14時間目 家庭科室の鉄人
プールで汚れとストレスを洗い流した俺たちは、猛烈な空腹に襲われていた。
体育倉庫の脇を通り抜けるとき、センパイが目を光らせて確認したが、まだ「覚醒」の気配はない。
今のうちだ。
向かった先は、管理棟1階の家庭科室。
この学校で唯一、大量の「生鮮食品」が眠る場所だ。
「……む。これは緊急事態だ」
業務用の大型冷蔵庫を開けた東雲センパイが、深刻な顔で唸った。
俺と凛が後ろから覗き込む。
「どうしました? 食料、尽きてます?」
「逆だ。余っている。だが――」
センパイは牛乳パックと卵のパックを取り出した。
「牛乳の賞味期限が『今日』までだ。卵も明日で切れる。野菜室のほうれん草も、そろそろシナシナになり始めている」
全校生徒がいなくなって数日。
乾パンや缶詰は持つが、生鮮食品のタイムリミットは待ってくれない。
「捨てるのは科学者として、いや人間として許されない。よって、これらを一気に消費する」
「消費するって……牛乳5本と卵3パックありますよ? 一気飲み?」
「バカね」
呆れた声を上げたのは、凛だった。
彼女は腕まくりをすると、冷蔵庫の中身をテキパキと調理台に並べ始めた。
「牛乳、卵、ほうれん草、ベーコン、使いかけのチーズ……。あと、棚にあるホットケーキミックスと強力粉」
凛は棚からピンク色のエプロンを取り出すと、慣れた手つきで身につけた。
濡れた髪をシュシュでポニーテールにまとめる。
その姿は、いつもの「不良少女」とはまるで別人だった。
「……え、凛? 料理できんの?」
「はぁ? あたしの家、両親共働きで妹が二人いんのよ。小学生の頃からご飯当番やってたわ」
凛は包丁を手に取ると、トントントンッ! と軽快なリズムで野菜を刻み始めた。
速い。そして均一だ。
俺とセンパイは顔を見合わせた。
「……意外なスペックだ」
「ギャップがすごいですね」
「なんか言った!?」
「いえ! お手伝いします! シェフ!」
こうして、賞味期限切れ食材救済のための『在庫一掃フルコース』作りが始まった。
*
メニューは凛の独断で決まった。
『たっぷりほうれん草とベーコンのキッシュ』。
『牛乳消費のための特濃クリームシチュー』。
そしてデザートは『ふわとろフレンチトースト』だ。
俺は野菜を洗い、センパイは持ち前の『読解』能力でサポートに回る。
「凛君、オーブンの予熱が甘い。あと3度上げたほうが、生地の膨張率が最適化される」
「細かいわね! ……あ、でも確かにそのほうがいいかも」
「シチューのルーだが、市販のものよりバターと小麦粉から作ったほうが粘度が出る。配合比率は私が計算しよう」
科学者の理論と、家庭の主婦(?)の感覚。
二人の連携は予想以上に噛み合っていた。
そして、凛の能力『発火』も料理に活かされた。
「焼き目をつけるわよ……!」
ボッ!
指先から繊細な炎を出し、グラタン皿のチーズを炙る。
バーナーよりも細かい調整ができる直火焼き。香ばしい焦げ目がつき、チーズがパチパチと音を立てる。
「すげぇ……能力の無駄遣いだけど、美味そうだ」
調理開始から1時間。
家庭科室のテーブルには、信じられないほど豪華な料理が並んだ。
「完成!」
黄金色に焼き上がったキッシュ。
具だくさんの真っ白なシチュー。
甘い香りを漂わせるフレンチトースト。
「い、いただきます!」
俺はスプーンを掴み、シチューを口に運んだ。
――美味い。
濃厚なミルクのコクと、野菜の甘みが口いっぱいに広がる。
レトルトやカップ麺とは違う、「手作り」の温かさが五臓六腑に染み渡る。
「……なんだこれ。店出せるぞ」
「大げさよ。材料放り込んだだけだし」
凛はそっぽを向いているが、耳が赤い。
自分で作った料理を美味しそうに食べてもらえて、満更でもないようだ。
と、その時。
俺たちの優雅なディナータイムに水を差すように、教室の隅にある黒板(家庭科室にもある)が音を立てた。
ガリッ……ガリッ……。
お客さんだ。
『 パン が 硬 い 』
相変わらず、悲痛な文字が浮かぶ。
『 歯 が 折 れ そ う だ 』
『 こ の 世 界 の 携 帯 食 ( 黒 パ ン ) は 石 の よ う に 硬 い 』
『 ス ー プ は 塩 味 し か し な い 』
『 甘 い も の が 食 い た い 』
豪徳寺の悲鳴に、俺は同情……するふりをして、調理台の上の光景を実況し始めた。
「あー、豪徳寺。悪いな、こっちも大変なんだよ」
俺はチョークで書き込む。
『 賞味期限切れ間近の卵と牛乳が大量にあってさ。処分に困ってるんだ 』
すぐに返事が来る。
『 捨 て る な ! 』
『 こ っ ち に 送 れ ! 』
俺はナイフを入れたフレンチトーストを一切れ持ち上げた。
卵液が染み込んでプリンのようにトロトロだ。
それを口に運ぶ。
「――ッ!!」
甘い。濃厚なカスタードのような風味が口の中で爆発する。
外側のカリカリと、中のふわとろ食感のコントラスト。そこに冷たいバニラアイスが絡み合う。
「……ん、美味しい」
凛も自分でパクついている。
俺はこの感動を共有すべく、黒板に向かった。
『 ごめん豪徳寺。パンが硬いって言ってたよな? 』
『 こっちのパンは、なんか噛まなくても溶けるわ 』
『 甘くて、バターたっぷりで、最高だわ 』
そして、とどめの写真を転送する。
皿の上に残った、黄金色のシロップと溶けたアイスの画像を。
ギギギギギギギッ!!!
黒板全体が震えた。
『 貴 様 ら ァ ァ ! 』
『 俺 は ! 勇 者 だ ぞ ! 』
『 な ぜ そ ん な に 優 雅 な ん だ ! 』
『 ス イ ー ツ 食 わ せ ろ ! 』
文字が涙で滲んでいるように見える。
向こうの世界の「黒パン(石)」と、こちらの「フレンチトースト(雲)」。
格差社会ここに極まれり。
『 桐 島 さ ん ! ? そ の 格 好 は な ん だ ! 』
『 俺 に 作 れ ! 勇 者 命 令 だ 、 今 す ぐ 嫁 に 来 い ! 』
豪徳寺の精神が崩壊しかけている。
特に、調理エプロン姿の凛への食いつきが凄い。
「……キモッ」
凛は一言吐き捨てると、黒板消しで文字を乱暴に消した。
「嫁になんて行くわけないでしょ。あたしが料理作るのは、あたしの仲間だけよ」
言いながら、彼女は少し照れくさそうに、俺の皿にシチューを継ぎ足してくれた。
俺たちは満腹になるまで食べた。
残った食材もすべて下処理をして冷凍保存に回す。これでしばらくは食いつなげる。
「ごちそうさまでした」
俺は手を合わせ、黒板を一瞥した。
文字盤には、呪詛のような文字が埋め尽くされているが、俺たちは満足感で満たされていた。
――だが。
この時の俺たちは、満腹感で少し気が緩んでいたのかもしれない。
「……ねぇ、今の」
凛がスプーンを止める。
白いシチューの表面に、ゆらりと小さな波紋が広がっていた。
「気のせいじゃない。一定の周期だ」
東雲センパイが、ゆっくりと立ち上がる。
目が淡く光り、『読解』が起動した。
ズン……ズン……。
再び、床の奥から振動が伝わってくる。
今度は、はっきりとした"間"があった。
「……拍動だな。いや、違う。もっと規則的だ」
センパイは天井ではなく、足元――床下を睨んだ。
「混ぜる、叩く、煮込む……調理工程に近いリズムだ」
「ちょっと待って。それ、嫌な想像しか浮かばないんだけど」
凛がスプーンを置き、無意識に包丁から距離を取る。
その瞬間だった。
カン……。
家庭科室の奥、調理準備室の扉の向こうから、金属が打ち合わされる乾いた音がした。
――お玉と鍋が触れ合うような音。
カン、カン……カン……。
ゆっくり。
だが、確実に近づいてくる。
「……地下じゃない」
センパイが低く言った。
「もう、この階にいる」
次の瞬間、換気扇のフードが、内側からベコリと歪んだ。




