第32話:あまりにも膨大な魔力
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「…2号を、返せと。それは無理な相談だよ、コータ君」
イグナートが、薄い唇を吊り上げて僕を嘲笑う。
ただそこに立っているだけだというのに、彼女の放つ空気の重圧だけで息が詰まりそうだった。
まるで、蛇に睨まれた蛙の気分だ。一歩でも動けば、見えない牙で喉笛を食いちぎられそうな、絶対的な恐怖。
「総司令。君たちには過ぎた代物だよ、あれは。…私からもギルドに口を利いて、今回の件は不問にしよう。彼にアルテアさんを返却したまえ」
僕の後ろから歩み出たサイラスさんが、飄々とした口調のまま加勢してくれた。
だが、イグナートは聞く耳を持たない。
「学問と発掘しか能のない学者様が、偉そうな口を叩くものだ。…せっかく苦労して手に入れた古代技術を、はいわかりました、と手放す奴が、この世のどこにいるというのかね……?」
「…………」
「むしろ私は、ぜひとも、古代技術の権威であるサイラス殿と、唯一の適合者であるコータ君にも、我がイグニス軍への協力を仰ぎたいと思っていてね。…学者様には一度断られているが……どうだろうか。悪い話ではないと思うがね」
それは、実質的な服従の要求だった。
アルテアの枷となり、彼女をイグニスの所有する兵器として運用するための、生きた鍵になれと。
「…断る」
「ん? 聞こえなかったな。恐怖で声も出ないか。…なんと言ったかね?」
「断るって言ったんだ!アルテアは道具じゃない!!」
僕は、震える足を踏みしめ、ありったけの勇気を振り絞って叫んだ。
「そうか。……なら、交渉決裂だ。残念だよ」
イグナートの瞳から、スッと色が消えた。
直後、彼女は僕の鼻先にまで肉薄しており、僕の胸ぐらを片手で軽々と掴み上げていた。
「いっ――!?」
ドンッ!!
何も反抗できないまま、僕は軽々と宙を舞い、大理石の床へと乱暴に投げ飛ばされた。
全身の骨が軋み、肺から空気が強制的に絞り出される。
「げほっ、ごほっ……!」
床を転がり、なんとか顔を上げたその先。
豪奢な作りの部屋の奥に設置されたガラス張りの部屋の向こう側。
そこには、幾重ものケーブルを繋がれ、人形のように静かに眠っている、アルテアの姿が見えた。
(アルテア……!)
彼女の姿を見た瞬間、僕の中で、何かがカチリと音を立てて変わったような気がした。
イグナートに対する生理的な恐怖など、一瞬で吹き飛んでいた。
ただ、あの子の手を取らなければならないという、絶対的な使命感だけが僕を支配する。
「強情だなコータ君。君が泣き叫んで『協力します』と言いたくなるまで、何発耐えられるだろうか…」
イグナートは腰のホルスターから鈍く光る装飾の入った魔導銃を取り出し、無防備な僕に向けて歩み寄ってくる。
「総司令、手荒な真似はよしたまえ——」
パァンッ!!
サイラスさんが止めに入ろうと前に出た瞬間、彼の足元ギリギリの床に、容赦のない一発の銃弾が叩き込まれた。
火花が散り、サイラスさんが足を止める。
「学者様は、そこで黙って見ているがいい」
僕を見下ろすイグナートの顔には、一切の慈悲はなかった。
「さあ、コータ君。始めようか…っ!」
ゴッ!!
「がっ…!?」
硬い軍靴の鋭い先端が、僕の肋骨を無造作に、しかし的確に蹴り上げた。
胃の内容物をすべてぶちまけてしまいそうな、吐き気を伴う凄まじい衝撃が僕を襲う。
「さあ、まだ始まったばかりだ」
ゴッ! ドゴッ!
二発目、三発目と、僕が立ち上がる暇も与えずに容赦のない蹴りが部位を変えて叩き込まれる。
痛みで頭が真っ白になる。
考えろ…考えるんだ…この絶対的な暴力の状況を打破するには……。
ふと、床にうずくまる僕の腰のホルダーに、冷たい硬い金属の感触があることを思い出した。
護身用にと渡された、魔導銃。
一度も、対人で撃ったことなんてない。だが、もう、これしか……。
ゴッ!!
「ぐほぁっ……!」
四発目、五発目、六発目……。
ついに肋骨のどこかが折れた嫌な音が聞こえた。口の中から鉄の味がして、急激な痛みと失血で意識がもうろうとしてくる。
「…なぁ、司令官殿。あなたの後ろのワインセラー…」
不意に、サイラスさんが間の抜けた声で、見当違いな方向を指差して声を上げ、それを勢いよく倒した。
ガシャガシャ…!
「……っ?」
いら立ちと共にイグナートがわずかに後ろを、サイラスさんの方を振り返った瞬間。
サイラスさんが僕のために一瞬だけ気をそらしてくれた。今だ!
僕は腰のホルダーから手で魔導銃をすばやく抜き放ち、イグナートの背中に向ける。
だが、さすがは一国の軍を束ねる頂点の女だった。
「…愚かな真似を」
殺気に気づいたイグナートは、振り返りざまに、すでに僕の頭へと自身の銃口をピタリと向けていた。
『『パァンッ!!』』
同時に放たれた二つの銃声。
僕が放った銃弾は、イグナートの銃を握る右腕に深く突き刺さった。
「ちぃっ……!」
鮮血が舞い、イグナートが落とした魔導銃が、カランと床を滑っていく。
しかし。
彼女の放った銃弾は、避けようとした僕の太ももを無慈悲に貫通していた。
「あぁぁぁぁぁっ!!!」
焼けるような激痛。足の感覚がなくなる。
「ぐぅっ…やるじゃあないか。……しかし、これでチェックメイトだ」
右腕をだらりと下げながらも、イグナートが落ちた銃を左手で拾おうとした、その時。
タッタッタッ!
部屋の隅に控えていたサイラスさんが、柄にもなく運動不足の足を全開で走らせ、床を滑る銃をイグナートより先に拾い上げたのだった。
そして彼は、僕たちには目もくれず、一直線に部屋の奥——アルテアの眠る部屋の方へと走っていく。
「チッ…!」
イグナートが顔を歪め、サイラスさんの後を追おうとしている。
(行かせるものか!)
パァンッ!パァンッ!
「そこを動くなっ!!」
僕は床に這いつくばったまま、必死にイグナートの背中へ向けて引き金を引く。
だが、もともと撃った経験など皆無、痛みと失血のせいで、僕の放つ弾道はイグナートを逸れ、ただ壁を穿つだけで牽制にすらなっていなかった。
「おのれ…!下手に出ていればつけあがりおって……」
怒り狂ったイグナートが標的を僕に戻し、ふらふらと歩み寄り、そのまま無抵抗の僕の身体に馬乗りになった。
絶対に行かせまい、と左手でイグナートの軍服を握りしめる。
「私の…邪魔ばかり…するんじゃあ……ないっ!!」
ドゴッ!ドゴォッ!
折れて使い物にならない右腕の代わりに、イグナートの左の拳が、容赦なく僕の顔面を何度も何度も殴りつける。
すでに「痛い」という感覚すら麻痺してなくなっていた。
視界が赤く染まり、何も見えない。耳鳴りだけがひどくうるさい。
だが、イグナートを掴むこの手だけは、絶対に放さない。
絶対に。僕が諦めたら、誰がアルテアを呼ぶんだ。
でも…もう……。
『消去するか、コータ』
(ああ…ついに、アルテアの幻聴まで…。ごめん、アルテア。助けてあげられなくて……)
もう、これ以上は無理だ。意識が、深い底へと沈んでいく。
アル……て……あ……。
「コータ君!!コータ君っ、再起動が間に合った!! 早く、早くアルテアさんに『指示』を!!」
遠くで、サイラスさんの、歓喜に満ちた絶叫が聞こえたような気がした。
『……指示を、コータ』
幻聴なんかじゃない。
僕の頭の中に直接響く、氷のように冷たくて、でもひどく心地の良い、あの子の澄んだ声。
「ッ……!」
僕は、血反吐を吐きながら、最後の力を振り絞って笑った。
馬乗りになって僕を殴り続けていたイグナートが、背後の異常な魔力反応に気づき、顔を青ざめさせて振り返る。
銀糸の髪をふわりと舞わせた執行端末たる最強の少女が、無感情な瞳でイグナートを見下ろしていた。
「……出、力を、0.1%で……光」
僕の掠れた言葉に対し、少女はかつてのあの日と同じように、短く、言った。
「了解、コータ」
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