第111話:存在し得ない証明論
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「ウォルターさん…」
私の声は、自分でも驚くほどひどく震えていた。
目の前にいるのは、かつてアステリアの大半を自らの意志で滅ぼした、神話上の破壊者。
「私を指して、ウォルター、と呼ぶのは、正解だが、不正解だよ」
彼は、どこまでも穏やかな口調で言った。
「ウォルターは死んだ。1000年前、一度ね。だが、こうして生きながらえている。なぜだかわかるかい?」
「…」
答えられるはずがなかった。恐怖で喉が張り付き、肺に冷たい空気が刺さる。
「私は死ねないのだよ。死んだはずなのに、死んでいない。矛盾しているとでも言いたげだね。そう、この箱庭の中で、ただ一人、理から外れた存在。それが私なのだよ」
ウォルター…いや、クロニカさんは、私たちの周りをゆっくりと回るように歩きながら語り続ける。
その姿は、本棚の影に隠れるたびに、そのままふっと消えてしまいそうなほどに、曖昧で希薄な存在感だった。まるで、世界そのものが彼の存在を拒絶しているかのように。
「死んでいるのに、死んでいない…」
コータさんが、信じられないものを見るような目で、その言葉を反芻する。
――カツン、カツン。
硬い靴音だけが、静まり返った資料室に不気味に響き渡る。
不思議だった。その音さえも、本当に彼から発されているものなのか。脳が勝手に作り出している幻聴ではないかと、疑わしく思えてくる。
「そうだ、コータ君。君は、先の裁判で、『人はわかり合える』と言ったね」
不意に足を止め、クロニカさんはコータさんを真っ直ぐに見据えた。
「…僕は、話し合いたい。力じゃなく、わかり合える道を――」
コータさんの言葉を遮るように、クロニカさんの仮面の下の口元が、にやりと歪む。
「コータ君、人は『分かり合える』からこそ争うのだよ。相手の望みを知り、それが己の望みと相反すると知るからこそ、そこに決定的な憎しみが生まれる。対話とは、破滅への衝突を先送りにするための欺瞞でしかない」
「そんなこと…!」
「君が掲げる正義も、明日には誰かの『正義』によって容易く踏みつぶされる。それがこの世界の、逃れられぬ真理なのだよ。これまで1000年間、飽きもせず繰り返されてきた、退屈な喜劇さ。それとも、君の正義を力で押し通すのかな」
コータさんの瞳が揺れる。
彼は、ギュッと強く握りしめた自分の両手を見つめて、唇を噛んだ。
1000年間、この世界を見続けてきたクロニカさんの言葉には、圧倒的な、有無を言わさぬ重みがあった。
「では、ニーナ君」
今度は、彼が私を見た。
恐怖でも、安堵でもない。ただ、「見られている」。仮面の奥の、彼の底知れない空洞のような目が私を見ている。その視線に射抜かれただけで、心臓が握り潰されたような感覚に陥り、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
「君は彼女を赦すと言ったね。だが、君には力がある。圧倒的な力が。心に反してまで、赦すことなどないのだよ」
「…」
「ただ、報復すればいい。一方的に尊厳を奪われた君には、その権利があるはずだ。なぜ行使しない? なぜ彼女を、この世界を焼かない」
悪魔の囁きのように、甘く、冷たい声。
だけど、私は震える膝に力を込めて、必死に首を横に振った。
「…それは…間違いです。そんなことをすれば…また新しい、憎しみを産むだけです」
「争いなど起きようはずがない。力を持つ君こそが、この世界の法なのだから」
クロニカさんは、私の反論を鼻で笑った。
「偽りの安寧に胡座をかき、本質から目を背けているだけではないのかね?」
反論の余地を与えないまま、クロニカさんは私たちに背を向けて、再びゆっくりと歩き出す。
カツン、カツン…。
その靴音が、鼓動に同期するようにして耳の奥に残り続ける。
「イグナート君の手法は、面白かったよ。限りなく正解に近い。だが、正解ではない」
暗がりに溶け込むような背中が、淡々と語る。
「あれでは、争いは終わらない。苦しみも消えない。愛する者との別れも、裏切りの痛みも……この箱庭の中では、永遠に繰り返される。神が仕組んだこのプログラムに、出口などないのだから」
そこで、彼はぴたりと足を止めた。
振り返った彼の気配が、一瞬にして凍てつくような「無」に変わる。
「ならば、何が救いか」
「…」
「それは、終焉だよ」
「終焉…?」
コータさんが、その言葉の恐ろしい意図を読み取ろうとするかのように、掠れた声で繰り返した。
「そう、終焉。終わりだ。誕生も死も、喜びも悲しみも、この私という存在すら、すべて終わりにしようじゃあないか」
クロニカさんは、わざとらしく両手を広げてみせた。
「それこそが、この地獄のような輪廻から衆生を解き放つ、唯一にして真実の慈悲だと思わないかい?」
「この世界を…消すって、ことか…?」
コータさんは、確認するように独り言ちたけど、
私はあまりのスケールの狂気に、その場にへたり込んでしまった。
腰が抜けて、立ち上がれない。指先ひとつ動かせない。
…冗談じゃない。
クロニカさんなら、本当にやりかねない。彼の気配が、そう確信させていた。
「そうだとも。この美しくも腐り果てた世界に、終止符を打つ」
仮面の奥の瞳が、私たちを捉えて細められた。
「君たちには、その手伝いをしてもらいたくてね」
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