29時間目 フィナーレ
深い、深い闇の中にいた。
音も光もない世界。
だが、不思議と怖くはなかった。
遠くで、誰かが俺の名前を呼んでいるような気がしたからだ。
――カケル!
――カケル君!
その声が、俺を現世へと引き戻す命綱だった。
*
「……ん」
重い瞼を開けると、見慣れた天井があった。
校長室の、豪華なシャンデリア(電気は消えている)だ。
鼻をくすぐるのは、高級なコーヒーの香りと、微かな薬品の匂い。
「気がついたかね、実行委員長殿」
横から、落ち着いた声が聞こえた。
首を動かすと、デスクでマグカップを傾ける東雲センパイの姿があった。
白衣は煤だらけでボロボロだが、その表情はいつもの涼しげなものだった。
「センパイ……。俺、生きてます?」
「ギリギリでね。過剰な魔力行使による『魔力欠乏症』と、全身打撲。まあ、3日も寝込めば治るレベルだ」
3日か。結構な重傷だ。
俺は体を起こそうとして、右腕に違和感を覚えた。
「……うおっ」
右腕全体が、分厚い包帯でグルグル巻きにされていた。
感覚が鈍い。まるで、自分の腕が石になったような重さだ。
「心配するな。切断は免れたよ」
センパイが言った。「ただ、空間という概念に無理やり杭を打ち込んだ反動だ。神経系が焼き切れている。リハビリには時間がかかるだろうね」
俺は包帯の隙間から、自分の指先を見た。
皮膚の一部が、黒い岩のように変色していた。
ジェームズ君(人体模型)や、巨大な腕と同じ質感。異世界の干渉を受けた名残(勲章)だ。
「……ま、悪くないっすね」
俺は左手で、動かない右腕をさすった。
この腕が、俺たちの居場所を守った証拠だと思えば、重さすら愛おしい。
「それにしても……静かですね」
窓の外を見た。
あの不気味な紫色の光も、空の亀裂も、巨大な腕もない。
あるのは、いつもの灰色の霧に閉ざされた、静謐な夜空だけだ。
「全部、終わったんですか」
「ああ。君が『固定』で蓋をして、私の花火と凛君の炎がすべてを吹き飛ばした。ゲートは完全に消滅。豪徳寺君たちの反応もロストしたよ」
勝ったんだ。
俺たちは、世界を救った勇者に勝った。
世界を守るためじゃなく、ただの「日常」を守るために。
ふと、太もものあたりに重みを感じた。
視線を落とすと、ソファの端で、凛が俺の足に突っ伏して眠っていた。
ジャージは泥だらけで、髪もボサボサだ。
でも、その寝顔は安らかで、目の端には乾いた涙の跡があった。
「ずっと看病していたんだよ。君が死ぬんじゃないかって、泣きじゃくってね」
「……余計なこと言わないでくださいよ」
俺は苦笑して、左手で凛の頭をそっと撫でた。
柔らかい髪の感触。
生きている。俺も、こいつも。
「ん……ぅ……」
俺の手の動きを感じたのか、凛が身じろぎをして、ゆっくりと顔を上げた。
眠そうな目が、俺と合う。
数秒の沈黙。
彼女の瞳が、急速に見開かれていく。
「……カケル?」
「よう。おはよう、お姫様」
俺が茶化すと、凛の顔がくしゃっと歪んだ。
「バカッ……!!」
ドスッ!
いきなり鳩尾に頭突きを食らった。
病人に何すんだ。
「痛ぇな!」
「心配させんじゃないわよ! 息止まってるし! 体冷たいし! もうダメかと思ったじゃない!」
凛は俺の胸に顔を埋めたまま、ポカポカと拳で叩いてきた。痛くはない。震えていた。
「悪かったよ。……ありがとな、守ってくれて」
「……うるさい。バカ」
俺は彼女の背中に手を回し、ポンポンと叩いた。
センパイが「やれやれ」といった顔でコーヒーを啜っている。
俺たちは生きて、朝(といっても霧の中だが)を迎えた。
その時。
窓の外で、キラキラと何かが光った。
「おや、まだ残っていたか」
センパイが窓を開ける。
夜空に舞っていたのは、先ほどの戦闘で打ち上げた「化学花火」の燃えカス――光る粒子の残り香だった。
風のない結界の中で、それはダイヤモンドダストのように滞留し、学校全体を幻想的に包み込んでいた。
「綺麗……」
凛が涙を拭って呟く。
それは、激しかった戦いの終わりを告げる、静かなフィナーレの輝きだった。
俺たちは並んで、その光景を見つめた。
「終わったな、文化祭」
「ええ。……最高の祭りだったわ」
「またやりたいかね?」
「勘弁してください。次はもっと地味なやつでいいです」
俺たちの笑い声が、静かな校長室に響いた。
こうして、たった3人だけの、世界で一番熱くて、迷惑で、最高だった文化祭は幕を閉じた。
あとは、後夜祭を残すのみだ。




