第108話:平和への鍵
ガクガクと震える膝を押さえながら席に座ると、視界が急激に白んでいくのを感じた。自分が何を口走っていたのか、正直もう覚えていない…。でも、胸の中に溜まっていた思いは、すべて吐き出せた。そんな確信だけはあった。
隣で立ち上がったニーナさんの表情は、いつになく凛としていて、そして力強く見えた。
「私は、イグナートさんの手で、執行端末であるジリウスさんの監視端末として、この世界に呼び出されました」
静かだけど、法廷の隅々まで届くような透き通った声。
彼女は、自分が受けた凄惨な仕打ちを、一つひとつ紐解くように語り始めた。
「洗脳…操られる直前、彼女は私に言いました。世界は管理されなければならないと。統一による治安維持が必要だと…」
ニーナさんは一度言葉を切ると、イグナートを真っ直ぐに見つめた。
「先ほどの説明にもありましたが、イグニスの内戦は、彼女の手により終結しました。目的達成のため、道徳や倫理を無視し、手段を選ばない冷徹な思想。…でも、彼女が平和を求めて尽力したことは、揺るぎない事実です」
イグナートの眉が、微かに動く。
「けれど…いくら崇高な目的があったにせよ、私は彼女の手段を正当化することはできません。私の人権を踏みにじり、罪のない人々を大量に…。私も、彼女を許せない…」
声が震え、言葉が詰まる。それでもニーナさんは、溢れそうになる涙を堪えて続けた。
「極端に合理性に偏った思想。…でも、コータさんも言うように、彼女は本気で争いを無くそうとしていました。自らの凄惨な境遇を糧にして…」
ニーナさんの大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
「憎しみは、さらなる憎しみを生みます。…それは、私だって同じ。彼女が憎い。心から…」
それは、奪われた尊厳への悔しさなのか。それとも、孤独を抱えて生きてきたイグナートへの、同情なのか。僕には、わからない。
でもニーナさんは、震える唇を開き、この場にいる全員が予想だにしなかった言葉を紡ぎ出した。
「でも…私は、彼女を――」
ニーナさんは、イグナートさんを。
「――許す…いえ、赦します。だから、どうか…情状酌量の余地を。彼女の功績を、汲み取っては、もらえませんか」
大議事堂が、爆発したようなどよめきに包まれる。
「静粛に!」
マクシミリアンさんの制止さえ、その熱狂を抑えることはできない。呆然とした顔で、イグナートさんがニーナさんを問い詰める。
「ニーナさん…私は、君を利用したのだよ?」
「わかっています」
「そんな私を…赦すというのかい?」
「はい」
「頭のねじが、外れているのかね」
自嘲するようなイグナートさんの言葉に、ニーナさんは涙を流しながら…、笑いながら、そう言った。
「いいえ。赦すことが、平和の第一歩だと思います。大丈夫です、きっと」
イグナートの表情は、僕の位置からはよく見えない。怒っているのか、泣いているのか、それとも呆れているのか。
そして、僕は、ニーナさんをなんて強い女性なんだと思った。
本当なら、内臓が焼けるほどに憎いはずだ。ありていに言えば、殺したいほどに。
それなのに、一番の被害者である彼女が、赦すと言ったんだ。
「……っ」
不甲斐ないことに、僕の目からも涙が溢れて止まらなかった。
マクシミリアンさんは、安堵したような、それでいて何か深い思案に沈むような、複雑な表情を浮かべていた。アッシュさんは目を見開き、信じられないものを見るようにニーナさんを見つめている。アウレリウス王だけは、忌々しいものを見るように、今なおイグナートを睨みつけていた。
全ての力を使い果たしたように、ニーナさんは椅子へとへたり込んだ。




