16時間目 空の亀裂
その朝、俺が目を覚ましたのは、小鳥のさえずり(校内放送)でも、東雲センパイのコーヒーの香りでもなかった。
ジジッ……ジジジジッ……。
不快なノイズ音だ。
入り口を見張るジェームズMk-Ⅱ(生首扇風機)が、首振り機能の限界を超える速度で小刻みに震え、異常な警戒音を発していた。
「……うるさいな、どうしたんだよ」
俺は眠い目をこすりながら体を起こした。
隣のソファでは、凛がまだ毛布にくるまって寝ている。昨夜、彼女が打ち明けてくれた「孤独」のことが頭をよぎる。守ると決めたんだ。
「カケル君。窓から離れるんだ」
デスクに座っていたセンパイが、鋭い声で警告した。
彼は徹夜していたらしい。目の下にクマを作りながら、PCの画面と窓の外を交互に見ている。
「センパイ、何が……」
昨夜の予言が頭をよぎる。「明日か明後日には、空が割れる」。
まさか、もう――。
俺がカーテンの隙間から外を覗こうとした、その瞬間だった。
バキィィィィィィィンッ!!!
鼓膜が破れそうな轟音が、世界を揺らした。
雷なんてレベルじゃない。まるで、巨大なガラス板をハンマーで叩き割ったような、硬質で絶望的な破壊音。
「きゃあッ!?」
凛が飛び起きる。
俺は窓の外を見て、言葉を失った。
空が、割れていた。
学校を覆っていた灰色の霧のドーム。その天井部分に、巨大な「亀裂」が走っていたのだ。
あの「黒い線」が、遂に限界を超えた。
スマートフォンの画面が割れた時のように、不規則なヒビが空一面に広がり、その隙間から禍々しい紫色の稲妻が漏れ出している。
「嘘だろ……空が、割れるなんて」
「恐れていた事態だ」
センパイがPCを閉じ、冷静に(だが手は震えていた)告げた。
「外部からの『こじ開け』だ。この結界の耐久限界を超えている」
ズズズズズズ……!
地鳴りが響く。校長室の棚から高級な壺が落ちて砕けた。
校舎全体が悲鳴を上げている。
その時、廊下からあの音が聞こえてきた。
キィィィィィィン……!
黒板だ。2年B組の教室から、チョークが走る音がここまで響いてきている。
俺たちは顔を見合わせ、揺れる廊下を走った。
*
教室に飛び込んだ瞬間、黒板はすでに紫色の光を帯びて発光していた。
チョークの文字というより、空間そのものに刻印された呪文だ。
今までとは桁違いの魔力が、教室を圧迫している。
『 帰 還 の 儀 式 を 開 始 す る 』
『 ゲ ー ト を 開 く ! 受 け 入 れ ろ ! 』
豪徳寺の文字だ。
だが、いつもの愚痴でも、泣き言でもない。
これは一方的な「宣言」――いや、「侵攻命令」だった。
「……バカか、あいつらは!」
東雲センパイが珍しく声を荒らげた。
「1000人規模の質量と、異世界の膨大な魔力エネルギーだぞ!? それを正規の手順も踏まずに、無理やり一点に集中させて送り込むつもりか!?」
「それって、どうなるんですか!?」
「決まっている! 受け皿となるこの学校が、エネルギーの許容量を超えて消し飛ぶ!」
消し飛ぶ。
つまり、俺たちも死ぬ。
俺はチョークを掴み、黒板に叩きつけた。
『 やめろ! こっちが壊れる! 』
『 学校ごと吹き飛ぶんだよ! 中止しろ! 』
俺の書き込みに対し、返信は無慈悲だった。
『 知 っ た こ と か ! 』
『 こ っ ち は 限 界 な ん だ ! 』
『 俺 た ち は 帰 る ! 邪 魔 を す る な ! 』
自分勝手な理屈。
でも、向こうも必死なのだろう。泥水を啜り、命がけで戦ってきた彼らにとって、俺たちの都合など知ったことではないのだ。
バリバリバリッ!!
教室の窓ガラスが一斉にヒビ割れた。
紫色の光が強まり、空間そのものが歪み始める。
「きゃっ!?」
凛が短く悲鳴を上げた。
彼女の近くにあった教卓が、音もなく「ねじれた」のだ。木製の教卓が、まるで濡れた雑巾を絞るようにグニャリと歪曲し、消滅した。
空間の侵食。
これが俺たちの身に起きれば、即死だ。
「くそっ……ふざけんな!」
俺は歪み始めた空間に向かって手を突き出した。
能力『固定』。
教卓があった場所、広がりつつある「歪み」の淵を掴むイメージ。
「止まれぇぇぇッ!!」
ガギィッ!
脳が揺れるような反動。
重い。本棚や人体模型とは比較にならない。巨大なプレス機を素手で支えているような重圧が腕にかかる。
「ぐぅ……ッ! センパイ、凛! 離れろ!」
「カケル!」
凛が叫ぶ。だが、彼女も指先に炎を灯し、いつでも戦える姿勢を取っていた。
怯えていない。震えてはいるが、逃げようとはしていない。
「あたしも何かする! 何をすればいい!?」
「今は待機だ!」
センパイが叫ぶ。
「私の計算では、このままだとあと数時間で空の亀裂が完全に開き、ゲートが接続される。そうなれば、衝撃波で全てが終わる! だが、逆に言えば数時間の猶予がある!」
黒板には、豪徳寺の文字が勝ち誇ったように浮かび続けている。
『 あ と 少 し だ 』
『 待 っ て い ろ 、 日 本 』
俺たちの楽園が、壊される。
美味しいご飯も、温かいプールも、3人で笑い合った夜も。
「選ばれた」勇者たちの身勝手な帰還によって、踏み潰されようとしている。
俺は歯を食いしばり、歪みを一時的に固定したまま、二人を振り返った。
「……させるかよ」
「え?」
「俺たちの居場所だ。勝手に入ってくんじゃねえ……!」
俺の中で、何かが切れた。
逃げる? 隠れる?
違う。
ここは俺たちの学校だ。
俺たちが守り、俺たちが楽しんだ城だ。
それを壊そうとするなら――たとえ勇者だろうが、大賢者だろうが、全力で拒絶してやる。
「約束しただろ。絶対に死なないって」
凛がハッと息を呑む。
そうだ。あの夜、三人で交わした約束だ。
「センパイ、策はあるか?」
「……ある。だが、無茶苦茶だぞ」
「上等だよ」
俺はニヤリと笑った(きっと引きつっていたと思うが)。
空の亀裂から降り注ぐ紫色の光の下で、俺たちの「反撃」が始まろうとしていた。




