを始めた。

外界の物理的な音(言葉)に振り回されなくなったことで、僕の心には確かな静寂と余裕が生まれていた。外面の敬語というフィルターを通しても、自分の本質である「僕」という一人称が自然に口をついて出る。それは、僕がこの過酷な異世界に、ようやく確かな足場を築けた証でもあった。


◆ ◇ ◆


身支度を整えた僕たちは、隠し洞窟を後にして再び樹海を歩き始めた。


現在のエリアは、むき出しの岩肌と、地を這うような背の低い奇妙な植物が群生する岩石地帯だった。

僕が纏うライトオリーブグリーンの外套ローブは、ミスリル糸が織り込まれているおかげで、岩の角に擦れても傷一つ付かず、歩行の邪魔にならないよう自動でしなやかに収縮してくれる。

前を歩くノエルも、淡い緑色の模様が入ったマフラーから供給される風の魔力のおかげで、その足取りはかつてないほど軽やかだった。


「みゃおっ!」


僕の足元を歩いていたシャノワールが、不意に立ち止まって鋭く鳴いた。

僕も同時に、周囲の空間に淀む『異質な気配』を察知して足を止める。

僕の内的世界が大きく変わったことで、これまで以上に抽象的な概念を感じ取る力が高くなっていた。その結果、強い絆で結ばれているシャノワールの感覚が、なんとなくではあるが直感的に僕の脳裏へと伝わってくるようになったのだ。


「ノエル、気をつけてください。周囲の岩が……『生きて』います」


僕が警告を発した直後だった。

周囲に点在していた、車ほどの大きさがある巨大な岩の塊が、一斉に「ズゴゴゴ」と重い地響きを立てて動き始めた。

土にまみれた岩の表面が割れ、中から太く短い四肢と、凶悪なくちばしを持つ頭部が姿を現す。普段はただの岩に擬態している魔獣、『岩石亀(ロックタートル)』だ。

獲物が自分たちの縄張りに深入りしたのを見計らい、一斉に擬態を解いたのだ。


「チッ、一匹や二匹じゃねえぞ! 完全に囲まれた!」


ノエルが背中の長剣を抜き放ち、周囲をぐるりと見渡した。

ざっと見積もっても十数体。鈍重なイメージのある亀だが、これだけの質量を持った巨体が四方八方から迫ってくれば、それだけで物理的な圧殺による死を意味する。


「ノエル、手分けして数を減らしましょう!」

「言われるまでもねえ! 俺が近づく奴を斬る、お前は遠くの奴を頼む!」


ノエルが地を蹴り、最も近くにいた岩石亀(ロックタートル)の懐へと飛び込んだ。

風の魔力を纏わせた長剣が一閃し、硬い岩の甲羅ではなく、首の付け根の僅かな隙間を正確に斬り裂く。さらに距離のある個体に向けては、剣を振るう勢いそのままに鋭い「風の刃」を飛ばし、その分厚い甲羅に深い亀裂を刻み込んでいった。


ノエルの剣技と状況判断は完璧だ。一体一体の岩石亀(ロックタートル)は、今の彼の敵ではない。

だが、いかんせん数が多すぎた。斬っても斬っても、巨大な岩の壁がじりじりと包囲網を狭めてくる。


「さて。僕も少し、派手にいきましょうか」


僕はシャノワールの影の力は借りず、周囲の地面を見渡した。

ここは岩石地帯だ。弾となる手頃な石や岩の破片なら、数え切れないほど転がっている。

僕は両手を軽く広げ、地面に落ちていた数十個の石を、一斉に僕の周囲の空中へと浮遊させた。


以前放った電磁砲弾(レールガン)は、己の知識の穴を魔力で強引に埋め、ローレンツ力の数式を力技で再現した「妥協の産物」だった。バチバチと火花を散らし、激しい熱と轟音を伴うその術式は、ひどく燃費が悪かった。


だが、今は違う。

僕は意識の焦点を、浮遊する石の群れと、迫り来る岩石亀たちの間の空間――『高次マナ空間』へと引き上げる。

難しい数式はもういらない。僕の内的世界に『一つの絶対的な質感』を描き出す。


空間から一切の抵抗が消失する、極低温の静寂。

全てのベクトルが目標に向けて極限まで引き絞られ、一切のブレを許さない完璧な直線の気配。

圧倒的な速度が、硬度という概念すら置き去りにして対象を穿つ、冷酷なまでの貫通力。


僕の描いた抽象的な『内的感覚(クオリア)』に対し、僕が持つ高校レベルの未熟な物理知識や環境条件が、無意識下でパズルのように噛み合っていく。

そして、高次空間にて示されたその内的感覚(クオリア)を現実にするため、最小単位の素粒子であるマナが集まり、低次元の物理空間へと降りてきて、勝手に「超加速」という現象を成立させる。

知識の不足分は、世界の最適化プロセスが完璧に補ってくれていた。


「貫け。――『雷霆の神弾(ケラウノス)』」


無言のトリガー。

次の瞬間、世界から一切の音が消え去った。


爆発音はない。ただ「ヒュンッ! ヒュンッ!」という、空気が存在を許されずに切り裂かれた鋭い裂過音だけが、連続して鼓膜を打った。

僕の周囲に浮遊していた数十個の石が、青白い光の尾を引く閃光となって、亜音速の壁を超えて一斉に撃ち出された。


純粋な岩の硬度を誇る岩石亀(ロックタートル)の甲羅。

僕の放った閃光は、その分厚い装甲を「最初から存在しなかった」かのように、紙切れの如く容易く貫通した。衝撃を拡散させる暇すら与えない、圧倒的な速度と密度の極致。

閃光は魔獣たちの巨体を次々と撃ち抜き、その奥の地面に大穴を穿って、ようやく霧散した。


「……マジかよ」


ノエルが剣を振り下ろした姿勢のまま、呆然と呟いた。

土煙が晴れた先。そこには、甲羅の中心に風穴を開けられ、一歩も動くことなく完全に沈黙した十数体の岩石亀(ロックタートル)の姿があった。

轟音も、熱の余波もない。ただ、静寂の中で確実な「死」だけが現象として出力されていた。


「ノエル、背中がお留守ですよ」

「……お前が片っ端から撃ち抜いてるから、俺の出番がないんだろうが!」


僕の軽い指摘に、ノエルがやれやれと肩をすくめて剣を鞘に収めた。

僕は小さく息を吐き、自らの魔力残量を確認する。

(……素晴らしい。あれだけの数を連射したのに、胃液を吐き出すような激しい飢餓感は全くない。マナの収束が、現象に必要な計算をすべて肩代わりしてくれたんだ)


「……もう驚くのにも疲れたぜ。なんだよ今の魔法、音も魔力の余波も全く無かったぞ。おまけに、あれだけ連射しておいて息一つ切らしてないじゃないか」

「ええ。少し、世界へのアプローチの仕方を変えたんです。おかげで魔力の消費も劇的に抑えられましたから」


そうして笑い合いながら、僕たちは再び歩き出した。

岩石亀(ロックタートル)の亡骸を越え、さらに斜面を登っていく。


ふと、僕の頬を撫でる風の質感が変わったことに気がついた。

淀んだ湿気と腐敗臭が薄れ、代わりに乾いた土と、青々とした植物の匂いが混じった新鮮な空気が流れ込んでくる。


僕が見上げると、数週間にわたって僕たちの頭上を重く覆い尽くしていた、分厚かった樹海の深層の天蓋が少しずつ薄れ始めていた。

木々の隙間から、眩しいほどに純粋な『本当の太陽の光』が、黄金色の筋となって僕たちの足元を照らしている。


ここはまだ、果てしない魔境のただ中だ。

だが、最も暗く深い『深層』は、確実に抜け出そうとしている。


同郷の先人が遺した高次なる理を胸に抱き、僕たちは太陽の光が導く方向へと、力強い足取りで進んでいくのだった。


【読者の皆様へ】

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