18時間目 黒板のSOS
作戦名『スクール・フェスティバル』。
俺たちはその準備のために、校内を駆け回っていた。
放送室から巨大なアンプとスピーカーを回収。
体育館の倉庫から照明機材を搬出。
美術室からペンキや垂れ幕を確保。
だが、作業は困難を極めた。
なぜなら、廊下が「生きて」いるからだ。
「きゃっ! また床が!」
凛が悲鳴を上げる。
渡り廊下の床が、踏んだ瞬間に泥沼のように沈み込み、靴を飲み込もうとする。壁は呼吸するように脈打ち、天井からは紫色の粘液(魔力の残滓)が滴り落ちてくる。
「急げ! 校舎の『自我』が異世界側に書き換えられつつある!」
東雲センパイがスピーカーを台車で運びながら叫ぶ。
体育倉庫の前を通りかかった時、中からガタガタと激しい物音が聞こえた。
跳び箱やマット運搬車が「目覚め」始めている。
音楽室からは、誰も弾いていないはずのピアノが不協和音を奏でていた。
家庭科室の方向からは、あの「鍋を叩くリズム」が微かに聞こえてくる。
だが、今は構っている暇はない。
俺たちは泥のような廊下を強行突破し、物資を校長室へと運び込んだ。
*
時刻は18時。
外はすでに夜の帳が下りているが、空の亀裂から漏れる紫色の光で、不気味に明るい。
俺たちは校長室に戻り、最後の作戦会議を開こうとした。
だが、部屋に入った瞬間、異変に気づいた。
キュッ……キュッ……キュキュッ……。
音がする。
センパイがさっき「文化祭の計画」を書き込んだばかりのホワイトボードからだ。
「……おい。あれ」
俺が指差す先で、あり得ない現象が起きていた。
ホワイトボードの黒いマーカーのインクが、勝手に動き出している。
液体のように滲み、広がり、センパイが書いた『お祭り』という文字を塗りつぶしていく。
「私の作戦図が……! 侵食がここまで来ているのか!」
インクは意思を持った黒い蛇のようにのたうち回り、やがて新しい文字を形成した。
今までのような、チョークで刻んだ文字ではない。
インクが滲んで形成された、ドロドロとした黒い文字だ。
『 時 間 が な い 』
それは、豪徳寺からの通信だった。
だが、いつものような傲慢さはなく、切羽詰まった狂気を感じさせる。
『 ゲ ー ト の 座 標 固 定 に 失 敗 し た 』
『 こ の ま ま で は 俺 た ち は 次 元 の 狭 間 で 消 滅 す る 』
『 も う 3 人 死 ん だ 』
『 今 夜 中 に 帰 れ な け れ ば 全 滅 だ 』
「……失敗した?」
俺は眉をひそめた。「どういうことだよ」
黒板の紫色の光が、不安定に明滅する。
その前に、東雲センパイが一歩進み出た。目が、いつも以上に鋭く光っている。
「……豪徳寺。よく聞け」
センパイはチョークを取り、黒板に向かって一気に書き殴った。
『 座 標 固 定 と は 「 帰 る 先 を 確 定 す る 」 工 程 だ 』
『 そ れ に 失 敗 し た と い う こ と は 』
『 お 前 た ち は 「 帰 る 場 所 」 を 失 っ た と い う こ と だ 』
数秒の沈黙。
次の瞬間、黒板が激しく震えた。
『 ふ ざ け る な ! 』
『 大 賢 者 様 は 完 璧 だ ! 』
『 こ れ は 誤 差 だ ! 調 整 す れ ば ―― 』
センパイは、容赦なく続けた。
「誤差じゃない。必然だ」
声は低く、冷静だった。
「異世界とこちらでは、物理法則も、時間の流れも、存在の"重さ"も違う。そこへ千人分の人間と魔力を一気に通そうとすれば、座標は揺らぐ」
センパイは、俺たちの足元――歪んだ床を指差した。
「今、校舎が侵食されているのが証拠だ。ゲートは"こちら側"を基準に固定され始めている。つまり」
凛が、はっと息を呑む。
「……アンタたち、もう帰り先が"日本"になりかけてるってこと?」
黒板が、ゆっくりと沈黙した。
やがて、震えるような文字が浮かぶ。
『 …… 』
『 そ れ で も 帰 る し か な い 』
『 こ こ に 残 れ ば 死 ぬ 』
『 狭 間 は 、 魂 か ら 削 れ る 』
『 も う 時 間 が な い 』
"もう3人死んだ"。
その一文が、今になって重くのしかかってくる。
俺は歯を食いしばった。
「……だからって、こっちを巻き添えにしていい理由にはならねぇだろ」
『 知 っ て る 』
その返答は、今までで一番短かった。
『 で も 、 他 に 方 法 が な い 』
その時だった。
ゴトリ、と校長室の壁が鳴った。
空気が一瞬、重く沈む。
窓の外の亀裂が、また一段階、広がったのが分かった。
センパイが、静かに息を吐く。
「……なるほど」
彼は俺と凛を振り返った。
「事態は、想定より悪い」
「悪いって……どれくらい?」
「豪徳寺たちは、すでに"後戻りできない位置"にいる。今夜、ゲートを開かなければ、確実に全滅する」
凛が拳を握りしめた。
「じゃあ……」
「そして、開けば」
センパイは、はっきりと言った。
「この学校と、我々が消し飛ぶ」
最悪の二択。
どちらを選んでも、誰かが死ぬ。
俺は、黒板を睨みつけた。
「……なぁ、豪徳寺」
チョークを強く握る。
「お前さ」
一拍置いて、俺は書いた。
『 ま だ 「 帰 る 」 以 外 の 選 択 肢 を 考 え る 気 は な い か ? 』
黒板の向こうから、すぐには返事が来なかった。
代わりに、空が、また軋む音を立てた。
時間は、確実に、残酷な速度で進んでいる。
――ここからが、本当の分岐点だった。
*
沈黙は、長くは続かなかった。
黒板に、新たな文字が浮かび上がる。
『 選 択 肢 な ど な い 』
『 校 舎 を 「 器 」 に す る 』
『 お 前 た ち は 外 へ 逃 げ ろ 』
俺たちは絶句した。
逃げろと言われても、外は結界で塞がれている。この学校の外に出ることはできない。
つまり、校舎を消滅させるということは、中にいる俺たちごと消えるということだ。
「……ふざけんな」
俺は低い声で言った。
「対話を持ちかけた俺の答えがそれかよ」
ホワイトボードの文字が、激しく波打った。
『 俺 た ち は 世 界 を 救 っ た 勇 者 だ ぞ ! 』
『 選 ば れ な か っ た お 前 ら が 、 犠 牲 に な る の は 当 然 だ ! 』
SOS(救難信号)なんかじゃなかった。
「知ってる」と言いながら、結局はこれだ。
追い詰められた者の、身勝手な生存本能。
カチッ。
隣で、凛が指先に炎を灯す音がした。
彼女の瞳が、怒りで揺らめいている。
「……当然? ふざけないでよ」
凛が吐き捨てる。
「あたしたちは、ここで生きてるの。ご飯食べて、プール入って、笑って……必死に生きてるのよ。それを『残り物』だから死ねって? 何様なのよ!」
凛の感情に呼応するように、指先の炎が大きく燃え上がる。
「カケル君」
センパイが俺を見た。
「返事を書いてやれ。我々の意思表示を」
俺は頷き、ホワイトボードの前に立った。
黒いインクの文字が、威圧するように俺を見下ろしている。
俺はイレイザー(ホワイトボード消し)を掴むと、豪徳寺の身勝手な主張を、力任せに擦り消した。
キュッ、キュッ、キュッ!
黒いインクが消え、白い盤面が戻る。
そこに、俺は太いマーカーで、たった一言だけ書き殴った。
『 断 る 』
一瞬の沈黙。
そして。
バァァァァンッ!!
ホワイトボードが内側から破裂し、破片が飛び散った。
通信途絶。
いや、決裂だ。
「……言ったな、あいつら」
俺はマーカーを投げ捨てた。
「俺たちの学校を燃料にするだと? 上等だ。指一本触れさせてたまるか」
窓の外を見る。
空の亀裂が、限界まで広がろうとしている。
そこから漏れ出る魔力が、巨大な腕のように校庭へと伸びてきていた。
「準備はいいか、二人とも」
「いつでもいけるわ」
「機材のセッティングは完了している」
俺は壊れたホワイトボードを背にして、宣言した。
「約束しただろ。三人とも絶対に死なないって」
凛とセンパイが頷く。
あの夜交わした約束。それが、俺たちの結束の証だ。
「これより、対異世界防衛戦――『最強の文化祭』を開催する!」




