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第13話 絶望の谷底と安息の洞窟

樹海の最深部は、僕の知る物理法則や生態系の常識が、鮮やかに崩壊する場所だった。


「……スゴイ。ノエル、コレ、全テ純粋ナ『マナ』ノ結晶、デスネ」

「ああ。深層の中でも特に魔力が濃く淀んでいる証拠だ。綺麗だが、長居すると平衡感覚が狂ってまっすぐ歩けなくなるから気をつけろよ」


巨大な樹木の天蓋を抜け、僕たちが足を踏み入れたのは、すり鉢状になった巨大な谷だった。

むき出しになった岩肌には、青や紫に発光する巨大な水晶のような結晶体が無数に群生している。空気中には淡い光の粒子が蛍のように舞い、幻想的で、息を呑むほど美しい光景が広がっていた。


(信じられない。大気中のマナが過飽和状態になり、結晶化して物理的な質量を持っている。これ、少し削って街に持ち帰れば、一体どれほどの金額になるんだ……!?)


「おい、ユウ」

「ハイ、ナンデショウ」

「お前今、『これ削って持ち帰れば、どれだけのカネになるか』って考えてただろ」


「――ギクッ!?」


僕は思わず肩をビクンと跳ねさせ、ノエルを振り返った。


「ノ、ノエル、読心術モ、使エルンデスカ!?」

「お前の顔を見りゃ嫌でも分かる。あのスクリームマンドレイクの群れを見た時とまったく同じ、カネの亡者の目をしてたぞ」

「気ノセイ、デスヨ。私ハ只、コノ美シイ景色ニ、心ヲ打タレテイタダケ、デス」

「よく言うぜ。ほら、足元にツルがあるぞ。転ばないように気をつけろ」

「ハイハイ。ノエルハ、本トウニ、心配性ノお母サン、デスネ」

「誰がお母さんだ!」


呆れ果てて文句を言うノエルに、僕は声を上げて笑った。

「みゃおッ!」

「おっと。シャノワール、ソッチノ結晶ハ、触ラナイ方ガ良イデスヨ。内部ノ魔力振動ガ、不安定デス。爆発シマス」


僕の警告を聞き、足元の岩肌を駆けようとしていたシャノワールがピタッと止まり、不満げに尻尾をパタパタと揺らした。


「相変わらず、お前のその『視える』目は反則だな。……だが、助かる。こういう場所は魔獣が寄り付かない代わりに、地形そのものがトラップみたいなもんだからな」


谷の斜面を慎重に下りていた、その時だった。

僕の足が、ピタリと止まった。


視界の端。発光する結晶の奥、谷の底にあたる広大な空間から、不自然な「ノイズ」を感じ取ったのだ。

物理的な音ではない。僕の『構造認知(ディープスキャン)』が、その空間のエネルギーの異常な歪みを警告している。


「……ノエル。止マッテ、クダサイ」

「どうした? 何か見え――」

ノエルが谷底を覗き込もうとした瞬間。

谷の底に充満していた淡い光の粒子が、一瞬にしてドス黒く変色した。


ズン……。

地面の底から、腹の底を直接殴られたような重低音が響いた。


「――ッ!?」


谷底の霧が晴れた先。そこに「ソレ」はいた。

黒紫色の分厚い鱗。山と見紛うほどの圧倒的な質量。うねり、絡み合う複数の長大な首。そのシルエットは、神話に語られる多頭の巨大蛇そのものだった。

ただ静かに微睡んでいるだけだというのに、呼吸のたびに周囲の美しい結晶がドロドロと黒く溶け落ちていく。


僕の思考が、警鐘を通り越して「死」を叫んだ。

全身の毛穴が開き、氷水を浴びたような悪寒が背筋を駆け上がる。


「(……『禁災種きんさいしゅ』だ。多頭毒蛇、ヒュドラ)」

ノエルが、這うような、極限まで抑え込んだ声で耳打ちした。

「(国が軍隊を動かそうが勝てない、生きた災害……。なるほどな、こんなバケモノが底で微睡んでるなら、この辺りが未踏破の魔境として残ってるのも頷ける)」


僕は一瞬の躊躇もなく、ノエルの肩を強く掴み、視線だけで「撤退」の意思を伝えた。

ワクワクする冒険だの、未知の探求だの、そんなものは命があってこそだ。あんな物理法則を無視したバケモノとやり合うなんて、コスパ最悪どころの話ではない。一刻も早く、感知範囲外へ逃げる。


ノエルが鋭い眼光で頷き、僕の耳元に唇を寄せて極小の囁き声を落とした。

「(……言われるまでもねえ。風向きはこっちだ、匂いは誤魔化せる。絶対に音を立てるなよ)」


僕とノエルの間にこれ以上の言葉はいらなかった。

僕は無言のまま、即座に『氷鏡結界(アイスミラー)』を構築する。衣服の擦れる音や、シャノワールがコートに潜り込む空間を確保するため、僕とノエル、それぞれをスッポリと覆い隠す「カプセル状の氷の膜」を展開した。

二重の氷の膜の間に真空層を作り出し、内部の足音や衣擦れの音を完全に遮断する。


さらに同時に、『熱源操作(サーモ・コントロール)』を発動し、氷の膜の「外殻」の温度を周囲の結晶体とまったく同じ温度に合わせた。

僕の魔法による氷は温度で凍っているわけではなく、マナ結合によって強固に結びついているため、それ自体が極端に冷たいわけでも温かいわけでもない。環境温度に合わせて操作した程度で結界が脆くなったり、通常の方法で溶けたりすることはないのだ。

これで音は真空に阻まれ、熱源探知は環境と同化して完全にシャットアウトされた。


シャノワールが素早く僕のコートの懐に潜り込む。


ノエルの研ぎ澄まされたサバイバル技術による歩法に合わせ、僕たちはいっさいの音と熱を殺し、ただひたすらに、ヒュドラに背を向けて谷の斜面を後退した。

ヒュドラの寝返り一つで谷全体が揺れる。その絶大なプレッシャーに冷や汗を流しながらも、僕たちの撤退は迅速かつ完璧だった。


◆ ◇ ◆


――ヒュドラの瘴気が完全に届かない、谷の上層部にある細い岩の裂け目。

そこを強引に通り抜けた先には、外からは全く見えない、乾燥した広い隠し洞窟が広がっていた。


「……ハァッ、ハァッ……! ここまで来れば、大丈夫だ……ッ」

「……生キタ心地ガ、シマセンデシタネ……」


洞窟の床に転がり込み、僕とノエルは荒い息を吐きながら天を仰いだ。コートの中から飛び出したシャノワールも、安堵したようにへたり込んでいる。


「あんなバケモノ、初めて生で見たぜ……。だが、お前のあの無言の隠蔽魔法と撤退の判断、完璧だった。一秒でも見とれてたら終わってたぞ」

「好奇心デ、死ニタクハ、アリマセンカラ。……ソレニ、ココハ、安全ソウデスネ」


息を整えながら洞窟内を見渡した僕は、ふと、壁際に「不自然なもの」があることに気がついた。

苔一つ生えていない乾燥した洞窟の奥に、引き裂かれたテントの布地と、一人の風化した白骨が壁に寄りかかるようにして崩れ落ちていたのだ。


ノエルが顔を強張らせ、立ち上がる。

彼は白骨のそばに落ちていた、一枚のプレートを拾い上げた。暗い洞窟の中でも燦然と輝く、美しい金属の光沢。


「ユウ、これ……ギルドが発行するライセンスカードだ。しかも『黄金ゴールド』……Aランクの証だぞ」

「……Aランク。ソレハ、コノ世界デモ、超一流ノ探索者トイウコトデスカ」

「ああ。一握りしかいない、エリート中のエリートだ。あのヒュドラに遭遇して、ここまで逃げ延びたが……瘴気にあてられたか、傷が深かったかで、ここで力尽きたんだろう。……こんな場所で、一人ひっそりと」


重苦しい沈黙が落ちる。

だが、僕は内心で静かに手を合わせ(南無阿弥陀仏、どうか安らかに)、すぐさま白骨の周囲――遺留品の捜索を開始した。


「ユウ、お前……」

「ノエル。彼ノ無念ハ、私ガ有効活用シマス。ココデ朽チサセルニハ、惜シイモノバカリ、デス」

「お前、さっきまで死にかけてたのに、切り替えが早すぎないか!? 俺のしんみりした気持ちを返せ!」


ツッコミを入れるノエルを尻目に、僕は遺留品を調べていく。

乾燥した洞窟のおかげで、劣化は驚くほど少なかった。


まず目を引いたのは、白骨が身に纏っていた外套ローブだ。

表地は深緑の絹がベースのようだが、何らかの特殊で微細な光沢のある糸が織り交ぜられているためか、光の加減で上品なライトオリーブグリーンに見える。裏地とステッチには赤い絹が使われ、全体的に淡い赤色のアクセントに仕上がっていた。


「ノエル、コレ……生地ガ、全ク傷ンデイマセン」

「……見せてみろ。マジか、複数の魔獣の絹と『ミスリル糸』で編まれた特注の魔導衣だぞ。その淡い色合いはミスリルが細かく織り込まれている証拠だ。汚れを弾き、物理と魔法の両方に高い耐性を持つ。王都の貴族が金貨を積んでも買えるかどうか……お前、羽織ってみろよ」


促されるままに泥だらけの自分の上着を脱ぎ、そのライトオリーブグリーンの外套に袖を通す。

驚くほど軽く、そして僕の体格に合わせて生地がシュルリと自動で収縮し、ぴったりとフィットした。

「スゴイ……魔力ノ流レガ、信ジラレナイ程、スムーズデス」


さらに探索を進めると、白骨の腰のあたりに、細かな幾何学文字が刺繍された小さな革袋が転がっていた。

「ノエル、コノ袋ハ? 中ニ、何モ入ッテイナイヨウニ見エマスガ……」

「おいおい、嘘だろ。そいつは『空間収納袋マジックバッグ』だぞ! 中の空間が亜空間に繋がってて、その小さな見た目からは想像もつかないほど広大な――倉庫一つ分くらいの荷物が丸ごと入る超希少マジックアイテムだ。シャノワールの影と同じ働きをする」


(――マジか!! これで手で持ち運べない素材も、シャノワールの機嫌を気にせず無限に回収できるじゃないか!)


さらに革袋の奥を探ると、銀色の金属でできた頑丈な「円筒」が出てきた。

「ノエル、コレハ?」

「……『魔導シリンダー』だ。魔力で密閉して、中身を水や劣化から完全に守るアーティファクトだ。特定の魔力波長を流し込まないと開かない、強固なロックがかかってる。持ち主以外が開けようとしたら中身ごと爆発するトラップがあるはずだ」


(なるほど、物理的な金庫というわけか。だが、魔力波長パスワードなんて、僕のスキルにかかれば……)


僕はニヤリと笑い、シリンダーの表面に指を這わせた。

構造認知(ディープスキャン)』を展開し、金属内部の魔力回路を解析する。回路の構造、要求される周波数、ロックの物理的な噛み合わせ。すべてが透けて見える。

パチリ、と。僕が指先から特定の波長の魔力を流し込んだ瞬間、シリンダーの蓋が小気味良い音を立ててスライドした。


「は!? だからトラップがあるって言っただろ! なんで数秒でパスワード解除してんだよ!」

「構造ガ分カレバ、簡単ナ知恵ノ輪、デスヨ。……オオッ!」


蓋を開けた僕の口から、歓喜の声が漏れた。

中から出てきたのは、一冊の分厚い本。乾燥したシリンダーの中で完璧に保存されていたそれは、装丁も紙も、まったく劣化していなかった。


僕はワクワクしながら、その表紙に刻まれた文字を『構造認知』で翻訳しようとして――思考が完全に停止した。


翻訳の必要など、どこにもなかった。

そこに書かれていたのは、見慣れた、懐かしい、そしてこの異世界にあるはずのない文字。


『高次マナ空間における物理法則の適用と、魔法術式への最適化理論』


それは、完璧な『日本語』だった。


(……日本語、だと!? じゃあ、この白骨の主は……僕と同じ、日本からの転移者か転生者だって言うのか!?)


パラパラとページをめくる。

そこに記されていたのは、この世界の住人向けの浅い教本などではない。僕よりも遥かに深い物理法則と科学知識を持ち、長年この異世界で生き抜いた「同郷の先人」が書き残した、喉から手が出るほど欲しかった高度な魔法理論の集大成だった。


「……どうしたユウ。お前、目ん玉が飛び出そうなくらい見開いて固まってるぞ。そんな読めない古代文字でも書かれてたか?」

「ノエル……コレハ……最高ノ、お宝デス……!」


震える手で本を抱きしめる。

「……たく。ヒュドラを見た時は絶望したが、お前のそのブレなさを見てると、なんかどうでもよくなってくるな」


ノエルが呆れたように笑い、洞窟の壁に背中を預けた。

「……ちょうどいい、外はヒュドラの近くで危険すぎる。今日はこの隠し洞窟で一晩明かすぞ。その空間収納袋の中身も、ゆっくり確認しなきゃならねえしな」

「大賛成、デス! 今夜ハ、最高ノ戦利品鑑定会、デスネ!」


圧倒的な死の恐怖を乗り越え、隠された安全圏で、先人の遺した「真の知識」を手に入れた。

僕は淡い赤色がアクセントになったライトオリーブグリーンの魔導衣を翻し、同郷の先人が遺した知識の結晶に思いを馳せながら、深く、満足げな息を吐き出した。


【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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