13時間目 プールの楽園
体育館の裏手を抜け、俺たちはプールへと向かった。
凛が警戒していた体育倉庫は、幸いにも静まり返っていた。
「魔力反応なし。ここはまだ『覚醒』していないようだ」
センパイの『読解』が、倉庫内をスキャンする。
跳び箱もマット運搬車も、今のところはただの無機物だ。
「今のうちに用事を済ませよう。いつ動き出すかわからない」
俺たちは足早にプールサイドへ向かった。
*
6月。本来ならプール開きの時期だ。
25メートルプールには、並々と水が張られていた。
ただし、緑色に濁り、枯れ葉が浮いている。
「汚っ。これに入るの? ドブじゃん」
凛が顔をしかめる。
「そこで科学の力だ。理科室から持ってきた『凝集剤』と『次亜塩素酸ナトリウム』を使う」
センパイはプールサイドに簡易的なろ過装置を設置し、薬品を投入した。
ブォォォォン……!
ポンプが唸りを上げ、濁った水を吸い上げ、フィルターを通し、再びプールへ吐き出す。
見る見るうちに、緑色の濁りが消え、透明度が増していく。
「あとは水温だが……ボイラー室が生きていれば、パイプを通して温水を引ける」
「俺、見てきますよ」
俺はボイラー室へ走った。
幸い、ボイラーは魔力の影響で自動運転を続けていた。バルブを開けると、温水がパイプを通ってプールへ流れ込む。
数十分後。
そこには、澄んだ温水プールが完成していた。
灰色の霧に閉ざされた世界で、そこだけがオアシスのように青く輝いている。
「すげぇ……これなら体も洗える」
「4日分の汗を流せるな。衛生状態の悪化は、病気と士気の低下を招く」
そう。お風呂だ。
学校の水道は止まっている。飲み水はペットボトルで確保しているが、体を洗うほどの余裕はなかった。
汗拭きシートで誤魔化してきたが、それも限界だった。
「問題は『着るもの』だが……」
俺たちは制服かジャージしか持っていない。
更衣室を探したが、生徒のスクール水着はすべて各自が持ち帰っていたらしく、ロッカーは空だった。
「演劇部の部室が近い。そこに衣装があるはずだ」
*
俺とセンパイは、男子更衣室で適当な短パン(体育祭の応援団用らしい)に着替えた。
そして、プールサイドで凛を待つ。
「……おっせーな」
「乙女には準備というものがあるんだよ」
待つこと10分。
更衣室のドアが、少し恥ずかしそうに開いた。
「……絶対、笑わないでよ」
出てきた凛の姿を見て、俺は言葉を失った。
凛が着ていたのは、スクール水着ではなかった。
演劇部が『アラビアンナイト』か何かで使ったのだろう。
光沢のあるエメラルドグリーンの布地。
いわゆる「踊り子」の衣装だ。
「な、何その格好!?」
「しょうがないでしょ! 水に濡れても大丈夫そうな服がこれしかなかったのよ!」
凛は顔を真っ赤にして、腰に巻いたパレオの裾を握りしめている。
普段の不良っぽい服装とはまるで違う、舞台衣装のような非現実的な姿だった。
「……似合ってる、ぞ」
「うるさい! こっち見んな!」
凛はヤケクソ気味に走り出すと、そのままプールに飛び込んだ。
バッシャァァァン!!
「ぷはっ! ……あ、気持ちいい」
水面から顔を出した凛が、濡れた髪をかき上げる。
その表情が、驚くほど晴れやかだった。
「温かい! それに、ちゃんとお湯の匂いがする!」
「だろう? さあ、我々も行こう」
俺とセンパイも飛び込んだ。
温かい水が全身を包み込む。4日分の汗と埃、そして恐怖という名の垢が、溶け出していくようだ。
「はぁぁ……生き返る……」
俺はプールサイドに腕をかけ、空を見上げた。
相変わらずの曇り空だが、今はそれさえも気にならない。
しばらくの間、俺たちは子供のように水を掛け合ったり、センパイがビート板代わりに持ってきた発泡スチロールで遊んだりした。
魔物も、異世界も、黒板の勇者も忘れて。
ひとしきり遊んだ後。
センパイが「ろ過装置の調整をしてくる」と言って上がり、プールには俺と凛の二人だけになった。
凛はプールの隅で、静かに水に浸かっていた。
俺は少し離れた場所から、声をかけた。
「……サンキュ」
凛がボソッと言った。
「え?」
「こういうの。久しぶりだったから」
彼女は水面を手で弾いた。
「学校ってさ、嫌いだったんだよね。うるさいし、先生はウザいし、居場所ないし。……でも、今の学校は、ちょっとだけ悪くないかも」
凛が俺を見る。
その瞳は、初めて会った時の尖ったものではなく、穏やかな光を宿していた。
「アンタたちがいるからかもね」
「……俺もだよ」
俺は照れ隠しに、水を凛の顔にパシャッとかけた。
「冷たっ! ……やったわね?」
「油断してるからだ」
「待ちなさい! 燃やすわよ!」
「プールで火は使えねーよ!」
キャッキャと追いかけっこをする俺たち。
それは、どこにでもある放課後の、ありふれた一コマのようだった。
この時間が、ほんの束の間のものだと分かっているからこそ。
俺たちは、指先がふやけるまで、この瞬間を噛み締めていた。
*
プール上がり。
サッパリした俺たちを待っていたのは、空腹という名の現実だった。
「腹減ったな……」
「お肉はもう食べたし、カップ麺も飽きたわね」
贅沢な悩みだが、食は士気に関わる。
その時、センパイが濡れた髪を拭きながら提案した。
「次は家庭科室だ。冷蔵庫に残っている食材を確認しよう」
「家庭科室……調理実習の材料とかあるかも」
「賞味期限が近いものから使わないとな」
俺は体育倉庫の方を振り返った。
まだ静かだ。だが、いつまでもそうとは限らない。
「帰りも気をつけよう。あそこが『目覚める』前に」
凛が頷いた。
その横顔には、さっきまでの無邪気さとは違う、戦士の表情が戻っていた。
俺たちは束の間の休息を終え、再び「探索」へと歩き出した。




