15時間目 凛の秘密
換気扇のフードが歪んだ瞬間、俺たちは皿も片付けずに家庭科室を飛び出した。
背後で何かが「ゴトリ」と落ちる音がしたが、振り返らなかった。
東雲センパイがジェームズMk-Ⅱ(生首扇風機)の感度を最大にし、バリケードを二重に強化した。
だが、あの「調理工程に近いリズム」は、それっきり止んでいた。
何かが俺たちを「品定め」して、今は見逃しただけなのかもしれない。
深夜2時。
センパイは「地下の魔力振動データの解析をする」と言って、デスクで計算に没頭している(というか、半分寝ながらペンを走らせている)。
俺はソファに横になっていたが、目が冴えて眠れなかった。
隣のソファを見ると、凛も起きているようだった。膝を抱え、窓の外の霧をじっと見つめている。
霧の向こうには、あの「黒い亀裂」がある。昨日よりも、太くなっている気がした。
「……眠れないのか?」
小声で話しかけると、凛はビクッと肩を震わせ、こちらを向いた。
「……アンタこそ」
「昼間、コーラ飲みすぎたからな」
「バカね」
凛は小さく笑ったが、その表情はどこか寂しげだった。
月明かりのない部屋で、ジェームズMk-Ⅱの赤いLEDだけが、彼女の横顔を微かに照らしている。
凛は窓の外の霧から目を離さないまま、しばらく黙っていた。
「ねえ、カケル」
「ん?」
「アンタ、あたしのこと……本当はどう思ってた?」
唐突な質問だった。
どう思ってた、というのは「このサバイバル生活が始まる前」のことだろう。
「どうって……そりゃあ、『2年C組の桐島凛』といえば有名人だしな」
「『狂犬』とか『ヤンキー』とか?」
「まあ、否定はしない。目つき悪いし、いつも一人で屋上にいるし、裏サイトじゃ『目が合うとカツアゲされる』とか書かれてたし」
俺が正直に言うと、凛は深いため息をついた。
「……カツアゲなんて、したことないわよ」
「だろうな。今日の料理見てりゃわかるよ。あんな家庭的なヤンキーはいねーよ」
俺が言うと、凛は膝に顔を埋めた。
もごもごと、こもった声が聞こえる。
「……あたしさ、口下手なのよ」
「え?」
「目つきが悪いのは生まれつき。加えて、極度の人見知り。入学式の日に、緊張して睨むような顔になっちゃって……隣の席の子に泣かれたの」
それが全ての始まりだったらしい。
『怒らせるとヤバい』という噂が独り歩きし、誰も近づかなくなった。凛自身も、どう接していいかわからず、威嚇するような態度をとってしまい、孤立を深めた。
「屋上にいたのも、サボりたかったわけじゃないの。教室にいると、みんなが怖がるから……一人で弁当食べてただけ」
「……そうだったのか」
あの時、俺が屋上で出会った「不機嫌そうな少女」は、ただ寂しくて寝ていただけだったのか。
「トイレにこもってた俺と、似たようなもんだな」
「一緒にしないでよ。アンタはただの腹痛でしょ」
凛が顔を上げて、拗ねたように唇を尖らせる。
その顔は、狂犬なんかじゃなかった。
どこにでもいる、少し不器用なだけの普通の女子高生だ。
「……あたしね、本当は怖いの」
凛が自分の腕を抱きしめる。
「化け物も怖いけど、それ以上に……もし元の世界に戻れたとして、また『一人』に戻るのが怖いの。こっちの世界のほうが、アンタたちと普通に喋れるし、料理も食べてもらえるし……居心地がいいなんて、最低だよね」
震える声。
それは、彼女がずっと抱えていた「孤独」という名の弱音だった。
俺は体を起こし、彼女の目を見た。
「戻らないさ」
「え?」
「元の世界に帰っても、もう一人の屋上生活には戻らないって言ってんだよ」
俺は少し照れくささを隠しながら、続けた。
「俺は、お前の作った飯が好きだし、背中を守ってくれる『発火』も頼りにしてる。……狂犬だか何だか知らないけど、俺にとっては最高の『相棒』だよ」
しばらく、凛は何も言わなかった。
赤いLEDの点滅の中で、その瞳が潤んでいるのがわかった。
「……バカ。調子いいこと言って」
「本心だっての」
「……ふん」
凛は顔を背けたが、その耳が真っ赤になっているのは隠せていなかった。
彼女はクッションを抱き直し、ボソッと言った。
「……覚えとくから。帰ったら、購買の焼きそばパン奢りなさいよね」
「はいはい、善処します」
重苦しかった空気が、ふわりと軽くなった気がした。
俺たちは再びソファに身を沈めた。
今度は、背中合わせではなく、お互いの体温を感じられる距離で。
しばらくして。
凛の寝息が聞こえ始めた頃、机の方で東雲センパイが「ふむ」と小さく声を上げた。
「……カケル君、起きているかね」
「……ええ。聞いてました?」
「野暮なことはしない主義だ。だが、これを見てくれ」
センパイが指差したノートPCの画面(校内LANで観測した魔力波形)には、ギザギザとした不吉なグラフが表示されていた。
「先ほどの家庭科室の揺れは、ただの魔力干渉ではない。……窓の外の『黒い亀裂』、覚えているか?」
「ああ、あれ……日に日に太くなってますよね」
「空間の裂け目だ。あれが広がりつつある。異世界側からの『無理やりな帰還』の試みが、この閉鎖空間に限界以上の負荷をかけている」
俺は息を呑んだ。
「このままだと……どうなるんですか」
センパイは眼鏡の位置を直し、淡々と、しかし残酷な事実を告げた。
「明日か明後日には、空が割れる。文字通りの意味でな」
俺は隣で眠る凛の寝顔を見た。
安らかに眠っている。もう一人じゃないと安心したように。
(守らなきゃな)
俺は拳を握りしめた。
彼女が恐れる「孤独」からも、これから来る「崩壊」からも。
約束したんだ。絶対に死なない。見捨てない。
夜明けは近い。
だがそれは、俺たちの戦いが佳境に入る合図でもあった。




